高野孟の「ジャーナリストの情報術・文章術」入門講座


 この文章は当初、一緒に仕事をしている若いスタッフたちのための内部テキストとして96年春から断続的に書き始めたもので、後には(株)島メディアネットワーク(現(株)ウェブキャスター)が大手パソコン通信「PC-VAN」向けに提供していた「デジタル・コラム・マガジン」に掲載された。が、私が忙しかったのと、PC-VAN向けのサービスが97年3月一杯で終わったこともあって、中断されたままになっている。これを若干補正しながら私のホームページ内に再録して公開し、折に触れて書き足していくことにする。読者の皆さんからもご意見・ご質問をお寄せ頂きたい。それらも参考にしながら書き継いでいって、いずれ単行本としてまとめたいと考えている。


高野孟の「ジャーナリストの情報術・文章術」入門講座

第1部・ジャーナリストの方法と発想

(1)インフォメーションとインテリジェンス

 日本は世界でも珍しいくらい情報が豊かな国で、放っておいても向こうから情報が押し寄せてきて、情報洪水とか情報公害とかを問題にしなければならないような状況がある。それほど情報が豊かであれば、世の中の先行きがもう少し鮮やかになって然るべきだが、なかなかそうはならないのはなぜだろうか。

 同じ情報と言っても、英語で言うとインフォメーションとインテリジェンスの2つがある。インフォメーションは、昨日総理大臣が記者会見でこう言ったとか、大阪の街角で酔っぱらいがヤクザに殴られたとか、どこぞのラーメンはおいしいとか、すでに起こった事柄や存在している物事についての事実情報である。それに対してインテリジェンスは、そういうたくさんのインフォメーションの海の中から、「これは大事だ、これはちょっと気にかけておいてもいい、これはくだらない」という具合に取捨選択し、優先順位を確定した上で、「これとこれとは表面だけを一見すると関係がないが、実は裏側では関連があるのではないか」と想像力をたくましくしたり、「平成不況は昭和恐慌とどこが違うか」というようにある出来事を歴史の文脈の中に置き直してアナロジーを求めたり、あんまり皆が同じような観点である問題を論じているのはうさんくさいから裏側から見たらどうなるだろうかとアマノジャク的な視点の移し換えをしたり、いろいろなフィルターを使って知的処理をして、煮詰められるだけ煮詰めていって得られる最後の結論である。

 例えて言えば、収穫した葡萄を篭に山積みしているのがインフォメーションである。その中から粒を選んでワインを醸造して、さらにその中から極上のものを選んで蒸留器にかけて、一滴ずつエッセンスを取り出したのがブランディーであって、それがインテリジェンスである。新聞やテレビなどのマスコミが提供できるのは、主には葡萄の山であって、中には少し気の利いた解説者がいてワインを試飲させてはくれる。しかし、国家や企業や個人が将来に向かって何事かを決断するについて本当に必要なのは良質のブランディーであって、それは余りにも提供されることが少ない。

 アメリカの国家的情報機関としてCIAがある。世界国家としてのアメリカの大統領は、地球上で日々起こる様々な出来事に目配りしながら、判断を示したり決定を下したりしなければならない。そのためにCIAは、世界各地のブランチやエージェントから1日平均3万件とも言われる膨大な報告を吸い上げて、それを緊急性のあるもの、一応留意して大事に保存するもの、そうでないものというふうに振り分けた上で、それらを評価し、他のものと関連づけ、優先順位を明らかにして、最終的にはたった1枚のタイプ用紙に要約して毎朝8時までに大統領のデスクに届けるのだという。

 この場合、各地から寄せられる3万件の報告はCIA本部にとってインフォメーションであり、それを処理して1枚の紙に凝縮したものがインテリジェンスである。ところが両者の区別は相対的なもので、その3万件の報告の1つ1つが実は、各スタッフが膨大なインフォメーションの中から抽出したインテリジェンス作業の結果にほかならない。このように昨日の全世界をたった1枚の紙に要約する仕事をしているのがセントラル・インテリジェンス・エージェンシー(中央情報局)で、だからそのIは決してインフォメーションではなくてインテリジェンスなのである。これに対して、例えば駅の中央案内所は、トイレは向こうの柱の裏にあるとか、地下鉄に乗り換えるにはこちらの階段を降りればいいとか、既存の事実について告知するのが役目だから、セントラル・インフォメーション・センターであってこの場合にインテリジェンスという言葉を使うことはできない。

