実 践 論
認識と実践の関係——知と行の関係について
毛沢東 (一九三七年七月)
《引用者注》
(1)出典は『毛沢東選集 第一巻』(日本共産党出版部、1965年、P.399〜419)。訳は日本共産党中央委員会毛沢東選集翻訳委員会。他に松村一人訳『実戦論・矛盾論』(岩波文庫)もあるが、いずれも絶版。
(2)原文には「章」がなく、(1)、(2)…の「節」を引用者が付け加えた。
(3)仮名遣い・段落・句読点などは読みやすさを考えて多少補正した。
(4)《訳注》は省略した。(高野)
==目 次 [clickable]== 『矛盾論』に飛ぶ→
(1)実践が真理の基準
(2)現象から本質への認識の発展
(3)直接的経験と間接的経験
(4)認識運動の具体例
(5)感性的認識から理性的認識へ
(6)認識は実践に戻る
(7)過程の推移への適応
(8)結論
《原注》
(1)実践が真理の基準
マルクス以前の唯物論は、人間の社会的性質から離れ、人間の歴史的発展から離れて、認識の問題を考察した。したがって、社会的実践に対する認識の依存関係、すなわち生産および階級闘争に対する認識の依存関係を理解できなかった。
まず第一に、マルクス主義者は、人類の生産活動がもっとも基本的な実践活動で、その他のすべての活動を決定するものであると考える。人間の認識は、主として物質の生産活動に依存して、しだいに自然界の現象、自然界の性質、自然界の法則性、人間と自然界との関係を理解するようになる。しかも、生産活動をつうじて、人と人との一定の相互関係をも、さまざまな程度で、しだいに認識するようになる。これらの知識は、生産活動を離れては何ひとつ得られない。階級のない社会では、人類の物質生活の問題を解決するために、それぞれの人が社会の一員として、社会の他の成員と協力し、一定の生産関係を結んで、生産活動に従事する。また、さまざま階級社会では、人類の物質生活の問題を解決するために、各階級の社会の成員が、さまざまの異なった様式で一定の生産関係をむすんで、生産活動に従事する。これが人間の認識の発展する基本的な源泉である。
人間の社会的実践は、生産活動という一つの形態に限られるものではなく、そのほかにも、階級闘争、政治生活、科学・芸術活動など多くの形態がある。要するに、社会の実際生活のすべての領域には社会的人間が参加しているのである。したがって、人間の認識は、物質生活のほかに、政治生活、文化生活(物質生活と密接につながっている)からも、人と人とのいろいろな関係をさまざまな程度で知るようになる。そのうちでも、とくにさまざまな形態の階級闘争は、人間の認識の発展に深い影響をあたえる。階級社会では、だれでも一定の階級的地位において生活しており、どんな思想でも階級の烙印の押されていないものはない。
マルクス主義者は、人類社会の生産活動は、低い段階から高い段階へと一歩一歩発展してゆく、したがって、人間の認識もまた、自然界に対してであれ、杜会に対してであれ、やはり低い段階から高い段階へ、すなわち浅いところから深いところへ、一面から多面へと一歩一歩発展してゆくものと考える。歴史上長いあいだ、人びとは社会の歴史について、ただ一面的な理解しかできなかった。それは、一方では搾取階級の偏見がつねに社会の歴史をゆがめていたことと、他方では、生産規模が小さかったために、人びとの視野が限られていたことによる。巨大な生産力——大工業にともなって、近代プロレタリアートが出現したときになってはじめて、人びとは、社会の歴史的発展に対して全面的歴史的に理解することができるようになり、社会についての認識を科学に変えた。これがマルクス主義の科学である。
マルクス主義者は、人びとの社会的実践だけが、外界に対する人びとの認識の真理性をはかる基準であると考える。実際の状況は次のようである。社会的実践の過程において(物質生産の過程、階級闘争の過程、科学実験の過程において)、人びとが頭のなかで予想していた結果に到達した場合にだけ、その認識は実証される。人びとが仕事に成功しようと思うなら、つまり予想した結果を得ようとするなら、自分の思想を客観的外界の法則性に合致させなければならない。合致させなければ、実践において失敗するにちがいない。失敗したあとで、失敗から教訓をくみとり、自分の思想を外界の法則性に合致するように改めると、失敗を成功に変えることができる。「失敗は成功のもと」とか、「一度つまずけば、それだけ利口になる」とか言われるのは、この道理を言っているのである。弁証法的唯物論の認識論は、実践を第一の地位に引きあげ、人間の認識は実践からいささかでもはなれることができないと考えて、実践の重要性を否定し、認識を実践から切り離すすべての誤った理論をしりぞける。
