F・マリーナ
1985年日生まれ グロドノ州ヴォルコヴィスキー地区マトヴェーエツ村
甲状腺ガンと診断され、91年から97年にかけて4回の手術を受けた。放射性ヨード治療4クール。Lチロキシンを服用。第三級障害者に認定されている。
家族はゴメリ州ホイニキ地区からの避難民である。避難家族のために建てられた住居のある地区(同じ村から約50世帯が移住)で暮らしている。両親、兄二人、姉一人、弟二人、祖母の大家族。2番目の兄だけ結婚し隣村で暮らしている。父親はトラクター運転手。母は家畜を飼い、野菜を栽培している。
マリーナの母親の話:事故当日、大人たちは畑仕事をしていた。空を頻繁にヘリコプターが飛んでいたことを覚えている。チェルノブイリで何か事故が起きたことはわかったけれど、その重大さは知らされなかった。大人たちはそのまま農作業を続け、子どもは外でいつものように遊んでいた。翌日になって初めて「危険だから窓を締め切り外に出ないように」と言われた。その後9月までベラルーシ国内の保養所に送られた。家の主や老人たちだけが村に留まった。その後住んでいた家は「放射能に汚染されているから」と埋められ、代わりに新しいレンガ造りの家が作られていた。トイレや風呂も室内にあり、暖房設備もあるちゃんとした家だった。でもそれが建てられた場所は、元の家よりもさらに原発に近い場所だった。それから数年後、移住先の家が完成すると引っ越すように言われた。2番目の家は今でも残っている。年に一度の墓参りの時はそこまで無料のバスが出る。
この地区の約50世帯はみんな汚染地域からの避難民。初めこの村にやって来たときには、元から住んでいる村人たちから「チェルノブイリ人たち」と言われ嫌われた。「家をただでもらえていいね」とか「交通費が無料でいいね」などと嫌味を言われた。「だったら故郷の村と娘の健康を返してほしい」と言い返したかった。私たちの地区の住民は、ほとんどの人がみんな畑や家畜の世話で朝から晩まで働いている。しかし中には酒におぼれて子どもの世話もしない人もいる。あんなひどい親の子どもは健康で、どうしてうちの娘が「ガン」なのか、と思ってしまう。どうしてこんな運命なのかと。マリーナがガンだなんて、今でも慣れることができない。マリーナは小さいときに甲状腺ガンになり、手術・入院・治療のために学校に通えない時期があった。健康だったらもっと勉強したりいろいろな可能性に挑戦したりできただろうに。今のマリーナは、部屋の掃除をしただけでも疲れてしまうほど体が弱い。
家族の住んでいる家の前の道は「ホイニキ通り」と名づけられている。道の名前だけ故郷の名残がある。戦争を生き抜いた82歳になるマリーナの祖母は「放射能は戦争より恐ろしい」と言った。年金はみんな孫娘のマリーナの健康のために使った、と話した。この家族は長い間里親の支援を受けている。「同じ悲劇を経験した国の人だから、私たちのことを助けてくれるのでしょう」と母親は涙を浮かべた。
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