 インフォメーションは出来るだけたくさん“量”を集めることが問題であるのに対し、インテリジェンスは反対に、その量をどんどん捨てていきながら“質”の高さをつくり出すことが課題になる。そこを取り違えて、もっと量を集めれば世の中の先行きが見えるのではないかと思い込むと、やがて情報過食症になって消化不良や肥満症になり、さらには拒食症に陥って衰弱してしまうことにもなりかねない。  国家だけでなく企業にとっても個人にとっても、将来に向かって何事かを決断しながら生きていくについて、肝心なのはインテリジェンスであって、ジャーナリストは何よりもまずそのインテリジェンスのプロを目指さなくてはならない。  ちなみに『広辞苑』で「情報」を引くと

「(information)(1)或ることがらについての知らせ。(2)判断を下したり行動を起こしたりするために必要な知識」

 と書いてある。(2)のほうは、どちらかというとインテリジェンスに近いが、いずれにしても日本語にはインフォメーションとインテリジェンスの区別がない。また『コンサイス英和辞典』では、informationに「通知、情報、知識、受付(係)、告発」の訳語をつけ、intelligenceを「知能、知恵、理解(力)、物わかりのよさ、情報、情報機関(員)、知性的存在、霊」などとしている。ついでにintellectは「知力、理知、英知、知性」で、知識や情報をベースにして1つの認識にまで高めていく精神的な働きを指す。英語世界ではよく「犬は知恵を持つが知性はない(Dogs have intelligence, but they have not intellect)」という言い方をする。そういう意味では、私が上で述べたインテリジェンスの定義はインテレクトとダブッている。           

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(2)実体=構造論の領域


 インテリジェンスは何についての“知”であるかということについて、少し角度を変えて考えてみたい。私は84年に出した『世界関連地図の読み方』(PHP刊)のあとがきで次のように書いた({}の中は引用に際しての補注)。

「既存の枠組みに頼って、それに都合のいい現象だけを拾って散りばめるといったやり方が、もはや何の役にも立たないことが自明である以上、われわれは現実そのものから出発し直すしかない。しかし、その現実というのは、諸現象を果てしもなく横並びに並べ立てたからといって、必ず見えてくるというものではない。諸現象を突き動かしているいくつもの実体的なファクターを析出し、それらの相互関連や優先順位を検討し、目に見えないベクトルや構造にまで想像力を差しのべていく作業が、どうしても必要である。それが、インフォーメーションをインテリジェンスに昇華させるということでもある{このことは第1回で書いた}」「とはいえ、われわれジャーナリストがやれるのはせいぜいそこまでであって、その先のもっと抽象的なレベルで理論的な体系を編み上げていくのは、むしろアカデミシャンの仕事となるはずである。知の世界に対してジャーナリストが貢献できることがあるとすれば、それは命知らずの斥候兵の役割を引き受けることだと、私はつねづね思っている」

「20年前{今だと40年前になる}、ほとんど勉強しない哲学科の学生だった私が、今でも忘れないでいる数少ない言説の1つに《武谷3段階論》がある。従来の認識論の教科書が、現象から本質へ向かう人間の知の発展を説いていたのに対して、武谷三男博士は、現象と本質の中間に実体(サブスタンス)の領域を設定することを提唱した。その学問的意義はさておくとして、今日のわれわれの知的・情報的状況に照らしていうなら、ジャーナリズムは、現象について饒舌に語りはするものの、それ以上には進もうとはせず、かたやアカデミズムは、古びた理論をいじくりまわすばかりで、現実のダイナミズムにほとんど関心を払っていないかのようであり、その中間の実体論の領域は、広大な荒野のまま、どちらの側からも踏み込まれずに残されている。『世の中がわからなくなった』『先が読めない時代になった』と誰もが口にするのは、じつはそういうことだったのではあるまいか」