レーニンは次のように言っている。「実践は(理論的)認識よりも高い。なぜなら、実践は単に普遍性という長所をもつだけでなく、直接的な現実性という長所をももっているからである。」[1] マルクス主義の哲学、つまり弁証法的唯物論にはもっとも顕著な時徴が二つある。一つはその階級性で、弁証法的唯物論はプロレタリアートに奉仕するものであることを公然と言明していること、もう一つはその実践性で、実践に対する理論の依存関係、すなわち理論の基礎は実践であり、理論はまた転じて実践に奉仕するものであることを強調していることである。認識あるいは理論が真理であるかどうかの判定は、主観的にどう感じるかによってきまるのではなく、客観的に社会的実践の結果がどうであるかによってきまるのである。真理の基準となりうるものは、社会的実践だけである。実践の観点は、弁証法的唯物論の認識論の第一の、そして基本的な観点である[2]。
(2)現象から本質への認識の発展
だが、人間の認識は、いったいどのようにして実践から生まれ、また実践に奉仕するのか。これは認識の発展過程を見れば分かることである。
もともと人間は、実践過程において、はじめのうちは、過程のなかのそれぞれの事物の現象の面だけを見、それぞれの事物の一面だけを見、それぞれの事物のあいだの外部的つながりだけを見るにすぎない。たとえば、よその人たちが視察のために延安にやってきたとする。最初の一両日は、延安の地形、街路、家屋などをながめたり、多くの人に会ったり、宴会や交歓会や大衆集会に出席したり、いろいろな話を聞いたり、さまざまな文献を読んだりする。これらは事物の現象であり、事物のそれぞれの一面であり、また、これらの事物の外部的なつながりである。これを認識の感性的段階、すなわち感覚と印象の段階という。つまり延安のこれらの個々の事物が、視察団の諸氏の感覚器官に作用して、彼らの感覚を引きおこし、彼らの頭脳に多くの印象と、それらの印象のあいだの大まかな外部的なつながりを生じさせたのであって、これが認識の第一の段階である。この段階では、人びとは、まだ深い概念をつくりあげることも、論理にあった(すなわちロジカルな)結論を下すこともできない。
社会的実践の継続は、実践のなかで感覚と印象を引きおこしたことを人びとに何回となくくりかえさせる。すると、人びとの頭脳のなかで、認識過程における質的激変(すなわち飛躍)がおこり、概念が生れる。概念というものは、もはや事物の現象でもなく、事物のそれぞれの一面でもなく、それらの外部的なつながりでもなくて、事物の本質、事物の全体、事物の内部的なつながりをとらえたものである。概念と感覚とは、単に量的にちがっているぱかりでなく、質的にもちがっている。このような順序を踏んで進み、判断と推理の方法を使っていけば、論理にあった結論を生みだすことができる。『三国演義』に「ちょっと眉根をよせれば、名案がうかぶ」と言われているのも、またわれわれが日常「ちょっと考えさせてくれ」といったりするのも、つまりは、人間が頭脳のなかで、概念をつかって判断や推理をする作業をいっているのである。これが認識の第二の段階である。
よそからきた視察団の諸氏が、いろいろの材料を集めて、さらに「ちょっと考え」ていくと、「共産党の抗日民族統一戦線政策は徹底しており、誠意があり、ほんものである」という判断を下すことができる。こうした判断を下したのちに、もし彼らの団結救国もほんものであるならば、彼らは一歩を進めて「抗日民族統一戦線は成功する」という結論を下すことができるようになる。この概念、判断および推理の段階は、ある事物に対する人びとの認識過程全体のなかでは、より重要な段階で、つまり理性的認識の段階である。
認識の真の任務は、感覚をつうじて思考に逹っすること、一歩一歩客観的事物の内部矛盾、その法則性、一つの過程と他の過程とのあいだの内部的つながりを理解するに至ること、つまり論理的認識に逹っすることにある。くりかえして言えば、論理的認識が感性的認識と異なるのは、感性的認識が事物の一面的なもの、現象的なもの、外部的なつながりのものに属するのに対して、論理的認識は、大きく一歩を進めて、事物の全体的なもの、本質的なもの、内部的なつながりのものにまで逹っし、周囲の世界の内在的矛盾をあばきだすところまでいき、したがって、周囲の世界の発展を、周囲の世界の全体において、そのすべての側面の内部的なつながりにおいて、把握することができるからである。
