支援を受けている団体および家族のいま
9月被災地を訪問


奨学生支援

 チェルノブイリ子ども基金では、甲状腺の手術を受けた若者で、勉学に意欲を持ちながら経済的に困難な状況にある学生を対象に、2001年より奨学金制度を設けています。現在までに60人の学生を支援し、そのうち14人がすでに大学を卒業しました。

K・ユリヤ (ベラルーシ グロドノ市)
 1981年生まれ。24歳。15歳の時甲状腺がんの手術を受け、その後放射性ヨード診断3クール、放射性ヨード治療2クールを受けた(※1)2002年9月よりチェルノブイリ子ども基金の奨学生となった。05年6月グロドノ国立大学文学部英文科卒業。ユリヤは第2級障害者で障害者年金は月37ドル。心臓、腎臓にも問題がある。05年9月よりグロドノ市の小学校で英語教師をしている。給料は月100ドル。そのうち50ドルはアパート代に消えてしまう。実家が職場から遠く通うことができないため、アパートで一人暮らしをしている。前の晩は、夜中の2時まで授業の準備をしていたとのことだった。「チェルノブイリ子ども基金からの奨学金は、経済支援ということだけでなく、自分は一人ではない、見守ってくれている人たちがいる、という精神面でも私を支えてくれました。私はチロキシン(※2)とカルシウム剤なしでは生きていけません。大変疲れやすい体質です。授業をしている途中、体調が悪くなり立っていられなくなることもあります。そんな時は椅子に座って目を閉じたまま口だけ動かして授業をすすめ、落ち着くのを待ちます。私たちの国では教師の給料は多くありません。生活は大変ですが仕事があるだけありがたいと思っています。今はどこでも仕事をみつけるのが大変ですから。」

※1:放射性ヨード剤を飲むことでガンの転移の有無を診断し、転移が見つかった場合にはガン細胞を殺す治療をする。
※2:甲状腺ホルモン剤の名称。甲状腺を摘出してしまうと自分で甲状腺ホルモンを作ることができなくなるため、生涯にわたり甲状腺ホルモン剤を飲み続けなければならない。

若い家族への支援

 チェルノブイリ事故から19年がたち、事故当時子どもだった世代が結婚・出産する年齢になっています。子ども基金では、甲状腺手術後の若い家族への支援を2005年1月より開始しました。現在までに13家族を支援しています。現地救援団体からは、若い家族の生活の第一歩を支えるこの支援は大変意味のあるものだ、と感謝の言葉がありました。

 2005年9月にベラルーシの8家族を訪問しました。今回訪問した若い家族の赤ちゃんには、幸いなことに今のところは健康に大きな問題はありませんでした。今年4月に訪問した家族のうち、子ども基金ニュース第61号でご報告したゴメリ市に住む一家族の赤ちゃんには、専門の医療マッサージが必要でした。そこで子ども基金ではその医療費の支援を始めました。8月にその赤ちゃんのおばあさんに会う機会がありました。「うちの孫は1回のマッサージで大分よくなっています。このままいけば普通の子のように歩けるようになりそうです。どうか歩く姿を見に来てください。子ども基金からの支援がなかったら高額なマッサージ費用は払えませんでした。日本の皆さん、本当にありがとうございます。」と笑顔で話していました。

 また、今回訪問したB・アレーシャは、子ども基金の招待でベラルーシの保養所「希望21」で何度か保養をしたことがあります。私は彼女と9年前に「希望21」で会って以来、成長する姿を見てきたこともあり、今回母親となった彼女に再会できたことはとても感慨深かったです。彼女の笑顔には母親としての確かな喜びと自信が感じられました。すべての母親と子どもたちが健康に過ごしてほしい、と心から思いました。

里子支援

 一人の子どもを日本の家族が支援するこの制度は98年より設立されました。現在までにベラルーシとウクライナ合わせて108人の子どもが支援を受けました。この制度の開始当初は甲状腺の手術をした子どもだけが対象でしたが、現在は、チェルノブイリ被害者であって他の病気の子どもたちも支援の対象となっています。2005年9月にベラルーシのゴメリに住む家族を訪問しました。

 4歳のときに脳腫瘍の手術を受け現在15歳になる男の子は、今でも年に2回ミンスクに検査を受けに行きます。父親は汚染地のブラーギンで運転手の仕事をしていて月末にしかゴメリの家に帰ってきません。母親は2001年に死亡。現在は義理の母とその娘と暮らしています。長い間父親と会えないのはさびしい、と話していました。

 8歳の男の子は2年前に脳腫瘍の手術を受けました。その後放射線治療のため30日間入院していました。手術後しばらくは歩くことが全くできなかったそうです。現在右目の視力はほとんどありません。暑さや騒がしさが原因でよく頭痛が起こります。3ヶ月に1度はミンスクに検査を受けに行きます。今年の9月からは視力の弱い子どものための学校に通い始めました。送り迎えは必ず母親が付き添っています。母親はチェルノブイリ30キロ圏内から16歳の時にゴメリに移住してきました。父親は2001年(36歳の時)に甲状腺がんの手術を受け、現在はホルモン剤のチロキシンを服用しています。出身地のドブルーシが汚染地ではないという理由で1年前に障害者認定を取り消されました。

 現在20歳の青年は、16歳で急性白血病にかかり8年間入院していました。退院後、家族には彼を学校へ行かせるお金がありませんでした。日本の里親支援のおかげで今年の9月から商業カレッジに通えることになったそうです。本人はプログラミストの勉強をしたかったそうですが、医師から禁止されたとのことでした。現在彼には調理師になる夢があります。この青年には吃音があります。それが原因で学校へ通うのがもうつらくなってきているそうです。私と話していた時、初めのうちはかなりどもってしまいましたが、時間経つにしたがいなめらかに話せることが多くなりました。心理的な問題もあると思う、と母親は言いました。夫が職を失ってしまったことや自分の母親が病気のため看病に通っていることなどを、彼女は落ち着いた様子で淡々と語ります。「日本の里親の方の支援はどんなにありがたいことでしょう。私たちの今のこのような状況は悲しいです、辛いです。でも何とか生きていかなければ。笑うことや希望を持つことを忘れないようにと思っています。本当は息子に魚や海藻類をたくさん食べさせたい。でもここではそういうものは高いのでたまにしか買えなません。いつも赤字です。こんなふうに私たちは暮らしています。すみません、こんな話ばかりで。」と静かに微笑みました。


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