「ニュー・ジャーナリズム{という変な言葉が当時流行っていた}の何がニューであるのかについて、人によって定義はさまざまだが、私の意見では、それは実体論的ジャーナリズムのことである。ある者は、徹底的に足で歩いて取材をして、人の知らない事実のディテールまでえぐり出して描き上げるのがニュー・ジャーナリズムだと主張するが、それなら伝統的なルポルタージュの手法と、そう質的に変わりはない。私はむしろ、ほとんどは人に知られている事実から出発して、まだ多くの人が見えていないある事柄なり問題なりの実体=構造を解明していくところに、ニュー・ジャーナリズムのニューたるゆえんがあると考えている……」

 現象の面白おかしさだけを求めるのはマスコミではあってもジャーナリズムではない。逆にひからびた理論的モデルやイデオロギーに現象をはめ込むだけでは知の世界は一向に深まることがない。例えば『赤旗』は新聞としてはなかなか面白くて、その黒幕シリーズを読んだ若者が感動して赤旗の記者になりたいと申し出たら、『君、赤旗に入るにはまず共産党に入らないければダメなんだ』言われて、『ああそうですか』と入党したという話を最近聞いた。そのくらい頑張って取材をしているのだけれども、しかしやはりそこは政党機関紙の悲しさで、最後はいつも『だから大資本が悪い』といった固定された本質論に簡単に飛び移ってしまって読者を白けさせる。

 現象論の次元をさまようのでもなく、かといって本質論の次元に逃げ込んで事たれりとするのでもなく、あくまでも執拗に実体論の領域にとどまろうとする節度と覚悟がジャーナリストにとって大事である。立花隆が『田中角栄研究』を書いたあと、幾人もの大新聞の記者や総会屋ふうの情報屋が「あんなことはオレは前から知っていた」とか「あの部分はウチの資料を使っている」とかいった批評を聞いた。その度に私が説明したのは、誰かが知っていたり、すでに活字にしたりしていたことも含めて、既存の材料のすべてを集めるだけ集めるところから出発して、そこから問題点を整理して作業仮説を立て、足を使い知力を尽くして、田中金脈の見えない実体=構造をあぶりだしていったからこそ、つまり実体論的な立場と方法を貫いたからこそ、その仕事が一国の総理を追い落とすだけの迫力を持ち得たのだ、ということだった。

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(3)ジャーナリズムとアカデミズム

 総論として言うべきことの骨格は以上で尽きているのだが、若い聴講生諸君の教養のために、何回かにわたって補足的な解説と読書案内をしておこう。

 ジャーナリズムとアカデミズムについて原理的な考察をしたのは、戦前日本の独創的な唯物論哲学者=戸坂潤である。彼は1932年に書いた『イデオロギー概論』(戸坂潤全集第2巻所収、勁草書房刊)の中で要旨次のように論じた。

 ジャーナリズムという言葉は、カエサルの官報である世界最古の新聞紙Acta Diurnaから来たと言われている。DiurnaはJournalと訳され、つまり日々(Jour)に関するものである。従ってジャーナリズムはまず日々の生活と関係し、そこに根を張っているものであり、普通世間の人々の平均的・日常的な知識である「常識」によって運ばれる。ところで常識は一方では平均化された凡庸な知識を意味するが、他方では健全な良識(ボンサンス)をも意味しており、それ自身の原理を持っている。専門的知識を扱うアカデミズムが、しばしば日常生活に根ざした常識を何ら積極的な価値を持たないかのように言うのは間違いである。

 むしろジャーナリズムの特色は、その現実行動性・時事性(actuality)にある。時事性とは何かと言えば、歴史の上からは現在性として、存在ないし事実の上からは現実性として、行為の上からは活動性として、生活の上からは社会性として、規定される。そのようなものとしてのジャーナリズムの内容は、社会人の持っている世界観・哲学の1つの直接的な表現でなくてはならない。例えばジャーナリズムが何か非日常的・超常識的・非時事的・非政治的な部門の学芸を取り扱うときも、必ずこれに何か思想的・世界観的な視覚を与えることによって、これを時事化・政治化・現実行動化することを忘れないだろう。

 現実行動性・時事性から出てくるジャーナリズムのもう1つの規定は、その総合統一性である。ジャーナリズムはその世界観的統一によって、それぞれの専門的な諸科学を、またそれぞれの分科的な諸文化を、初めて関連せしめることが出来る。言わばそれはエンサイクロペディックな特徴を持っている。常識とは実際そういうものである。ジャーナリズムは元来常に話題(Topic)に上がるものでなければならないが、話題とは、あらゆる部門的な分科的な事物が、言葉という共通の場所(Topos)をめざして集まることを意味する。その場所で一切の知識が交換され(ニュース・評判)、訂正総合され(議論)、また誇張されたり捏造されたりする(虚偽)。やがてここでまた範疇が発生し、論理が構成され、理論が出来上がる。これが哲学的世界観にほかならず、だから、哲学は常識のものであり、ジャーナリズムのものである……。