実践にもとづいて、浅いところから深いところへ進むという認識の発展過程についての弁証法的唯物論の理論を、マルクス主義以前にはこのように解決したものが一人もなかった。マルクス主義の唯物論が、はじめてこの問題を正しく解決し、認識の深化する運動を唯物論的に、しかも弁証法的に指摘し、社会的な人間が彼らの生産と階級闘争の複雑な、つねにくりかえす実践のなかで、感性的認識から論理的認識へと推移していく運動を指摘した。レーニンは言っている。「物質という抽象、自然法則という抽象、価値という抽象など、一言でいえば、すべての科学的な(正しい、まじめな、でたらめでない)抽象は、自然をより深く、より正確に、より完全に反映する。」[3] マルクス・レーニン主義は次のように認める。認識過程における二つの段階の特質は、低い段階では認識が感性的なものとしてあらわれ、高い段階では認識が論理的なものとしてあらわれるが、いずれの段階も統一的な認識過程のなかでの段階である。感性と理性という二つのものは、性質は異なっているが、相互に切り離されるものではなく、実践の基礎の上で統一されているのである。
われわれの実践は次のことを証明している。感覚されたものでも、それがすぐには理解できないこと、理解したものだけがより深く感覚されるということである。感覚は現象の問題を解決するだけであって、本質の問題を解決するのは理論である。これらの問題の解決においては、少しでも実践から離れることはできない。だれでも、事物を認識しようとすれば、その事物と接触すること、つまりその事物の環境のなかで生活すること(実践すること)よりほかには、解決の方法がない。封建社会のなかにいて、資本主義社会の法則を前もって認識することはできない。なぜなら、資本主義はまだあらわれていず、まだその実践がないからである。マルクス主義は資本主義社会の産物でしかありえない。マルクスが資本主義の自由競争時代に前もって帝国主義時代のいくつかの特殊な法則を具体的に認識することができなかったのは、帝国主義という資本主義の最後の段階がまだやってこず、そのような実践がまだなかったからであって、この任務を担い得たものは、ほかならぬ、レーニンとスターリンである。マルクス、エンゲルス、レーニン、スクーリンがその理論をつくりあげることのできたのは、彼らが天才であったという条件のほかに、主としてみずから当時の階級闘争と科学実験という実践に参加したからであり、後者の条件がなければ、どんな天才でも成功できるものではない。「秀才は家の中にいても、天下のことは何でも知っている」というこの言葉は、技術の発達していなかった昔では、たんなる空言にすぎなかった。技術の発達した現代では、この言葉を実現することもできるが、真に身をもって知っている者は世の中で実践している人たちであって、こうした人がその実践のなかで「知」を得、それが文字と技術による伝達をつうじて「秀才」に伝わり、そこで秀才が間接に「天下のことを知る」ことができるのである。
(3)直接的経験と間接的経験
ある事物、もしくはあるいくつかの事物を直接に認識しようとするには、その事物の現象に触れることができるように、現実を変革し、ある事物を変革する実践的闘争にみずから参加する以外になく、また、その事物の本質をあばきだし、それらを理解することができるように、現実を変革する実践的闘争にみずから参加する以外にない。これはどんな人でも実際に歩んでいる認識の道すじであって、ただ一部の人が故意にそれをゆがめて反対のことを言っているにすぎない。世の中でいちばんこっけいなのは、「もの知り屋」たちが、聞きかじりの生半可な知識をもって、「天下第一」だと自称していることであるが、これこそ身のほどを知らないことのよいあらわれである。
知識の問題は科学の問題で、いささかの虚偽も傲慢さもあってはならない。決定的に必要なのは、まさにその反対のこと——誠実さと謙虚な態度である。知識を得たいならば、現実を変革する実践に参加しなければならない。梨の味を知りたければ、自分でそれを食べてみること、すなわち梨を変革しなければならない。原子の構造と性質を知りたければ、物理学や化学の実験によって、原子の状態を変革しなければならない。革命の理論と方法を知りたければ、革命に参加しなければならない。すべての真の知識は直接的経験をその源としている。
しかし、人間は何もかも直接に経験できるものではない。事実、多くの知識は間接に経験されたもので、昔や外国のことについてのすべての知識がそれである。それらの知識は、昔の人びとや外国の人びとにとっては直接に経験したもので、もし昔の人や外国の人が直接に経験した際、それがレーニンの指摘した条件、つまり「科学的な抽象」に合致しており、客観的な事物を科学的に反映していたならば、それらの知識は信頼できるものであるが、そうでないものは信頼できないものである。だから、一人の人間の知識は、直接に経験したものと、間接に経験したものとの二つの部分以外にはない。しかも、自分にとっては間接に経験したものが、他の人にとっては直接に経験したものである。したがって、知識全体について言うと、どんな知識でも直接的経験から切り離せるものはない。
