甲状腺手術後の子どもたちの声


M・タチアナ(女 15歳)ベラルーシ

 私はベラルーシのモギリョフ州から来ました。チェルノブイリ原発事故が起こった時はたった生後9カ月でした。原発から60キロほど離れたホイニキという名前の町にいました。両親は事故があったことを知らず、私を日光浴させていました。事故のため、私は大変な量の放射能を浴び被曝しました。そして数年後に病院に行った時、甲状腺に腫瘍があることがわかり、手術をしました。手術は成功しましたが、毎日薬を飲まなければなりません。6年くらい経ちますが、未だに慣れないです。
 時々、学校を早退することや体育を休むことを、クラスの子たちは理解してくれないのです。そして、私は3カ月の間に2週間ほど入院をして授業に出られなかったことも友達はわかってくれません。私ももちろん勉強しなければなりません。でもいつも、医者の管理下におかれて暮らさなければならないのです。
 1997年、はじめて「希望21」(ベラルーシ)に行き、私と同じような子ども達と出会いました。そして、そこでは多くの友達が出来ました。その友達は困難な状況の時、私を助けてくれます。

I・ビターリー(男 15歳)ウクライナ

 僕はウクライナのジトミル市に住んでいます。僕はリンパ線肥大が発見されました。最初、病院に行きましたが、医者は何もないと言い、数ヶ月が過ぎました。その後に又、病院に行ったところ、半年後に再度来なさいと言われました。それから、数ヶ月後たまたま博物館で出会った人に、すぐにキエフの病院に行くように言われました。そこですぐに診断され、手術が必要と言われました。とてもびっくりして泣いてしまいました。すぐに家に帰り、荷物をそろえてキエフの病院に戻りました。
> 手術はとても恐ろしいものでした。手術の後、僕はしばらくの間麻酔で苦しみました。他の甲状腺の手術を受けた子ども達と同じように僕は毎朝薬を飲まなければなりません。それから今までに2〜3回放射線治療を受けました。
 手術の後、健康状態は悪化してよく風邪をひいたり、病気になるようになりました。去年の夏、「南(ユージャンカ)」(ウクライナ)に行き、日本の人に会いました。そこで、交友することでチームワークの大切さを知りました。「南」では村形さんをはじめ多くの日本人と友達になりました。僕は今チェルノブイリ事故のような悲惨なことが繰り返してほしくないと思っています。

K・オルガ(女 14歳)ベラルーシ

 私は1985年ベラルーシのゴメリで生まれました。チェルノブイリ事故が起こった時、私はまだ生後9カ月の赤ん坊でした。事故後5年間はとても健康でした。それからある日、医者をしている私のおばさんが私を検査に連れて行きました。その結果、私は甲状腺のガンであることが分かりました。数日後には入院しなければなりませんでした。正直、その日は何が起こったのか私には良く分かりませんでした、お母さんが陰でひどく泣いていたことを覚えています。お母さんは私にこのことを隠していました。
 時がたち、少し大人になった時に、その時お母さんが私を心配させないようにしてくれていたんだと理解しました。私はお母さんのことを抱き続けていたかった。誰も私と母を引き離すことはできないほどでした。
 数日後に手術がありました。手術後、私はずっと集中治療室にいなければなりませんでした。両親も治療室には入れませんでした。その時、点滴して息をするのも苦しいくらいでした。たった一人でそこにいて、私はみんなに捨てられたのではないかという不安さえ抱きました。その時私はたった6才。その後、体全体が恐怖に襲われ、白衣を着た人を怖く感じました。
 一番最初の手術をしてから2年後、再び手術を受けなければなりませんでした。私の甲状腺は腫瘍で覆われていました。そして、私はすべて終わるまで待つしかありませんでした。そして、毎晩寝る時、またあの恐ろしいことが繰り返されるのではないかと、とても怖くなってしまいます。
 そして手術後、放射線治療に行くようになりました。そして、今同じような経験をしている子どもたちと私は付き合っています。彼らは私の痛みを分かってくれる。私は他の子どもたちに私の受けた苦しみを味わって欲しくありません。
 恐ろしいのは人々が原子力発電所の怖さをまだ分かっていないことです。チェルノブイリ原発の事故は私達子どもにも大きな苦しみを与えたのです。

K・ガリーナ(女 11歳)ウクライナ

 私は1988年に生まれました。そして原発の30キロ圏から数キロのところにあるポレスコエ地区ヤーブラャ村に住んでいました。村はチェルノブイリ原発事故の被害を受けました。
 私が初めて病気について知ったのは1997年です。貧血で頭が痛かったのを覚えています。そこで、お母さんが私を病院に連れて行きました。そして甲状腺の腫瘍の病気であることを言われました。病気は何段階かに分けられており、そのうちの3段階目にあると言われました。
 その時母は甲状腺を全部取ってしまわなければ、私の生命が一年しかもたないと言いました。それから1週間後に手術を行いました。その手術は全部で2時間かかりました。手術の後、しばらく私は息をするのが大変でした。そのため、管をつけられました。その管をつける手術は2時間かかりました。それから、私の健康状態はあまり良くありません。その後2回手術をしました。私は全部で4回手術をしています。もちろん、その後に放射線治療も受けています。そのうち1回の手術はフランスで受けました。
 日本にいる2番目のお父さん、お母さんのおかげで私は薬やビタミン剤を購入することが出来ます。


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