 戸坂はこのようにジャーナリズムを位置づけ、それがアカデミズムに対して何か一段低級なもののように見る俗論をいましめた。そしてジャーナリズムとアカデミズムをお互いに対立しつつ浸透しあう2つの対等な契機とみなして、その2極のメカニズムにおいて文化・イデオロギーの弁証法的な構造原理を論じた。さらに彼は言う。

 アカデミズムは、容易に皮相化しようとするジャーナリズムを牽制してこれを基本的な労作に向かわしめ、ジャーナリズムは、容易に停滞に陥ろうとするアカデミズムを刺激してこれを時代への関心に引き込むことが出来るはずである。アカデミズムは基本的・原理的なものを用意し、ジャーナリズムは当面的・実際的なものを用意する。

 本来両者はそのように有機的に連関しなければならないが、資本主義制度の下ではそうなっていない。アカデミズムは歴史的社会の動きからまったく無関係に高踏化して行き、ジャーナリズムはまたそれとは独立にその動きを断片的な諸刹那に分解することによってますますそれを見失い、その結果両者はお互いを傷つけるようにしか作用しない。これを克服する手がかりはどこにもないように見えるが、しかし、封建制度からの伝統を持つ老いたアカデミズムよりも、純粋に資本主義制度の産物である若いジャーナリズムのほうに多くの可能性が残されており、両者の矛盾の止揚はジャーナリズムの側から行われるはずである……。

 前回に引用した本のあとがきでジャーナリズムとアカデミズムについて触れているのは、この戸坂の論を念頭に置いたものである。ちなみに、私の西洋哲学科の卒業論文は、この戸坂のイデオロギー論にまつわるもので、その時に「哲学は常識のものであり、ジャーナリズムのものである」という言葉に出会ったことが、学生運動に明け暮れた6年間が何となく空しくて、大学院に行ってもう少し勉強しようかどうしようかと迷っていた私を、ためらうことなくジャーナリストの道に進ませることになった。

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(4)サルトルとマルクス

 第2回に引用した自分の本のあとがきの文章で「諸現象を尽き動かしているいくつもの実体的なファクターを析出し、それらの相互関連や優先順位を検討し、目に見えないベクトルや構造にまで想像力を差しのべていく」ことが必要だと言っているが、このことをフランスの哲学者サルトルは「知の全体化」として論じている。

 凡百のマルクス主義者より遥かにマルクス的であった彼は、マルクスの弁証法的方法論をスターリン主義的な歪曲から救い出そうとして「方法の問題」(全集第25巻、人文書院刊)を書いたが、その中でこう言った。

「事実は決して孤立して出現するものではないこと、いくつかの事実が一緒に生まれるとすれば、それはつねに全体のもつより高い統一性のなかでのことであること、それらはお互いに内面的な関係で結ばれており、1つの事実の現存が別の事実をその深い本性において変容させるものであること、を確信していたため、マルクスは1848年の革命やルイ=ナポレオン・ボナパルトのクーデタの研究を、総合的精神のうちに押し進めた。彼はそこに、分断されながら、しかも、その内部的な諸矛盾によって、同時に生み出された全体的な諸現象を見た」

「彼が1848年の共和国の短い悲劇的な歴史を研究する場合、彼は――今日のマルクス主義者ならやりかねないのだが――共和主義的プチブル階級がその盟友であるプロレタリアートを裏切ったと宣言することにとどまってはいない。逆に彼はこの悲劇をその細部とその全容にわたってつたえようと試みている。彼は逸話的な諸事実を全体に従属させるが、彼はまた逸話的諸事実を通して全体を発見しようと願う」