いかなる知識の源泉も、客観的な外界に対する人間の肉体的感覚器官の感覚にある。この感覚を否定し、直接的経験を否定し、現実を変革する実践にみずから参加することを否定する者は、唯物論者ではない。「もの知り屋」がこっけいなわけは、ここにある。中国には、「虎穴に入らずんば、虎児を得ず」ということわざがある。この言葉は、人びとの実践にとっても真理であるし、認識論にとっても真理である。実践を離れた認識というものはありえない。
(4)認識運動の具体例
現実を変革する実践にもとづいて生れた弁証法的唯物論の認識運動——認識の次第に深化する運動を理解するために、さらにいくつかの具体的な例をあげよう。
資本主義社会に対するプロレタリアートの認識は、その実践の初期——機械の破壊や自然発生的闘争の時期には、まだ感性的認識の段階にとどまっていて、資本主義のそれぞれの現象の一面、およびその外部的なつながりを認識したにすぎなかった。当時、彼らは、まだいわゆる「即自的階級」であった。しかし、彼らの実践の第二の時期——意識的、組織的な経済闘争および政治闘争の時期になると、実践によって、また長期にわたる闘争の経験、これらのさまざまな経験をマルクスとエンゲルスが科学的な方法で総括し、マルクス主義の理論をつくりだして、プロレタリアートを教育したことによって、プロレタリアートは資本主義社会の本質を理解し、社会階級間の搾取関係を理解し、プロレタリアートの歴史的任務を理解するようになった。この時、彼らは「対自的階級」に変わったのである。
帝国主義に対する中国人民の認識もまたこのとおりである。第一段階は、表面的な感性的な認識の段階であり、それは太平天国運動や義和団運動などの漠然とした排外主義闘争にあらわれている。第二段階で、はじめて理性的な認識の段階に進み、帝国主義の内部と外部のさまぎまな矛盾を見ぬくとともに、帝国主義が中国の買弁階級および封建階級と結んで、中国の人民大衆を抑圧し搾取している本質を見ぬいたのであって、このような認識は、一九一九年の五・四運動[4] 前後になってやっと生れはじめたのである。
われわれはさらに戦争について見てみよう。戦争の指導者たちが、もし戦争に経験のない人びとであるならば、ある具体的な戦争(たとえば、われわれの過去十年にわたる土地革命戦争)の奥深い指導法則について、はじめの段階では理解していない。はじめの段階では、彼らは身をもって多くの戦いの経験をつむだけで、しかも何度となく負けいくさをやる。しかし、これらの経験(勝利の経験、とくに敗北の経験)によって、戦争全体をつらぬいている内部的なもの、すなわちその具体的な戦争の法則性が理解でき、戦略と戦術が分かるようになり、したがって確信をもって戦争を指導できるようになる。この時に、もし経験のない者に替えて戦争を指導させることになると、その正しい法則を会得するまでには、また何回かの負けいくさをやらなければ(経験をつまなければ)ならない。
われわれは、一部の同志が活動の任務を引きうけるのにしりごみするとき、自信がないという言葉を口にするのをよく聞く。どうして自信がないのか。それは、彼がその活動の内容と環境について法則的な理解をしていないからであって、つまり今までにそういう活動に接したことがないか、あるいは接することが少なかったので、そういう活動の法則性については知りようもなかったからである。活動の状況と環境をくわしく分析してやると、彼は前よりわりあい自信がついたように感じて、進んでその活動をやろうというようになる。もしその人がその活動にある期間たずさわって、活動の経験をつんだなら、そしてまた、彼が問題を主観的、一面的、表面的に見るのでなく、状況について謙虚に探究する人であるなら、彼はその活動をどのように進めるべきかについての結論を自分で引きだすことができ、活動に対する勇気も大いに高まるであろう。問題を主観的、一面的、表面的に見る人に限って、どこへいっても周囲の状況をかえりみず、事がらの全体(事がらの歴史と現状の全体)を見ようとせず、事がらの本質(事がらの性質およびこの事がらとその他の事がらとの内部的なつながり)には触れようともしないで、ひとりよがりに命令を下すのであって、こういう人間がつまづかないはずはない。
(5)感性的認識から理性的認識へ
以上のことから見て、認識の過程は、第一歩が外界の事がらに触れはじめることで、これが感覚の段階である。第二歩が感覚された材料を総合して、それを整理し改造することで、これが概念、判断および推埋の段階である。感覚された材料にもとづいて正しい概念と論理をつくりだすには、その材科が十分豊富で(断片的な不完全なものでなく)、実際に合って(錯覚ではなくて)いなければならない。
