明るい日本の将来の予感

新年明けましておめでとうございます。

昨年は21世紀の最初の年であったが、長年続いていた米国の好景気もついに限界に達し、その上、9月11日には信じられないようなテロ事件が起こった。私の住む米国シリコンバレーでも、2000年の後半から始まった、インターネット関連ベンチャーの凋落、通信分野での過剰投資による通信サービス会社、通信機器メーカー、さらには、それらに半導体を提供する企業、製造サービスを提供する企業等が次々に苦戦に陥った。シリコンバレーを中心とする、カリフォルニア州、サンタクララ郡の失業率は、1年前の1%台という低い水準から、一気に全米平均を上回る6%以上にまで上がってしまった。

日本でも、ここ10年の景気低迷から抜けきれないばかりか、その間、何とか業績を上げてきたIT業界も、米国での通信関連過剰投資からの影響、携帯電話市場の伸びの鈍化、ハードウェアからソフトウェアへのビジネス転換の遅れ等から、IT不況と言われるまでに業績を落としてしまった。失業率も5.5%と、いままで経験したことのない高い水準となっている。このため、折角はじめた小泉首相による構造改革も、まず景気を優先させろという声に、その進み具合がやや遅くなっている気がする。

しかし、このような一見暗いばかりの状況の中で、私は明るい日本の将来を予感している。それは、日本の人々が考え方を本格的に変え始めているからである。

いままでの日本では、多くの人が、会社で働いていれば、会社が自分の人生を安泰に送らせてくれると考えていた。また、国にいろいろなことをまかせていれば、道路なども出来、生活はどんどん良くなっていくと考えていた。実際、戦後からの長い日本の経済成長は、このような「人が会社や国に身をまかせる」ことによって、社会全体がレベルアップし、先進国に追いつき、追い越してきた。ジャパン・アズ・ナンバーワンと言って、もうどこからも学ぶことはないと、一時期、日本人の多くは考えていた。

ところが、そのあたりを境に、状況がおかしくなってしまった。今や失われた10年と言われた90年代が過ぎ、21世紀に入っても、混迷は深まるばかりである。しかし、この混迷を抜け出すために、国も、会社も、そして個人も変革できれば、今までより、もっと明るい日本の将来が見えてくる。

国も会社も、今までのやり方を続けようとしていたため、随分時間がかかったが、ようやくここに来て、変革が進み出している感触がある。一番最初に変らなければならなかったのは、会社であろう。日本の雇用慣行である終身雇用と年功序列賃金を守ろうとして、会社の体力を弱め続け、それをメーンバンク等が支えていた構図が、とうとう崩壊し始めている(米国から見ると、まだまだ完全に崩れたというには、ほど遠いが)。国も、会社に雇用を守らせるための施策の見なおしを、ようやく始めた。

そして、何よりも私に明るい日本の将来を予感させるのは、個人の考え方の変化である。今までは、社員を削減する企業は世間の大きな非難のまとであった。また、痛みを国民に要求するような政府は、一気に人気が落ちたものである。ところが、今は違う。外国からやってきて、人員削減など、いままでの日本では、なかなかやれなかったことを次々に実施し、経営の極めて苦しかった日産自動車を短期間で再生させたカルロス・ゴ−ン氏は、世間から非難されるどころか、すごいことをやった人だと、日本でも高く評価されている。

小泉内閣も、国民に痛みを要求しながらも、構造改革を断行しようとしており、これに対して、日本国民はいまだ70%以上という高い支持率を保っている。これは、まさしく日本国民が、たとえ苦しくても、今までの日本のやり方を変えなければいけないのだと、本気で思い始めている証拠である。ここに、私は将来の明るい日本を予感している。

会社も大きく変らなければならない。国も大きく変らなければならない。しかし、国民がその変革を支持せず、会社や国が変革することにブレーキをかけていたのでは、社会はいつまで経っても変革しない。しかし、国民が変革を本気で求めている今、会社も国も、一気に変革を進めるべきである。

国民が変り出したと言っても、まだまだ総論賛成、各論反対の域を出ていない場合も、恐らく多いだろう。会社や国の変革もそうであるように、総論だけでなく、各論でも変革に賛成していかないと、変革は進まない。その意味で、私は、個人個人が、次のような変革をする必要があると思う。

