甲状腺手術後の子どもたちの声
K・ナターリヤ(女 16歳)ウクライナ
私はウクライナから来ました。生まれた年は1984年です。チェルノブイリ原発事故が起きた時私はたった2才でした。その時私はキエフにいました。
1993年に母と病院に検査に行きました。その頃、多くの子どもたちを病院に連れて行かれていたからです。その時、医者が母に、私は直ぐに手術が必要で入院しなければならないと言いました。それを聞いて私はひどく泣きました。その時私は9才だったのですが、詳しいことを母は教えてくれませんでした。ただ、母の目に涙が溢れているのを見て、私のことをとても心配してくれているのがわかりました。手術の後、甲状腺のガンであると言われました。そして、1997年に最初の放射線治療を受けました。1998年に2回目の放射線治療を受け、そして毎朝薬を飲んでいます。
私は今、ウクライナのボヤルカの町の寮に住んでいます。家族は私のもらっている年金8〜9ドルで暮らしています。父はとても大変な時に私達家族の元を去りました。母は働いていますが、一年以上給料をもらっていません。
多くの人々はチェルノブイリの事故はもう終わったと考えていますが、まだ始まったに過ぎないのです。私は他の子ども達が私のように辛い思いをしなければ良いと考えています。
S・セルゲイ(男 12歳)ウクライナ
1995年7才の時に初めて手術を受けました。手術の時、とても怖かったのを覚えています。毎日怖くて泣きました。手術後、息をするのが困難でした。もちろん毎日薬を飲まなければなりませんが、全てを購入することは出来ません。
手術を受けたのは1回ですが、それでは終わらないと考えています。手術の後、学校の友達の僕に対する態度が変わった気がします。僕の生活も変わってしまいました。僕は社会から切り離されてしまった様な気がします。最初の手術から3年たてば、全ての辛いことが終わるんだと考えるようになりました。しかし、2回目の手術を受けなければならないと言われました。ショックを受けて、手術の間中とても怖い思いをしました。今でも手術の恐怖におびえています。
僕の夢は健康になること、コンピュータープログラマーになることです。日本に来て、フルーツをたくさん食べたから、大変気分が良いです。残念なことに家ではこんなに沢山のフルーツを食べることができません。
Y・スベトラーナ(女 17歳)ウクライナ
キエフから来ました。1983年生まれ、事故の起きた時は3才でした。その時チェルノブイリからそう遠くないおばあさんの家にいました。チェルノブイリの事故がこれほどひどい被害をもたらすとは思ってもみませんでした。
事故後、私と姉たちはすぐに、南に避難しましたが私達家族の健康に害を及ぼしました。1994年、事故による被害の最初の兆候が私に現れました。その時、首に手をあてた時、何か変だと感じました。私は母にそのことを言うのをためらいました。これ以上、母の心に不安をかけたくなかったのです。その時、父は病気にかかっていました。それでも、少しして私自身とても怖くなり、母に話さなければなりませんでした。その時から私はまだ病院がどういったところか、放射線治療がどういったものか良く知るようになりました。
最初の診察から約9カ月間私の病名ははっきりとは診断されませんでした。そして腫瘍センターに行って、病名がはっきりしたため、手術をすることになりました。最初の手術は5時間くらい、そして2カ月後にまた手術をしました。そして、退院して1カ月後に父が病気で亡くなりました。父が亡くなってから何かをする気力がなくなり、学校に行くことも、友達と遊ぶことも、何もしたくなくなってしまいました。その後、子ども基金の人に出会い、私はまた人間らしい生活と、他の子ども達と同じような希望を持てる生活に戻ったのです。
チェルノブイリの事故は私達の健康に被害をもたらす、とても恐ろしい悪の力と言っても良いです。そして、それは私達の未来もおびやかしているのです。そして、将来、またチェルノブイリ原発のような原子力事故が繰り返されるのかと思うととても恐ろしい。そのようなことが繰り返されないよう、皆と力を合わせて行きたいと思います。
ラリーサ(「チェルノブイリ家族の救援」職員)
チェルノブイリの町で生まれました。私は1986年までチェルノブイリ原発そばのプリピャチで家族と共に住んでいました。チェルノブイリの事故が起こった時、私は14歳でした。その時、普段と変わらない日で私は学校へ行き、町の人たちもいつもと同じように散歩をし、子ども達は遊んでいました。それから1日たって初めて「チェルノブイリで小さい事故が起きたので、念のため町の人々を3日間だけ避難させる」とラジオで放送されました。
私はその時、3日間学校に行かなくて良いと大喜びしました。しかし、その時本当に何が起こったのか子ども達は誰も理解していなかったのです。結局、その後3日間の避難だけではなく、プリピャチから永遠に去らなければならないことを知りました。