ここでとくに指摘しておかなければならない重要な点が二つある。第一の点は、前にものべているが、ここでくりかえして言えば、つまり理性的認識は、感性的認識に依存するという問題である。もし、理性的認識が感性的認識からでなくても得られると考える人があれば、それは観念論者である。哲学史上には「合理論」と言われる学派があって、理性の実在性だけを認めて、経験の実在性を認めず、理性だけが信頼できて、感覚的な経験は信頼できないと考えているが、この一派の誤りは、事実を転倒しているところにある。理性的なものが信頼できるのは、まさにそれが感性に由来するからで、そうでなければ、理性的なものは源のない流れ、根のない木となり、主観的に生みだされた、信頼できないものにすぎなくなる。認識過程の順序からいえば、感覚的経験が最初のもので、われわれが認識過程における社会的実践の意義を強調するのは、人間の認識を発生させはじめ、客観的外界から感覚的経験を得させはじめることのできるものは、社会的実践よりほかにないからである。目をとじ耳をふさいで、客観的外界とまったく絶縁している人には、認識などありえない。認識は経験にはじまる——これが認識論の唯物論である。
第二の点は、認識は深化させていくべきであり、認識の感性的段階は理性的段階に発展させていくべきである——これが認識論の弁証法である[5] 。 認識は低い感性的段階にとどまっていてもよいと考え、感性的認識だけが信頼できるもので、理性的認識は信頼できないものだと考える人があれば、それは歴史上の「経験論」の誤りをくりかえしたことになる。この理論の誤りは、感覚的材料は、客観的外界の一部の真実性を反映したものにはちがいないが(わたしはここでは、経験をいわゆる内省的体験としてしか考えない観念論的経験論については述べない)、それらは、一面的な表面的なものにすぎず、このような反映は不完全で、事物の本質を反映したものではない、ということを知らない点にある。完全に事物の全体を反映し、事物の本質を反映し、事物の内部的法則性を反映するためには、感覚された豊富な材料に、思考のはたらきをつうじて、滓をすてて粋をとり、偽をすてて真を残し、このことからあのことへ、表面から内面へ進む改造と製作の作業を加えて、概念および理論の体系をつくりあげなければならないし、感性的認識から理性的認識へ躍進しなければならない。改造されたこのような認識は、より空虚な、より信頼できない認識になるのではなく、反対に、もしそれが認識過程で、実践という基礎にもとづいて科学的に改造されたものでありさえすれば、まさにレーニンが言っているように、より深く、より正しく、より完全に客観的事物を反映したものである。俗流の事務主義者はそうではない。彼らは経験を尊重して理論を軽視するので、客観的過程の全体を見わたすことができず、明確な方針をもたず、遠大な見通しがなく、ちょっとした成功やわずかばかりの見識で得意になる。このような人間が革命を指導したなら、革命は壁に打ちあたるところまで引きずられていくにちがいない。
理性的認識は感性的認識に依存し、感性的認識は理性的認識にまで発展きせるべきである。これが弁証法的唯物論の認識論である。哲学における「合理論」と「経験論」は、いずれも認識の歴史的性質や弁証法的性質を理解することができず、それぞれ一面の真理をもってはいるが(これは唯物的な理性論と経験論について言うのであって、観念的な理性論と経験論について言うのではない)、認識論の全体から言えば、どちらも誤りである。感性から理性に進む弁証法的唯物論の認識運動は、小きな認識過程(たとえばある事物、あるいはある活動についての認識)においてもそのとおりであり、大きな認識過程(たとえばある社会、あるいはある革命についての認識)においてもそのとおりである。
(6)認識は実践に戻る
しかし、認識運動はここで終わるのではない。弁証法的唯物論の認識運動を、もし理性的認識のところでとどめるならば、まだ問題の半分に触れたにすぎない。しかも、マルクス主義の哲学から言えば、それは非常に重要だとはいえない半分に触れたにすぎない。マルクス主義の哲学が非常に重要だと考えている問題は、客観世界の法則性が分かることによって、世界を説明できるという点にあるのではなく、この客観的法則性に対する認識を使って、能動的に世界を改造する点にある。マルクス主義から見れば、理論は重要であり、その重要性は「革命の理論がなければ、革命の運動もありえない」[6] というレーニンの言葉に十分あらわされている。しかし、マルクス主義が理論を重視するのは、まさにそれが行動を指導できることからであり、またその点だけからである。たとえ、正しい理論があっても、ただそれについておしゃべりするだけで、たな上げしてしまって、実行しないならば、その理論がどんなによくても、なんら意義はない。認識は実践にはじまり、実践をつうじて理論的認識に逹っすると、ふたたび実践にもどらなければならない。認識の能動的作用は、たんに感性的認識から理性的認識への能動的飛躍にあらわれるだけではなく、もっと重要なことは、理性的認識から革命の実践へという飛躍にもあらわれなければならないことである。世界の法則性についての認識をつかんだならば、それをふたたび世界を改造する実践に持ち帰る、つまり、ふたたび生産の実践、革命的な階級闘争と民族闘争の実践、および科学実験の実践に使わなければならない。これが理論を検証し、理論を発展させる過程であり、全認識過程の継続である。
