講演会報告

チェルノブイリ発 子どもたちのメッセージ


 前号でもお知らせしたように、8/5に広島で行われた子ども会議「メッセージ From ヒロシマ」(平和フォーラム主催)にチェルノブイリ被災地の子どもたちが参加し、ベラルーシのサナトリウム「希望21(ナジェジダ)」所長マクシンスキー氏も同行しました。会議に先立って、子ども基金主催の講演会を東京で開催し、ビデオを見ながら、サナトリウムの役割と子ども基金の支援を中心にマクシンスキーさんにお話をしていただきました。平日の夜という時間にもかかわらず100人近い方が参加し、熱心に耳を傾けてくださいました。当日の様子から、マクシンスキーさんのお話を中心にご紹介します。

マクシンスキー

 被災地の現状 1986年4月26日、暗黒の日、人類史上最悪の事故は、ベラルーシ、ウクライナ、ロシアで、今日でも大きな被害を出しています。事故の際に出た核物質の70%がベラルーシに落ちました。ベラルーシ国土の23%、ウクライナ国土の5%、ロシア国土の0.6%が半減期が長い放射性物質に汚染されたのです。ベラルーシの、この23%にあたるところに、3600の小さな村むらや、27の中規模都市も含まれ、人口の20%が住んでいました。環境面、医療面における経済的支出は、30年後には2350億ドル(ベラルーシの1985年度国家予算の32倍)になるとも言われ、13万5000人が強制移住させられ、現在でも20万人が移住しなければならない状況です。

 子どもの健康への影響が最も大きな問題です。放射性ヨウ素の影響が、特に事故当時7歳以下の子どもの甲状腺に影響を及ぼしています。甲状腺ガン等の発生する確率は、事故の前後で比較してみると、子どもは33.6倍、大人は2〜7倍です。汚染地域に暮らす150万人の人々が病気になる確率は高くなっています。特に高いのは子どもで、現在、汚染地に43.7万人の子どもが住んでいます。

 汚染地に住んでいる子どもの68%が呼吸器系、30%以上が循環器系、20%以上が血液の病気を持っています。また、12%以上の子どもが消化器系疾患を抱えています。事故の影響は環境や健康面もありますが、最も深刻なのは子どもたちの心への影響です。とても重要な問題なのですが、心の問題にはあまり関心が払われていません。

(左から)通訳の山田さん、マクシンスキーさん、オレグ、グレゴリー

設立の経緯

 1992年にチェルノブイリの事故の悲劇に対して、何ができるだろうかと仲間たちと考え、長期の治療の必要な子どもたちのためのサナトリウム「希望21」を作ろうと決めました。環境面から、汚染がなくきれいな場所にある大学の施設を見つけました。当時も現在も、経済的状況は厳しく、「子ども基金」の協力がなければ、この建設と運営は不可能でした。サナトリウム設立に対し、「子ども基金」からさまざまな物資、備品の援助を受け、1994年には、年間を通してサナトリウムに子どもたちを受け入れることができるようになりました。

 「希望21」では、チェルノブイリ事故の後遺症を患う9歳から15歳の子どもを中心に保養しています。夏季休暇時には甲状腺の摘出手術をした子どもたちの特別保養を実施しています。毎回、28日間、約186人の子どもたちを受け入れています。年間でのべ2450人の子どもの受け入れができます。身体的ケアと同時に、精神的ケアも実施しています。施設内の医療センターでは呼吸器系を重視し、精神面では、自分の健康を維持する方法や、環境に対する心構えなどを指導しています。

 心の問題は重要で、サナトリウムに来る子どもの60%が心のケアを必要としています。その主な原因は自分や家族の健康の、将来への不安などです。サナトリウムのスタッフも、子どもたちが、自分の病気と闘っていくために何をしたらよいか、自分に自信を持ち、将来に夢や希望を持てるような指導をしています。

