< 写真・文  広河隆一 >

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キャプション
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事故を起こしたチェルノブイリ原発4号炉。現在でもすさまじい放射線を発し続ける世界最大の核廃棄物。崩壊の危険にさらされているが、防ぐ手だては見つかっていない。
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事故を起こした原発4号炉のコントロール室。放射性物質を含んだ埃の拡散を防ぐた め、ビニールがかけられている。この向こうに原子炉があり、溶けた核燃料とコンク リートで「象の足」と呼ばれる放射能溶融物ができており、人間が即死するぐらいの 放射線を発している。
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ニンジン色の森は倒され埋められた。この燭台の形の木は残され、チェルノブイリ 原発事故のシンボルになったが、撮影の翌年'90年に倒れた。遠くに原発が見える。
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事故のあと、原発から30キロ圏内は封鎖され、人々は強制的に避難させられた。しかし避 難先が劣悪な生活条件だった場合も多く、汚染地の元の村に戻ってきた人も少なくな い。そうした人々は、汚染の影響を受けて、食物や水 から体内被曝をつづける。そして彼らの住む地域は、立ち入り禁止地帯であり、家族 が訪ねることもなく、孤独な死を待つ老人も多い。この写真は'91年にクポワトエ村 で撮影した。
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ディマの両親は離婚し、母親はディマを連れて実家のある村に戻った。自然が大好 きな少年だった彼は、毎日森の中を走り回って遊んだ。その森が放射能で汚染されて いることは、当時は隠されていた。ディマは森の中のホットスポット(高濃度放射能 地帯)に入りこんでしまったのに違いない。'91年1月に彼は劇症性の急性白血病にな り、病院に運びこまれた。
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「あいつらのせいでお前はこんなことになって……」とこの人は号泣していた。事 故のあと健康を害して死んだのだろう。人々は村を失い、かつての生活や思い出のすべてを置き去りにして、立ち去 らなければならなかった。そして彼らが避難した先も 、放射能に強烈に汚染されていることが多かった。そうした人々は、何度も避難を繰 り返さなければならなかった。その間に、病に倒れる人々。失ったものは取り返しが つかない。
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ベラルーシの首都ミンスクの小児血友病センターでは、白血病や甲状腺ガンの子ど もが治療を受けている。事故後多発した白血病は、いまは横ばいになっているが、数 年のうちに急増するのではないかと、医者は語る。ここではかつて、治癒率が非常に 低かったが、いまでは60%以上が命をとりとめている。しかし、発見が遅れたりして 、手のほどこしようのない状態で病院に運ばれてくる子どもも多い。
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左の女の子はアレサという。写真を撮ったとき('90年7月)はほとんどよくなっていて、2週間後に退院。9月にはあこがれの小学校に入学した。しかしすぐに 白血病を再発し、苦しみぬいて死んでいったとい う。右のバーニャは、半年後に会ったとき髪の毛がすべて抜け落ちていたが、元気に廊下でボール遊びをしていた。しかし、この子は'91年3月に死亡した。母親は今も看護婦として病院に残って、子 どもたちの世話を続けている。
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事故から3年たった頃、私はタチアナに会った。彼女は娘のアリョーナの血液検査 の結果が悪いと聞かされ、落胆していた。「大きな悲劇が私たち を狙っていて、いまにも襲ってくるような気がするのです」と彼女はいう。それでも 、あの「ニンジン色の森」の残された木が立ちつづけるかぎり、私たちも大丈夫です 、といっていた。しかし翌年その木が倒れたことを告げたとき、彼女はショックを隠 しきれなかった。
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爆発の消火と放射能除染作業に使った車両やヘリコプターの「墓場」。大量の放射 能を帯びてしまい放置されたままだ。この作業にかかわった多くの人が病気になり死 亡した。前途を悲観しての自殺も相次いでいる。
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ベラルーシ側の30キロ圏検問の係官は、夫婦で汚染地に住みついている。ほかに職 が見つけられないのだ。

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