理論的なものが客観的真理性に合致するかどうかの問題は、前にのべた感性から理性への認識運動のなかでは、まだ完全には解決されていないし、また完全に解決できるものでもない。この問題を完全に解決するには、理性的認識をふたたび社会的実践のなかに持ち帰り、理論を実践に応用して、それが予想した目的を達成できるかどうかを見るほかはない。多くの自然科学の理論が真理だと言われるのは、自然科学者たちがそれらの学説をつくりだした時だけでなく、さらにその後の科学的実践によってそれが実証された時である。マルクス・レーニン主義が真理だと言われるのも、やはりマルクス、エンゲルス、レーニン、スターリンなどが、これらの学説を科学的につくりあげた時だけでなく、さらにその後の革命的な階級闘争と民族闘争の実践によってそれが実証されたときである。弁証法的唯物論が普遍的真理であるのは、いかなる人を通じての実践も、その範囲からでることができないからである。人類の認識の歴史は、次のことをわれわれに教えている。多くの理論は真理性において不完全なもので、その不完全さは、実践の検証をつうじて正されること、多くの理論は誤っており、その誤りは実践の検証をつうじて正されることである。実践は真理の基準であるとか、「生活、実践の観点は認識論の第一の、そして基本的な観点でなければならない」[7] とか言われる理由はここにある。
スターリンが次のように言っているのは正しい。「理論は、革命の実践と結びつかなければ対象のない理論となる。同様に実践は、革命の理論を指針としなければ、盲目的な実践となる。」[8] ここまでくると、認識運動は完成したと言えるであろうか。われわれの答えは、完成したが、まだ完成していないというものである。社会の人びとが、ある発展段階のなかの、ある客観的過程を変革する実践(それが、ある自然界の過程を変革する実践であろうと、あるいはある社会の過程を変革する実践であろうと)に身を投じ、客観的過程の反映と主観的能動性の作用によって、その認識を感性的なものから理性的なものへと推移させ、その客観的過程の法則性にほぼ合った思想、理論、計画あるいは成案がつくられたならば、さらに、この思想、理論、計画、あるいは成案をその同じ客観的過程の実践に応用してみて、もし予想した目的を実現することができたならば、つまりあらかじめ持っていた思想・理論・計画・成案を、その同じ過程の実践のなかで事実にするか、あるいはだいたいにおいて事実にしたならぱ、この具体的な過程についての認識運動は完成したことになる。たとえば、自然を変革する過程では、ある工事計画が実現され、ある科学上の仮説が実証され、ある器物がつくりあげられ、ある農作物が採りいれられ、また社会を変革する過程では、あるストライキが勝利し、ある戦争が勝利し、ある教育計画が実現したことは、いずれも予想した目的を実現したものといえる。
しかし、一般的に言って、自然を変革する実践においても、社会を変革する実践においても、人びとがあらかじめ持っていた思想、理論、計画、成案が、何らの変更もなしに実現されることはきわめて少ない。これは、現実の変革にたずさわる人びとが、たえず多くの制約を受けていることによるものであって、単に科学的条件および技術的条件の制約をたえず受けているだけでなく、客観的過程の発展とそのあらわれる度合いの制約(客観的過程の側面および本質がまだ十分に露呈していない)をも受けていることによるのである。このような状況のもとでは、前もって予想できなかった事情を実践の中で見いだしたことによって、思想、理論、計画、成案が部分的に改められることがよくあるし、全面的に改められることもある。つまり、あらかじめ持っていた思想、理論、計画、成案が部分的にか、あるいは全面的に実際と一致しなかったり、部分的にかあるいは全面的に誤っていたりすることは、どちらもあることである。多くの場合、何回も失敗をくりかえしてはじめて誤った認識を改めることができ、客観的過程の法則性に合致させることができ、したがって主観的なものを客観的なものに変えることができる。つまり、実践のなかで予想した結果を得ることができるのである。しかし、いずれにしても、ここまでくると、ある発展段階におけるある客観的過程についての人びとの認識運動は、完成したといえる。
(7)過程の推移への適応