避難して最初のころは、町を離れてしまったことや、慣れ親しんだ家から出てしまったことなどでとても心を痛めました。そして、皆がいままでの生活を捨てなければならないことでさらに心を痛めました。しかし、そのことは後々に私達が受けた本当の被害から比べればまだまだ小さなことでした。
チェルノブイリの事故後、私達はキエフに住み移り、住宅を貰いました。事故の後、私達家族の健康状態は悪くなりました。そして1992年、私の母は私の兄弟を病院に連れて行ったのですが、弟をすぐに入院させなければならないと言われました。そしてその年、弟が手術を受けました。その時、ウクライナの医療技術では彼の本当に受けるべき手術を受けることは出来ませんでした。私達は心配し、どうしたら、彼にとって必要な手術が受けられるのかを考えました。外国でなら手術が受けられるが、多くの費用がかかると言われました。その費用はとても大きく、いま家にあるもの、身に着けているものも全て売り尽くしても、賄えるものではありませんでした。しかし、神様のおかげでフランスで無料で手術を受けることが出来ました。私の弟はチェルノブイリ事故後、外国で手術を受けた最初の子ども達と言えます。しかし、甲状腺ガンの患者の数は、恐ろしいことに毎年増え続けています。
どうしたら手術が出来るようになるのか皆が私達に尋ねるようになりました。そして、苦しい甲状腺の手術を受けた子どもを持つ親たちは希望を持つことで、この苦しみを乗り越えてみんなで頑張って生きていこうと団結しました。
今、私の勤務しているウクライナの「家族の救援」という支援団体の中には3000家族が支援を待っています。そのうち800人以上が甲状腺の手術をしています。
私達ウクライナ、ベラルーシの人々はチェルノブイリ原発事故後、困難な状況だけに苦しんでいるのではありません。今、経済的な危機が私達を苦しめています。仕事を見つけることも出来ません。見つけたとしても、給料は長い間滞っていて、支払われないのが現状です。そして今、とくに病気の子どもをかかえた両親たちは、まず子ども達に何をするべきなのか、薬を与えるべきなのか、それとも食事を与えるべきなのか、と悩んでいます。なぜなら、両方を満足させるようなお金はどこにもないからです。病気の子どもをかかえる両親が、病院に行く交通費がなかったために病気の発見が遅れ、病気を深刻化させた例もあります。
チェルノブイリ事故からもう14年経っています。しかし、本当の意味での事故の被害は今始まったばかりなのです。今、ウクライナ、ベラルーシでの大人、子どもにかかわらず腫瘍、ガンで苦しんでいる人の数がとても増えています。そして、恐ろしいことにそうした人の死亡率が出生率を上まっているのです。
今、事故の被害を受けた人達の大きな問題は、正常に子どもを妊娠することが出来ない、そして健康な子どもを産むことが出来ないと言うことです。仮に、出産が無事うまくいったとしても、その子どもは病気がちで死亡するケースも多いのです。これはとても深刻な問題です。チェルノブイリ原発事故の被害は、それを直接受けた私達だけではなく、未来の子ども達にも悪影響を与えているのです。
このような困難な状況の中から、今私の勤めている「家族の救援」という団体は甲状腺の手術を受けている子ども達を健康にして、気持ちを楽にすると言うことを一生懸命努力しなければなりません。甲状腺の手術を受けた子ども達は、手術後保養を受けなければなりません。私達は、日本の子ども基金のおかげで、ウクライナのユージャンカのサナトリウムに新しい宿泊施設が建ち、一度に120人の子どもを収容することが出来るようになりました。しかし、まだまだ保養を必要とする子ども達が沢山います。子ども達を療養させたくても、両親にはお金がありません。そして子どもを保養に出すにも、洋服を借りるほど苦しい状況にあります。
キエフ診療センターでは甲状腺の手術を受けた子ども達に無料で薬を与え続けられるのかという問題を抱えています。この薬というのは、子ども達がこれから一生飲み続けて行かなければならないからです。もちろん、日本のチェルノブイリ子ども基金の支援によって、私達は多くの薬品を買うことが出来ます。
しかし、一方で手術を受けた人の数は年々増え続けているのです。そして、これからも支援を受けることが出来れば私達は嬉しいし、とても感謝の気持ちでいっぱいです。そして、子ども達を精神的に支えているのは、彼らがこれから生きていく上で、とても大きな役割を果たしていると思います。
(8/4「チェルノブイリの子どもたちの話を聞く会」北沢タウンホールより)通訳:岩城桂さん
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