おにぎり、そうめんチャンプルー(炒め)、うどん、餃子・・・といった料理をしました。日本料理といえば、目で見ても美しい料理いうイメージがありますが、とにかく形式にこだわらずに楽しく子どもたちと一緒にやりました。定員以上の子供たちがくるのも、日本料理への関心のあらわれだと思いますが、いざとなると大変でした。子供たちが包丁で手を切らないかとハラハラしたり、一人一人何かしてもらおうと考えても45分の時間枠に気を取られ、うどんの時はもう大変で、小麦粉を顔につけたり、花咲かじじいのようにふりまくなど、教室から出る頃には顔が真っ白になりながら笑顔で帰っていく子供たちの姿や、調理法・分量・代用品(わかめなどは手に入らないので)は何かと、細かく書いている真剣な目つきは忘れません。 最終日の教室では、子供たちに日本料理の先生になってもらいました。とまどう様子も見られましたが、経済的・家庭的にも苦しく、笑顔を見せることがなかった子が自分なりに考え、みんなに料理を教えていました。そのときの笑顔がよかったと思いました。今、その子が家族の元に帰っても同じような笑顔でいるのか、また笑わなくなったんだろうかと気にしてしまう日々です。 最初、応募したときに気になることが一つありました。それは、自分が生まれつき耳の障害を持っているということです。日本料理で子どもたちを喜ばせたらいいなあ、と思っていましたが逆に子どもたちとふれあうことによって、自分が励まされました。その一人が生まれつき片目が見えない兄を持った子どもです。彼女自身、放射線治療のために何度も入院し、つらさをおぼえた子です。 自分の場合も2歳の時に手術をし、近年10回程の手術をしました。彼女と同様、何度も入院を繰り返したのでそのつらさがわかるというか、本当につらいことがあったんだと思いました。彼女の場合、被爆者に対する補償が、家族みんなの分をあわせても月10ドルしかなく、通院、薬代、生活をしているのに本当に足りているのか。どうやって生きていくのか。国策のために弱い立場にある人々を切り捨てるのかと怒りがこみ上げました。僕は日本で生まれ、両親に恵まれていたので、何度も手術することによってある程度聴力が回復したのに彼女は何らの生きるための社会保障すらないのかと思うと、いてもたってもいられず、できることはしたいという思いで里親になりました。今まで自分が耳の障害をもっているというだけで、逃げたり、どうでもいいという気持ちがありました。今回、行けてよかったと思うのは何よりも彼女に出会えたことで、自分の病気に対して前向きに考えることができたことです。 フェスティバルの後、彼女は泣き出してしまいました。どうしたんだろうと、手を握ってあげると両手で握り返し、汗をかくほど握りしめた手から伝わったものとは、3年前に甲状腺手術をして以来、放射線治療を続けたつらさ、くるしさ、怖さ、そして自分の里親になってくれた嬉しさ、喜びを感じました。 僕は阪神大震災のボランティアもしていますが、最低限の社会保障もされないまま生活をしているのに、仮設住宅に取り残された人たちはどうなるのでしょうか。1人も取り残さない思いで炊き出しを行なってきました。チェルノブイリの子どもたちでも同じことだと思います。すべての子どもたちが幸せになるために、できることはあきらめることなく、これからも何かをしていきたいと思います。 |