しかし、過程の推移という点からいえば、人びとの認識運動は完成していないのである。どのような過程も、それが自然界のものであろうと、社会的のものであろうと、すべて内部の矛盾と闘争によ,て、先へ先へと推移し発展するものであって、人びとの認識運動も、またそれにつれて推移し発展すべきである。社会運動について言えば、革命の真の指導者は、自分の思想、理論、計画、成案に誤りがあった場合には、前に述べたように、それを改めることに上手でなければならないばかりでなく、ある客観的過程が一つの発展段階から他の発展段階に推移、転化した時には、自分をはじめ、革命に参加するすべての人びとを主観的認識の上でも、それにつれて推移、転化させることに上手でなければならない。すなわち新しい状況の変化に適応するように、新しい革命の任務と新しい活動の成案を提起しなければならない。革命の時期の情勢の変化はきわめて急速である。もし革命党員の認識がそれに応じて急速に変化することができなければ、革命を勝利に導くことはでできない。
しかし、思想が実際より立ちおくれることはよくある。これは人間の認識が多くの社会的条件によって制約されているからである。われわれは革命陣営内の頑迷分子に反対する。かれらの思想は変化した客観的状況にしたがって前進することができず、歴史の上では右翼日和見主義としてあらわれる。これらの人びとには矛盾の闘争がすでに客観的過程を前へ推し進めたことが見ぬけず、彼らの認識は、依然として古い段階に立ちどまっているのである。すべての頑迷派の思想はこのような特徴を持っている。彼らの思想は社会的実践から遊離しており、彼らは社会という車の前に立ってその導き手になることができず、ただ車のうしろについて、車が速く進みすぎると愚痴をこぼし、車をうしろに引っぱって、逆もどりさせようとすることしか知らない。
われわれはまた極左空論主義にも反対する。彼らの思想は客観的過程の一定の発展段階を飛びこえており、彼らのうちのあるものは幻想を真理だとみなし、またあるものは将来にしか実現の可能性のない理想を、現在の時期にむりやりに実現しようとし、当面の大多数の人びとの実践から遊離し、当面の現実性から遊離して、行動のうえでは冒険主義としてあらわれる。観念論と機械的唯物論、日和見主義と冒険主義は、いずれも主観と客観との分裂、認識と実践との分離を特徴としている。科学的な社会的実践を特徴とするマルクス・レーニン主義の認識論は、これらの誤った思想に断固として反対しないではおれない。マルクス主義者は、宇宙の絶対的な、総体的な発展過程のなかで、それぞれの具体的な過程の発展はすべて相対的なものであるから、絶対的真理の大きな流れのなかでは、それぞれ一定の発展段階にある具体的な過程についての人びとの認識には相対的真理性しかないものと考える。無数の相対的真理の総和が絶対的真理である[9]。
客観的過程の発展は矛盾と闘争にみちた発展であり、人間の認識運動の発展もまた矛盾と闘争にみちた発展である。客観的世界のあらゆる弁証法的な運動は、遅かれ早かれみな人聞の認識に反映されうるものである。社会的実践における発生、発展、消滅の過程は無限につづき、人間の認識の発生、発展、消滅の過程もまた無限につづく。一定の思想、理論、計画、成案にもとづいて、客観的現実の変単にとりくむ実践が、一回一回と前進すれば、客観的現実についての人びとの認識もそれにともなって、一回一回と深化してゆく。客観的現実世界の変化する運動は、永遠に完結することがなく、実践のなかでの真理に対する人間の認識も永遠に完結することがない。マルクス・レーニン主義は、真埋に終点をおくものではなく、実践のなかでたえず真理を認識する道を切りひらいていくのである。
(8)結論
われわれの結論は、主観と客観、理論と実践、知と行との具体的な歴史的な統一であり、具体的な歴史から遊離した、あらゆる「左」の、あるいは右の誤った思想に反対することである。社会が今のような時代にまで発展してくると、世界を正しく認識し、改造する責務は、すでに歴史的にプレタリアートとその政党の肩にかかっている。このような、科学的認識にもとづいて定められた世界改造の実践過程は、世界においても、中国においても、すでに一つの歴史的な時期——有史以来かつてなかった重大な時期にきている。それは、世界と中国の暗黒面を全面的にくつがえして、これまでになかったような光明の世界に変えることである。
プロレタリアートと革命的人民の世界改造の闘争には、次のような任務の実現がふくまれている。すなわち、客観的世界を改造し、また自己の主観的世界をも改造する——自己の認識能力を改造し、主観的世界と客観的世界との関係を改造することである。地球上の一部では、すでにこのような改造がおこなわれている。それがソ連でめる。ソ連の人民は、今もなおこのような改造の過程を推し進めている。中国人民も世界の人民も、すべてこのような改造の過程をいま経過しているか、あるいは将来経過するであろう。改造される客観的世界というもののなかには、改造に反対するあらゆる人びとがふくまれており、彼らが改遣きれるには、強制の段階を経なければならず、そののちにはじめて自覚的段階に進むことができるのである。全人類がすべて自覚的に自己を改造し、世界を改造する時がくれば、それは世界的な共産主義の時代である。
