「オレンジひとつを3人で〜ナターシャを迎えて〜」 「避難するといっても、私たちにはどこにも行く方法も可能性もありません。薬や通院は無料だけれども、定期的な検診はありません。ナターシャは障害者に認定されているので、部屋代、電気代は半額になりますが、それでも生活は大変苦しいです。ベラルーシでは、あまり果物がとれずモルダヴィアやウクライナから運ばれるため、高価です。私たち家族は、1カ月に1度しか果物を食べません。それもオレンジひとつスイカ1切れを3人で分けて食べます。日本での生活は、ただまるで夢の中のようです。ベラルーシは地獄です。ただ家族や孫娘に会いたい、なつかしいという気持ちを除けば、帰りたくありません。」 ナターシャに、病気のことをなるべく忘れて楽しく過ごさせたいのが私たちの目的でしたから、ほとんどといって良い程に、事故と事故後の生活について、尋ねませんでした。 しかし、支援下さっている皆さんを始めとし、日本社会に、チェルノブイリ原発事故の実態を伝えるのが、私たちのもう一つの使命です。 はじめに記した言葉は、日を改めて行われたインタビューに、母親のナジェジダがポツリポツリと答えたものの一部です。 その他に、事故後しばらくの間何の報道もなく、恐ろしい危険の中にそれと知らず暮らしていた事や、ナターシャの病気も、最初診察を受けた病院では、手術の必要さえ知らされなかったため、処置が遅れた事、ナターシャの手術後家族全員の健康診断を受けた事など話してくれました。 そして、ベラルーシの経済状況は現在も酷いインフレで、1000ルーブル紙幣でバス代にしかならず、10万ルーブルで卵30個といった具合です。たとえ奥中山での滞在が夢のようであったとしても結局汚染の町に返すのであれば、保養の意味があるのか?そんな疑問の声が囁かれるかもしれません。 けれども私は思うのです。苦境の中に孤立している人々に何よりも必要なのは、心底その身を案じる者の存在だと。 (チェルノブイリ子ども基金・奥羽支部代表 三好鐵雄) ■この夏来日して、岩手で保養を行なったコンツェベンコ・ナターシャのお母さんから、手紙を受け取りました。帰ってから毎日、日本での写真を見ては思い出していること、ナターシャは元気に学校に通っていること、朝は「おはようございます」と日本語で言うこと、などが書いてあります。「岩手で、東京で、色々な人たちに本当にあたたかくもてなしてもらい、心から感謝しています。お世話をしてくれた全ての人に、くれぐれもよろしくお伝え下さい」とのことです。(通訳 ボランティアのSさんより) |