 マルクスは、個々の事象にもとづいて{それが第1回で述べたインフォメーションである}、その個々の事象のもつ《意味を超えた意味》をも探りながらある状況の全体像をあぶり出そうとする{すなわちインテリジェンス}が、それによって「その事象はみずからの真実を全体のなかに再発見することになるだろう。かくて生きたマルクス主義とは発見学なのである」とサルトルは言う。別のところでは「部分を通して全体を探るという発見的原理」という言い方もしている。この発見学、発見的原理を我々の場合はインテリジェンスの手法のことだと理解して構わない。

 ここでサルトルが、マルクスにおけるインテリジェンスの見本として19世紀フランスの革命の栄光と挫折についての著作を挙げたのはまことに適切だった。

(1)産業革命の進展を背景に産業資本家の選挙制度改革の要求と社会主義的労働運動の高まりによってルイ・フィリップ王政が倒れた1848年の2月革命とその後の展開を分析した『フランスにおける階級闘争』(1850年執筆)、

(2)それによって生まれた第2共和制がルイ・ナポレオンによって覆された1851年のクーデタを解明した『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』(1851〜52年執筆)、

(3)そして普仏戦争の結末として彗星のように輝いて消えた1871年の労働者・小市民の自治政権=パリ・コミューンを扱った『フランスの内乱』(1871年執筆)、

 これらは、「マルクスのフランス3部作」と呼ばれていて、現実の歴史の錯綜的なダイナミズムを実体=構造論的に解き明かした名作として今も読み継がれている。ただここでサルトルが言い忘れたことがある。マルクスがこれらの著作を書いたのは、書斎に立て篭って文献を漁る歴史研究家としてではなく、ほとんどその現場に居合わせながら、その最中かもしくは直後に、起きていることの意味を生々しく伝えるジャーナリストとしてであった、ということである。(1)は一連の事態の直後に50年の1月から『新ライン新聞』に毎月連載したものだし、(2)はボナパルトのクーデタが起きた51年12月から翌年春にかけて、ほとんどリアルタイムで、アメリカで創刊されようとしていた政治雑誌のために書き送ったものだった。(3)は国際労働者協会の宣言として書かれたもので、やや性格が違うが、71年5月22日までの出来事を織り込んで30日に発表している。

 これらの内容をいちいち紹介するゆとりはないので、興味があれば自分で読んで頂くしかないけれども、目の前で起きている出来事を、それぞれに経済的=階級的な背景を持った利害集団のぶつかり合いと捉えることによって一見バラバラな事象の内面的な連関をあぶり出し、しかも局面ごとに入れ替わる主役と脇役と敵役の関係をダイナミックに描き出しながら、だから次は何が問題なのかということまで大胆に言い切ってしまうその方法は、まさにジャーナリストのものである。そういうマルクスの現実との切迫した切り結びから生まれた書き散らしを、後世の出来の悪い弟子たちが何か聖典のように崇め立ててしまったことから、マルクス主義の腐敗が始まったのである。

 こんなふうに書いてくると、何だお前の教養はそんなところかと底が割れてしまいそうだが、しかし私は、高校生のときに読み浸ってそのために哲学科に進むことになったサルトルと共に、断固として主張したい――人間社会を全体として解明する方法論はヘーゲルからマルクスへと転倒的に継承された弁証法を離れてはありえない、と。

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(5)弁証法について

 これは哲学の教室ではないので、あまり原理的なところに長く留まっていたくないのだが、ジャーナリストはどういう思考能力や感受性を鍛えなければならないかということに関わっていることなので、もう少し聞いてもらいたい。

 弁証法dialecticはもともとはギリシャ語で、対話術、すなわち対話を通じて物事の真実を追求していく方法のことである。それがプラトンの一連の「対話篇」の中で見事な文学性をもって闊達に用いられていることは周知の通りである。彼は、ある常識的に認められている意見から出発して、そこに仮設的な命題を立て、それをめぐって問答をかわすことを通じて原理の発見へと登り詰めていくことを弁証法と呼び、それが「真知学」の核心だとした。そのあとアリストテレスからカントまでを一挙に吹っ飛ばして言えば、19世紀初頭のドイツの哲学者ヘーゲルが弁証法を大々的に復権させた。

「正・反・合」と簡略に言い表される彼の弁証法とは、生きた人間はみな罪ある者であり(正)、そういう自分というものを正面から見つめて内なる矛盾に葛藤しつつ自己否定することを通じて(反)、一段と高い次元へと止揚されて神の愛によって許しを得ることができる(合)という信仰的な思弁過程のことである。

