チェルノブイリ事故20年 ― うれしい報告と悲しい報告


前号・別冊で報告したベラルーシの若い夫婦に赤ちゃんが誕生!!

チェルノブイリが運命に入り込んでしまった私の息子のことをお話しします。94年1月31日の手術の日から私たちの人生の新たなカウントが始まりました。診断は甲状腺ガン。肺にも転移していました。原因はチェルノブイリ事故であると認められました。チェルノブイリは息子の首に大きな傷跡を残しました。さらに、第2級身体障害者、労働能力70%喪失者という「刻印」も。手術後はミンスクの病院で治療が続き、毎年ドイツの病院で放射性ヨード治療を続けています。そしてこの12年間、毎日ホルモン剤とカルシウム剤を服用しています。

勉学への意欲は病気に打ち勝ちました。彼はロシア語とロシア文学の教師の道を選びました。私と息子は同じ中等学校で教師をしています。息子は医療証明により週9時間しか働くことができません。息子が治療の為に入院する時は私が交代で働きます。

息子は大学で将来の妻となるカーチャに出会いました。2005年彼らは結婚し、同年11月、神様は私たちに素晴らしい贈り物をくれました。娘クセーニャが生まれたのです。私は神様にお祈りしています。息子がクセーニャと手をつなぎ小学校の入学式に行けますように。卒業パーティーで一緒に踊れますように。どうか少しでも長く生きて、自分の娘の成長を見守っていけますように……。

カーチャは心臓に問題があり、クセーニャは貧血症と診断されました。こんな問題にもかかわらず、彼らの家庭は温かさと愛情であふれています。足りないのは健康だけです。しかし希望は残っています。

子どものころ、禎子さんの鶴の話を教科書で読み大変印象に残りました。しかしそのときはベラルーシの多くの家族にこんな悲劇がもたらされるとは思ってもみませんでした。その後、大学生になった私は栗原小巻主演の「モスクワわが愛」という映画を見ました。広島の原爆2世バレリーナが主人公の、この物語もまた、私の心から消えていきませんでした。核の事故が私にも襲いかかることを感じていたからでしょうか? まさかそんな……。

親愛なる日本の皆様、私の息子と家族のためのご支援を本当にありがとうございます。日本の人々は、他のどの国の人々よりも私たちの悲劇を理解してくれています。息子はこの支援金を家族の健康に役立つよう賢明に使うことでしょう。

皆様への深い尊敬をこめて アレクセイの母 
ヴェーラより 2005.2.15(ベラルーシ グロドノ市)


ウクライナの21歳の青年が1月に亡くなった、という知らせが事務局に届いたのは2月の終わりのことでした。

15歳のときに甲状腺ガンが発見され、すぐに手術を受けましたが、進行性のガンで肺にも転移していました。その後何度も治療や入院を繰り返し、最後の放射性ヨード治療は去年の11月でした。家族の経済状態も厳しかったため、手術後から亡くなるまでの間、日本の里親から支援を受けていました。2月に父親がその支援金を受け取りに来た際、息子の死を伝えたそうです。両親は息子の死にうちひしがれています。最後に受け取った支援金で息子の追悼碑を建てる、と父親は言っていたそうです。重い病気と厳しい経済状態の中で、里親の方の支援金は家族の大きな支えになっていました。

2001年夏、16歳だった彼はウクライナの保養所『南』で「特別保養」*に参加していました。その時の日本語教室に参加していた彼をよく覚えています。控えめな感じでしたが、熱心にひらがなや漢字を覚えようとしていました。彼の死は大変悲しい事実です。20年過ぎた今も残るチェルノブイリ事故の影響の恐ろしさをひしひしと感じます。21歳の若者の命を奪い、その家族に計り知れない悲しみをもたらしました。彼のことを決して忘れません。

(佐々木真理)

* 甲状腺手術後の子どもの為に毎年「子ども基金」が行っている保養プログラム



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