 「子ども基金」へ特に感謝していることは、甲状腺の手術をした子どもたちのための特別保養です。費用の全額を「子ども基金」からの援助で、この8月に6回目の保養を実施しています。この間、日本人(専門家ボランティア)が協力してくれています。この「日本週間」はとても人気があり、よく知られていて、多くの家族が子どもたちを参加させたがっています。嬉しいことに、保養を終えて帰る子どもたちは、来る前とは見違えて、将来に対する前向きな希望を持って帰っていきます。私たちの活動に対して、日本の「子ども基金」、ボランティア、個人のみなさまへ、「希望21」のスタッフ一同感謝いたしております。

 この苦しい経済状況では、まだまだ支援が必要です。子どもたちのために必要な体育館や文化的施設を現在建設中です。本来はベラルーシ政府から支援があってしかるべきことですが、現在でもわずかな額のみです。そのなかでも「子ども基金」は「希望21」のみならず、事故の後遺症と闘う組織へ多くのサポートをしてくださっています。

 チェルノブイリの影響には個人差があり、同じような状況でも一律ではありません。15年経過した今でも、今後どうなるかそれぞれ本当に全てが分かっている訳ではありません。長期的、将来的にどうなるか分からないのです。「希望21」では、予算面、設備面、人的面からも現状の体制ではまだまだ不充分です。子どもたちは自分だけでは健康の問題に立ち向かっていくことができません。予算面を含め、このような子どもたちを支援していくことが一番大切です。

 経済状況 日本も良くないと言われていますが、ベラルーシの状況はというと、例えば2000年は273%のインフレで、つまり物価が2.73倍に上がりました。月収平均は71ドル。2〜3か月の未払いも起きています。

 ヒロシマ、ナガサキ チェルノブイリ事故以前では、ヒロシマ・ナガサキへの関心は薄く、知らない人が多かったです。しかし事故後、軍事利用でも平和利用でも核の影響は変わらないということで関心が高まりました。人々は、原爆後のヒロシマ・ナガサキでどのようなことが起こったかということに関心を持ちましたから、もしベラルーシで原発建設の話があったらほとんどの国民が反対するでしょう。

広河隆一

 このサナトリウムの計画を知ったのは1992年のことでした。大学教授のペトリャーエフさんが私を「希望21」へ連れて行き、建物ができても中に何が入るか全くメドがたたない状況であると私に話しました。そして、この施設を支援してくれないかという要請を受けたのです。そこで、日本で相談をして、私たちは「希望21」の建設現場支援を開始し、1994年に「希望21」が完成しました。

 最初は雲をもつかむような状況でした。現地に何百とあるチェルノブイリ救援団体のほとんどが、子どもを助けるためではなく、外貨を獲得しようとする団体で、きちんとした団体かどうかを見分けるのが大変でした。物資を満杯にしてフランスを出たトラックがモスクワで半分になり、現地に着いたら荷台はからっぽという状況をよく聞きました。それでも支援をするのかどうか、ざるに水を入れるようなものではないか、という意見もありました。それでもやるのか、という私たちの心構えを問われました。でも、止めてしまったら、肝心な援助を必要としている人々は見殺しにされます。それでもやろうということでスタートしました。

 救援の闘いは、本当に信頼できるパートナーを見つける闘いでもありました。日本からの支援が途中で消えてしまうことなく、子どもたちにきちんと届けることを保証してくれるマクシンスキーさんの団体「希望21」に出会えたことは幸運でした。ベラルーシでは他に甲状腺の病気を持つ子どもを支援する2つの団体と放射線医療センター「アクサコフシナ」を支援していますが、マクシンスキーさんたちに出会えたということは誇りです。彼ら「希望21」が実践していることは、世界中に誇れることだと思っています。

 山積になっている医療機器をいろんなところで見たことがありますが、医療機器が活用され、子どものために使われる頻度は「希望21」がNo.1ではないでしょうか。特に98年には早期発見のために超音波診断器を載せた救急車を送りました。運転手や医者の給料も「子ども基金」が支援しています。これは、1人の子どもでも早期発見されれば良いという思いで開始しました。早期に発見できた、ということはその子の命を救ったことになるわけです。