まず、会社に勤めている人は、会社の言うことは聞くが、何でも会社頼み、会社まかせ、ということをやめる必要がある。今までは、滅私奉公という言葉もあるように、個人を殺して、会社につくし、その代わり会社にすべて面倒見てもらうという感覚が、日本の、特に大企業サラリーマンには強過ぎた。このサラリーマン根性をなくすことである。

米国でも会社に勤めるサラリーマンは多いが、日本の感覚とは全く異なる。米国のサラリーマンは、常にレイオフの可能性を意識して働いている。したがって、会社に人生をまかせるなどという感覚は、勿論ない。ちょっと極端な言い方かもしれないが、自分で自分の時間を会社に売っているという感覚である。自分を売るからには、会社に買ってもらうだけの価値が必要なことも理解している。つまり、自分が会社にとって価値がなければ、そこをほうり出されても、やむを得ないと考える。しかし、自分の価値よりも、会社に低く買われていると思えば、もっと高く買ってくれるところに移るわけである。本当の意味での実力社会である。これは大変厳しい面もあるが、ある意味、公平とも言える。

日本人とて、すべてがサラリ−マンではないし、このような米国人的な生活をしている人も少なくない。自分でビジネスをやっている人は、市場からの評価でその業績が決まる。組織に所属する人間では、野球選手などが、わかり易い例だろう。イチローが何億円とろうが、松井が何億円とろうが、人々は、すごいなあとは思っても、その実力を評価し、納得する。逆に野球選手になったが、残念ながら目が出ず、何年かして野球界を去る人間の話を聞いても、かわいそうには思っても、やむを得ないことだろうと納得する。このようなシステムをサラリーマン社会にも採用すればいいというだけの話である。野球ほど数字に単純に成果がでない場合も多いので、難しい点も確かにあるが、発想の基本は同じである。

中国は今、このような実力主義による成果報酬で、どんどん企業業績を伸ばしている。先日、飛行機で隣に座った中国人も言っていたが、中国はもはや共産主義の国などではない。むしろ日本のほうが、いまだに共産主義とまでは言わなくても、社会主義的なやり方を会社や国は残している。実力主義が究極まで進むと、ぎすぎすした世の中になる可能性もあり、また、社会の貧富の差が大きくなり過ぎるという問題点もあるが、日本の現状を考えると、そこまで急変革するとは考えにくいし、変革に合わせながら、日本にあった制度を組みたてていけばいいだろう。

国民が、単に総論だけでなく、ここまで各論賛成にたどり着くには、まだ時間がかかるかもしれないが、日本でも、若い人達の感覚は随分変わってきている。最近、ワークシェアリングというものが話題になっているが、人によって差のつかない単純労働をする人達の仕事なら、それもいいかもしれないが、そうでなければ、そこまでして会社として雇用を守り、結果として会社の効率を悪くし、個人の賃金が下がることに、今の若い人達は納得しないのではないだろうか?

人の会社や社会からの解放は、日本人を個人として伸ばす絶好の機会でもある。私も以前、10数年間、日本で大企業のサラリーマンをやっていた。外資系だったので、純日本的な会社に比べれば、はるかに自由だったと思うが、それでも、社員のほとんどが日本人だったため、個人個人が自分を押さえることを求められ、何か窮屈に感じたことを記憶している。

また、日本人は、会社以外でもあまりにも回りの目を気にし過ぎるところがあり、お互いがお互いの行動を制約し過ぎてきた。これもこの機会に変革できれば、もっと自由な、「自分らしさ」を生かした人生を、個人個人が送ることが出来るに違いない。個人というものを大切にし、しかしながら個人としての他人も尊重し助け合う、権利だけを主張せずに自己責任をしっかり持てば、身勝手な個人主義ではない、いい意味での個人尊重社会を作ることが出来るのではないだろうか。

最近、日本では小泉内閣が言っている痛みについての話をよく聞く。日本の構造改革が痛みを伴うことは、疑う余地がないが、痛みという言葉だけが広がることは、あまりいいことではない。それは、「痛み」が「耐える」につながってしまうからである。今、日本の人々に求められているのは、「痛みに耐える」ことではなく、今までの考え方を変える「自己変革」である。このような自己変革が国民一人一人に広まったとき、明るい日本の将来は近い。

(02-1-1)


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