みなさんからのおたより


ナターシャ・グジーさんをお招きして

さる7月6日、本学で毎年行われている文化講演会に、今年はチェルノブイリ20年ということでナターシャ・グジーさんをお招きしました。大教室いっぱいに集まった学生達はちょうどチェルノブイリ原発事故の年に生れた世代であり、その多くが「教科書で聞いたことがある」程度の知識しかもっていなかったようです。講演会のポスターを見て来た学生、友達に誘われて何となく来た学生、テレビや新聞で今年20年と知って来た学生...きっかけは様々でしたが、ナターシャさんの歌が始まるや、彼らの表情は一変しました。

彼らにとっては、ウクライナ人に接するのも、ウクライナの歌を聞くのも、そしてバンドゥーラを見るのも、もちろんはじめてです。彼らはまず、ナターシャさんの「天女が歌っているような美しく透き通った声」に、そしてそれから、彼女が語ったチェルノブイリ事故の恐ろしさに「鳥肌」をたてていました(コンサート終了後のアンケートより)。

筆者は毎年授業でチェルノブイリ事故についてとりあげていますが、「ウクライナ語の歌なのに、色々な思いが伝わってきた」「自分にとって遠い国で起こったことだと思っていたが、身近に感じるようになった」という学生達の反応を見て、彼らにとっては何十回の講義よりも、ナターシャさんの優しくも力強い歌声と彼女自身の体験がいかに説得力をもっているかを改めて実感しました。

「人間は忘れることによって同じあやまちを繰り返します。事故を忘れないように、そして再び同じあやまちを犯さないように私は歌い続けます」というナターシャさんの言葉は、学生達の心の中に深く刻まれました。彼らが日本や世界を支える社会人となった時、きっと同じあやまちを繰り返さないと確信しています(またコンサートの詳しい様子は平成国際大学新聞にも掲載されています)。

平成国際大学助教授 末澤恵美


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奨学生からの手紙

M.ディーマ/(チェルノブイリのサイン、9頁参照)
奨学生支援:2006年9月より
1985年生まれ 1996年に甲状腺ガンの手術。

1991年、僕は6歳で小学校に入学しました。初めての集団生活、初めての活字。毎日新しいことを発見し、それは僕をわくわくさせ創造へとかきたてました。

ところが1996年の医師の診断は、僕を子ども時代という回転木馬から引き落としたのです。よその町、病院、病室、病室の人々のうつろなまなざし。僕は周囲のものをそれまでとは違った目で見るようになりました。疲れた医師たちを目にし、患者たちの感謝の言葉を聞きながら、僕は一生医学と関わっていくことを固く決心したのです。

2002年に学校を卒業後、医療カレッジに入学しました。人体の構造や機能を研究する学問への関心を非常に強くもっていました。注射をすることやその他の器具の扱いを習得してから、僕は友人と共に私立病院の蘇生部門でボランティアをはじめました。病人の世話をしながら、僕たちは自分の技術を向上させるだけでなく、病気の人たちの気持ちを理解し、痛みを感じることも学びました。そしてそれにより自分たちの内面も鍛えられました。その後、孤児のための養育施設で、子どもたちが社会の中で生活環境に適用できるよう手助けをしました。子どもたちや大人たちとの接触は、僕のこれからの勉強に大いに役立ち、また知識は経験を積む助けとなりました。

医療カレッジを卒業後、学業を続ける決心をしました。そして2005年ベラルーシ医科大学口腔学部に入学しました。口腔学部を選んだのは偶然のことではありません。それは優れた知識と巧みな実践的技能を兼ね備えなくてはならない専門分野の一つなのです。学ぶべきことは多くありますが、学術研究のための時間も見つけるつもりです。僕の研究分野は免疫システムと血液です。免疫システムが人間の体を病気の感染や新しい病気の重症化から守っているのです。僕の最初の経験は2006年4月に行なわれた「現代医学の最新問題2006」という国際学術会議での報告発表でした。大学卒業後は、僕の知識と技能によりチェルノブイリ事故被害者の子どもたちを助ける人たちの仲間入りができると確信しています。


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