 この診断器で、「希望21」の医療センターでは、99年に1435人、2000年に2101人の子どもたちが検査を受けました。心電図の検査を受けた600人のうち176人に心臓疾患が見つかりました。医療機器の有効利用、本当に子どものために活動する信頼のおけるチームを作ることが重要でした。「希望21」には最高の先生が揃っており情操教育も行っています。

 これからどのような救援が必要かということが問われています。これまで私たちは、ベラルーシでは「希望21」及び「アクサコフシナ」のリハビリセンターを作ってきました。ウクライナのでは「南」のサナトリウム及びキエフの「リハビリセンター」を建設しました。病気の子どもは、心が元気になることで、病気への抵抗力が向上します。

 子どもが子どもでなくなり、事故の時に生まれた子どもはもう15歳で、来年には子どもの枠からはずされます。ケアは多岐に渡ってきます。治療は本当に体のためになったのか、汚染された土地に住み続ける子どもたちのために何をしなければいけないのかなど、多くの問題にぶつかっています。

 放射能のせいで重い病気になった子どもを抱える家庭は、経済的にも精神的にも病気になり、家庭が崩壊しています。まず、父親が家出したり、アルコールにおぼれ、家庭が破綻し、子どもへの支援金がアルコールや家賃に化けたりします。子どもは病院に行くお金もありません。国からの援助も見込めず、絶望感もありますが、やらなればいけないのです。現地では、子どもの手にきちんと援助を届けるのに丸1日かかることもあります。

 「希望21」は子どもにとっても、支える我々大人にとっても援助の成功例です。これからも「希望21」を中心に支援を続けていきたいと思います。

グリゴリー

 1986年6月2日、ブレスト州生まれです。コルホーズで働いている両親と兄弟2人がいます。今年9年生のクラスを終えました。96年に甲状腺の摘出手術を受け、チェルノブイリ事故による障害者認定を受けています。

 ベラルーシでは甲状腺摘出手術を受けた子どもがたくさんいます。チェルノブイリ事故は身近ではありませんでしたが、実際問題として、事故による影響で甲状腺に異常が見つかり、甲状腺摘出手術を受ける境遇になりました。事故の日から死の灰が飛散しました。その多くがベラルーシに散り、事故の後遺症により障害を負った人がたくさんいます。平和利用の核でもこういうことが起きたのです。

オレグ

 1986年9月6日、ミンスク州生まれです。10年生を終えました。スポーツが大好きです。

 2000年に甲状腺の摘出手術を受け、障害者として認定されました。兄ビターリは今年学校を卒業しましたが、彼もチェルノブイリの影響で病気を患っています。

 チェルノブイリから離れたところに住んでいましたが、目に見えず、音にも聞こえず、汚染は起きていましたが、何も知らされませんでした。政府が情報を隠さずに対処していれば病気にはならなかったかもしれません。最初に事実を知ったのは、外国のラジオ放送でした。

 僕たちのような子が保養する「希望21」は最高の施設です。広河さんをはじめ、「子ども基金」、マクシンスキーさんに感謝します。

 僕が甲状腺の手術を受けたということは公然と言うことではないかもしれません。しかし、手術を受けるまでは強い自覚がありませんでした。多数の原発がある日本では、ただ「原発反対」と言うのみでなく、平和利用であっても核があればどうなるかといったことを、日本の子どもたちに僕たちの体験を通し知ってもらいたい。放射性物質が少なくなるまでには数千年かかると言われていますから。

 マクシンスキーさんと子どもたちは翌朝広島に向い、子ども会議に出席しました。会場の通訳でご協力いただいた山田善朗さん、浅野真理さん、会場に来てくださったみなさま、ボランティアでお手伝いしてくださったみなさま、広島会議のアテンド兼通訳をしてくださった岩城桂さんに改めてお礼申し上げます。


★サナトリウム「希望21」(ナジェジダ)
1994年9月開設。チェルノブイリ高濃度汚染地に今も住む子どもたちのための、学校とサナトリウムの機能を兼ね備えたリハビリ施設。1か月交代で一度に約200人が滞在することができる。ベラルーシ、ドイツ、それに日本の「チェルノブイリ子ども基金」とが協力し合って運営している。

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