実践をつうじて真理を発見し、さらに実践をつうじて真理を実証し、真理を発展させる。感性的認識から能動的に理性的認識に発展し、さらに理性的認識によって能動的に革命的実践を指導し、主観的世界と客観的世界を改造する。実践、認識、再実践、再認識というこの形式が循環往復して無限にくりかえされ、その一循環ごとに、実践と認識の内容はより一段と高い段階に進んでいく。これが弁証法的唯物論の認識論の全体であり、これが弁証法的唯物論の知と行の統一観である。
ページトップに戻る↑
《原注》
わが党内では、かつて、一部の教条主義的な同志が、長いあいだ申国革命の経験の受け入れを拒否し、「マルクス主義は教条ではなく行動への指針である」という真理を否定して、ただマルクス主義文献のなかの片言隻句をうのみにし、それで人びとをおどかしていた。また、一部の経験主義的な同志は、長いあいだ自分の断片的な経験にしがみついて、革命の実践にとっての理論の重要性を理解せず、革命の全局面が見えなかったので、活動には骨を折ったが、盲目的であった。この二種類の同志たちの誤った思想、とくに教条主義の思想は、一九三一年から一九三四年にかけて、中国革命にきわめて大きな損失をあたえたのに、教条主義者は、マルクス主義の衣をまとって、多くの同志たちをまどわせていた。毛沢東同志の『実践論』は、マルクス主義的認識論の観点から、党内の教条主義と経験主義、特に教条主義の主観主義の誤りを暴露するために書いたものである。その重点が実践を軽視する教条主義という主観主義の暴露にあったので、『実践論』という題名がつけられた。毛沢東同志は、かつてこの論文の観点について、延安の抗日軍事政治大学で講演したことがある。
[1] へーゲルの著書『論理学」第三巻第三編の「理念」に対するレーニンの短評から引用。レーニンの『へーゲルの著書「論理学」の摘要』(一九一四年九月から十二月にかけて書かれたもの)に見られる。
[2] マルクスの『フォイエルバッハにかんするテーゼ』(一八四五年春著)とレーニンの『唯物論と経験批判論』(一九〇八年下半期著)第二章第六節を参照。
[3] へーゲルの著書『論理学』第三巻「主観的論理学あるいは概念論」に対するレーニンの短評から引用。レーニンの『へーゲルの著書「論理学」の摘要』にみられる。
[4] 五・四運動とは、一九一九年五月四日にぼっ発した、帝国主義反対、封建主義反対の革命運動をさす。一九一九年の上半期、第一次世界大戦の戦勝国イギリス、フランス、アメリカ、日本、イタリアなどの帝国主義諸国は、パリで贓品[ぞうひん]山分け会議をひらき、日本に中国の山東省におけるドイツの諸特権を接収管理させることを決定した。五月四日、北京の学生が、まずさいしょに集会とデモ行進をおこなって、断固として反対を表明した。北洋軍閥政府は、これに弾圧を加え、三十人あまりの学生を逮捕した。北京の学生は、ストライキでこれに抗議し、各地の学生もさかんにこれに呼応した。六月三日から、北洋軍閥政府は、またも、北京でいっそう大規模な逮捕をおこない、二日間で約千人の学生を逮捕した。六月三日の事件は、全国人民のいっそう大きな憤激をまきおこした。六月五日から、上海とその他の多くの地方の労働者が、相次いでストライキをおこない、商人も、相次いで閉店ストをおこなった。それまで主として知識層が参加していたこの愛国運動は、こうして急速にプロレタリアート、小ブルジョアジーとブルジョアジーを含む全国的規模の愛国運動に発展した。愛国運動の展開につれて、「五・四」以前におこった、封建主義に反対し科学と民主主義を提唱する新文化運動も、マルクス・レーニン主義の宣伝を主流とする、壮大な規模をもつ革命的文化運動に発展した。五・四運動については、本選集第二巻の「五・四運動」と「新民主主義論」第十三節を参照。
[5] レーニンがヘーゲルの著書『論理学』第三巻第三編の「理念」に対する短評のなかで、「理解するためには、経験の上から理解し研究しはじめ、経験から一般へとのぼっていかなければならない」といっている個所を参照。レーニンの『へーゲルの著書「論理学」の摘要』に見られる。
[6] レーニンの『なにをなすべきか?』(一九〇一年の秋から一九〇二年二月にかけて書かれたもの)第一章第四節から引用。
[7] レーニンの『唯物論と経験批判論』第二章第六節に見られる。
[8]スターリンの『レーニン主義の基礎』(一九二四年四月から五月にかけて発表されたもの)第三の部分から引用。
[9] レーニンの『唯物論と経験批判論』第二章第五節を参照。
ページトップに戻る↑