研究会設立に至る若干の経緯 (高野孟)


 この研究会が設立されることになったのは、乗馬クラブ「クリエ三浦」を経営する須江隆三さん(当会事務局長)と私の“30年振りの再会”がきっかけだった。そのことを私は『乗馬ライフ』で長年連載しているコラムの03年6月号で書いているので、そのままここに転載する。

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 この連載を長年にわたり書きつづっていると、時折、思わぬ方からお便りを頂くことがある。前号本欄では在日フランス大使館の広報誌『ラベル・フランス』を紹介しながら同国の乗馬文化の奥行きの深さについて述べたが、発売日から数日たってさっそく1通のメールが飛び込んできた。

「あなたの乗馬ライフの文、何時も読んでいました。実は昨年末に『ラベル・フランス』を読んで眼からウロコの落ちた感じで、一度フランスに行って実情を見てみたいと思っていたら、あなたの文に出逢い、嬉しくなった。僕、三浦半島でクリエ三浦という乗馬クラブを始めて、今年で15年、会員250名、馬30頭でようやく赤字を出さないで行けるようになりました。乗馬文化についての考え方、同じところもありそうなので、一度逢って話したいなあ。乗馬界で、そういう話が気持ちよくできる相手は、今の所いなさそうで、残念だと思っていたのです」

 誰だろうと思えば、「麹町企画にいた須江です」とある。ヒエーッ、あの須江さんだ。私が大学を出て最初に勤めた通信社を1972年に追い出されて失業保険で食いつないでいる時に、拾ってくれたのが麹町企画という広告・編集プロダクションで、その会社のオーナー社長が須江隆三さんだった。3年間お世話になって、その間、大企業のPR誌の取材・編集や広報・販促戦略の立案など、まあ職業分類でいえばコピーライターとして仕事をして、けっこうなお給料を頂いていた。が、やはり本業の政治・国際問題の書き手に戻ろうという気持ちを抑えられず、わがままを言って辞めさせてもらい、再び失業保険を受けながらフリーライターとしての苦難の道を歩んだのだった。それ以来だから、かれこれ30年近くお目にかかっていない。

 そう言えば、その会社にいる頃に、須江社長が神奈川県藤沢市にある乗馬クラブに入って、国体だか全日本大会だかで2位に入ったり3位に入ったりしているという話を聞いたことがあった。会社で伊豆大島に社員旅行に行った時には、社員一同がバスに乗って三原山に登っていく脇を、社長だけが颯爽たる乗馬服姿で馬に乗って駆け抜けていったりしたこともあった。その頃は馬に興味がなかった私は「変な社長だな」と思ったりもしたものだった。そうか、馬好きが高じてとうとう自分の乗馬クラブを持ったのか……。で、4月初めのある日、私の自宅からは横横道路を通って45分ほどの三浦半島の高台にある「クリエ三浦」に須江さんを訪ねたのである。

 聞くと、彼は私が辞めてから数年してその広告会社を人手に渡して、横浜で電子部品会社を設立して成功し、それも辞めて、その退職金を元手に89年にこの乗馬クラブを作った。さんざん苦労を重ねたようだが、メールにもあるように、ようやくこの数年、経営的に成り立つようになってきたのだという。この日は雨で、周りの景色もけむっていたが、晴れていれば、緑の農地の向こうに秩父連山から富士山、伊豆半島、大島まで見渡せるすばらしいロケーションに立派なクラブハウスが立っていて、窓を覗くと、悪天候にもかかわらず、数人の少年や女性がひたむきに馬場を回っている姿が目に映る。

 スタイルはブリティッシュで、馬場馬術や障害の本格的な競技志向の選手を育ててはいるものの、それを“頂点”とみなすような(よくありがちの)運営方針は採らず、総合やエンデュランス、さらにはどんな競技にも興味はないが馬に乗らせたら誠に上手な“自然逍遥派”風の乗り手も等しく重視するという考え方で、三浦海岸の渚を走る外乗やニュージーランド・ツァーなども行っている。

 須江さんの夢はさらに膨らんでいて、軽井沢の乗馬クラブと提携して、夏の間ここの馬を何頭か出張させて林間トレッキングにまとまったお客を送り込む計画が進行中だ。さらには、実は、横浜市南部の磯子近辺からおおむね横横道路沿いに、釜利谷インター周辺のいくつかの「市民の森」、そこから一方は鎌倉の裏手の天園山地山地一帯、他方は三浦半島の池子弾薬庫跡の裏手から湘南国際村周辺を通ってこのクラブのあたりまで、かろうじて開発の波に呑み込まれていない一連なりの巨大な森林・田園ゾーンがあって、そこを馬で歩ける道を造るという構想も抱いているという。73歳でこうして馬文化の夢を追う人がいて、それがたまたま30年前に一緒に仕事をした人だったというのは、何とも楽しい。▲