[ビタリーさんは、ウクライナの「チェルノブイリの家族の救援」副代表ガリーナさんの息子さんです。4月のチェルボナ・カリーナコンサートには、訪問団の団長として来日しました] ビタリー:チェルノブイリ原発が事故を起こしたとき、私は赤い炎を見ました。家が9階だったので、家の窓から見えたんです。ヨ−ド剤を飲んだ記憶はありません。事故のあとキエフにやって来て、私たちは病院の中にすぐには入れてもらえませんでした。体を4回ぐらい洗濯石鹸で洗えと言われて。1カ月間病気で入院していました。 オクサーナ:事故当日の朝、隣の人が父に、子どもを学校へやっては駄目だよと言いましたが、私の父は学校へ行。学校へ行くと、外へ出てはいけません、校庭へでてはいけませんと言われました。春で暖かかったけど部屋の中にいました。そこでなにか訳のわからない薬をのまされました。授業が終わって家へ帰りました。原発事故のことは何か火事があったというくらいで、深刻な事があったとは思わなかったです。家へ帰る道すがら、小さな子どもたちが砂場などで遊んでいました。暖かかったので、裸足でした。
[ウクライナの救援団体「チェルノブイリの核の傷跡」で働くラリーサさんは、事故当時プリピャチに住み、キエフへ避難してきました。97年春に来日した団体の代表コズロバさんの娘さんです] ラリーサ:チェルノブイリ事故の前、私は原発のことを誇りに思っていました。「チェルノブイリ原発は電気を、光を作っているのよ」と祖母に言っていました。学校でプリピャチについて「アトムの街」という名前の作文をよく書きました。 事故があったその日、学校から帰った私は弟と一緒に鉄道に乗って、おじさんの菜園へ遊びに行きました。その駅が原発のすぐ近くでした。 避難先の村へ5月のはじめに医療団が派遣されてきました。そして街のガンセンターへ避難民全員が収容されて検査が行なわれました。放射線量を計測され、洗いなさいと言われて体を洗って、それでももう一回洗ってきなさいと、何回も洗わされました。衣服も着替えました。そして避難者全員がいましたが、私ひとりだけ残されました。そのときはじめて恐ろしさというものをひしひしと感じました。ただひとり、鉛で仕切られた部屋の中にとり残されました。医師たちもどうしたらいいかわからないで、当時そういう処置をとったと思いますが、ひとりで閉じ込められて、とても怖かったです。医師たちが入ってくるときには下に水があって、そこで足を洗って入ってくるんです。2、3日後には危険はないということになり、一般の病室に収容されました。私は1カ月入院していましたが、1日に3回体を洗いました。洗えば放射能がとれると医師が言ったのですが、いくら計っても放射能値はおちませんでした。いつになったら放射能が抜けるのかなと思いました。 その後、弟が病気になり、母はフランクウクライナ協会へ行きました。そこで行なっているのは病状の認定だけで、治療行為はされていませんでした。病状がわかるだけで、それがいったいなにになるのか、治療ができなければなんにもならないと母は訴えました。 幸い弟はフランスで手術を受けることになりました。これはウクライナの子どもが外国で行なった手術としては第一のケースだったと思います。しかも手術は無料でした。これが実現する前には、母は地下鉄の通路で「みんなでお金をだしてください」と書いた紙を持って必死に手術資金の援助を頼んだりしていました。 その後、母と私は弟だけでなく他の病気の子どもたちを助ける運動をはじめました。 外国で手術を受けた弟は有名になり、母のところへ毎日電話がかかってくるようになりました。子どもを助けるためにどうやってフランスと交渉したらいいのかという電話です。親子で訪ねてきて、泣きだす母親もありました。フランスと善良な人々に助けられた私たちは、感謝の心からそのような母親のお願いを断りきれませんでした。 私たちの救援団体は、92年から3年間は公的な組織ではありませんでしたが、母親たちがどんどん集まり、最高会議にも訴えかけました。残念なことにそういった母親の数はどんどん増えて、95年にはひとつの法的な役割を持つ団体になりました。 私の髪はふさふさだったのに事故のあと、髪の毛がだんだん抜けて、気絶したりすることもあり、とても怖い思いをしました。私の課題は、病気の子どもたちと、その両親に、希望と、希望があることを信じることを教えたい。一番恐ろしいことは、彼らが絶望してしまうこと、希望を失ってしまうことなのですから。
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