「日本週間」実施に伴い、被災地を訪れた。訪問中、現地の救援団体との話し合い、子どもへのインタビューなどを行なった。 * * * 「南」での保養の責任者でもある「チェルノブリの家族の救援」とは、今年の保養の問題点など話し合う。保養期間、付添いの選択、滞在時の清掃や栄養のある食事、熱いお湯が出るかどうか、生活上の問題、子どもたちの生活習慣や規律を守ってるかどうかなど細かいものも日本側でチェックしなければならない。滞在中に地響きのような雷雨と暴風雨が「南」のあるオチャコフの町を襲い、自家発電が数日間稼動したこともあった。また、甲状腺手術後の子どもたちの年齢の上昇に伴う来年の保養の条件については保留事項となった。 「キエフ・リハビリセンター」では昨年から緊急支援をした家族の祖母がお金を受取りに来ていた。この家族はただ一人の母を2000年にガンで亡くし、祖母と孫娘オレシャの二人暮しだ。この日も孫娘が癲癇で倒れ、祖母は心配で涙にぬれていた。 * * * ベラルーシのサナトリウム「希望21」は昨年末国家からの支援が滞り、12月分と1月分の給料の支払ができなくなるなど一時危機的状況にあった。国家からの支援は依然として1〜2カ月遅れているが、金銭問題をできるだけ自力で解決できるよう、幾つか対策を立てた。短期的対策としてはスタッフのリストラ、賃金カット、長期的なものとしては収容人数の増加によって、一人あたりの費用単価を減らした。また、昨年末のような状況は回避したいと、国家からの支援が遅れても2ヵ月間は活動ができるように緊急基金をつくった。また、敷地内の畑で汚染されていない食品を収穫することにもますます力を入れている。 目下のところの問題としては、現在28日間の保養を21日間に短縮するように共和国保養センターの命令が出た。これは経済的な効率を考えてのことだが、これは医学、教育、心理面において保養の質の低下につながる。所長のマクシンスキー氏は国の施設ではない「希望21」をその例外にできないか、共和国保養センターをはじめとした関係する省庁、チェルノブイリ委員会などと交渉を進めているが、困難を極めている。 現在、子ども基金の支援で建設中の「スポーツ文化総合施設」は、契約どおり今年12月に子ども基金が支援している部分の工事が終わり、来年1月にはオープニングの予定である。(写真上) この施設は全体で2階建て吹き抜けの建物の予定だが、この中の体育館は既に稼動している。子ども基金が支援しているのは、1階の陶芸・彫刻工房、木工細工工房・創作折紙工房である。この部分の工事はほとんど最終段階に入っていた。オープンするのはこの1階の部分である。 救援団体「困難の中の子どもたち」には甲状腺手術後の子どもたちが必要とする医薬品を持参した。(写真下) 品質のよいものは国内では手に入りにくいという。この団体では、18歳になると団体を卒業する。すると、検査や治療、必要とする薬の情報、同じ病気の子どもたちとの交流も遠くなりがちである。団体では、会員の年齢上限を上げることを検討しているという。 「チェルノブイリのサイン」のスタッフは相次いで連れ合いを離婚や死別で失っており、厳しい状況にある。今年の半年で20%以上というベラルーシのインフレが家計を逼迫していた。さらに、子どもたちの多くは18歳を迎え、国家からのわずかな援助が打ち切られようとしている。定期的な検査入院のための交通費、一生必要とする医薬品などこれからどうするのかなど、現実的な問題が生じている。 「放射線医療研究所」のドロズド医師によれば、最近では子どもの甲状腺ガンが減少しているのに反して、青年の甲状腺ガンが増加している。事故後に雨に降られた子どもたちに影響が表れはじめているという。近いうちに甲状腺ガン患者は5000〜10000例にもなるだろうというベラルーシの科学者たちの予測がある。また手術後の子どもたちへの保養の不足、精神的なリハビリの重要性、被曝した夫婦から生まれた子どもの健康状態、事故後に生まれた子どもへの生活環境(汚染地、内部被曝など)からの被曝、放射性ヨード治療を受けた後の妊娠などの問題も指摘された。 事故から17年という年月は被災地にとっても短いものではない。特に思春期から大人になろうとする子どもたちへの支援について、子ども基金の活動の方向性と資金的に支援できることについて改めて考える必要性を痛切に感じた。 (事務局/松田奈津子) |