 これを現実の社会に置き換えると、人間が衝動や欲望に流されているだけでは動物と同じで(正)、自分の意志によって自分を規定することで初めて他者との関係の中で生きる自由な個人となって(反)、国家との調和を実現することができる(合)。ところがヘーゲルにとって歴史は、「地上における神の足跡」、つまり絶対真理がその時その場所のいろいろな制約を持った国家という現実的な姿を通じて自己展開する過程であり、そういう神の意志の体現者としての国家に個人は自分を否定して合一することで自由とやすらぎを得ることが出来る。

 マルクスは、ヘーゲルのこの観念論的な倒錯をひっくり返しながら、方法としての弁証法のエッセンスを救い出す。彼にとって歴史=社会の主体は、絶対真理としての神ではなくて人間そのものであり、彼らが生き、働き、利害を争うことを通じて旧い国家と社会の枠組みは内側から否定され破壊され、より高い次元の新しい秩序が生み出されざるをえない。ヘーゲルもマルクスも、(1)事物や状態の中に必ず相反する要素が矛盾として内在していて、(2)その矛盾が次第に成熟してどちらかの要素がその事物や状態のありようを否定するほどに支配的になることによって、(3)やがて別の次元への飛躍が生まれる――というふうに、現実をダイナミズムにおいて捉えていたことには変わりがない。ただその主体を神と見るか人間と見るかが決定的に違っていただけなのである。

 だとすると、マルクスにあっては、世の中がどうなっていて、これからどこへ向かおうとしているのかという分析は、具体的な現象的な事実から出発して、その中にどんな矛盾・対立が含まれていて、お互いにどのように内面的に連関し浸食し合っているかを見極めながら、いずれその仮初めの統一的全体性が破壊されて別のものに置き換えられざるをえないことを法則的かつ動態的に認識することが知の対象となるわけで、前回に引用したサルトルの「事実は……」以下の記述がこれに照応する。

 通俗化が得意なエンゲルスは後に『自然弁証法』を書いて、弁証法とは「存在界および思考の一般的な運動・発展の法則であると同時に、それについての学理的な認識体系」だと規定し、その「3大法則」は(1)量から質への転化、(2)対立物の統一、(3)否定の否定であると述べた。

 《量から質への転化》は、事物の本質は永遠不変で変化はただ現象面で起きるだけだとする伝統的な形而上学的=非弁証法的な存在観を否定したもので、量的変化が進むとある局面では別の質への飛躍的変化が起きるというもの。《対立物の統一》は、事物はそれ自体で自己完結的であるとする従来の考え方に対して、どんな事物もその内部に相反する性質や側面を持っているとする。《否定の否定》は、従来の論理学では否定の否定は肯定に戻るだけだと見るのに対して、否定の再否定は元の肯定に戻らず、より高次の肯定を生んで螺旋状をなすと考える。つまり正・反・合である。

 ちょっと抽象的でこれだけでは何のことやら分からないかもしれないが、要するに、現実をいかに動的なダイナミズムのままに捉えることが出来るかという方法論の模索が、マルクスを転回点にして始まったということである。

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(6)毛沢東の『矛盾論』

 さて、弁証法的なものの考え方を、中国革命の現実的な過程に即して分かりやすく説いたのが、毛沢東の『実践論・矛盾論』である(岩波文庫版が手に入りやすいだろう)。

 これを哲学論文として見ると、弁証法的な矛盾の概念を中国古来の陰陽2元説に置き換えているようなところもあって、はなはだしい俗流化だと非難する向きもないではないが、彼は学者として書斎にこもってそれを書いたのではなく、死ぬか生きるかの革命運動の中で中国共産党内の右や左の偏向と闘いながら革命を成功に導くために、根拠地=延安の穴蔵からそのような言葉を繰り出したのであって、しょせんは俗物的な実践家でしかないジャーナリストにとっては、変に高邁な理論よりもこのほうがよほど役に立つと私は思っている。

 ものごとの認識にとって大事なことの第1は、動態において捉えるということである。それには、そのものごとの内にどのような展開・発展の要因が含まれているかが問題で、それが「矛盾」である。「事物の発展の根本原因は、事物の外部にあるのではなくて、事物の内部にあり、事物の内部の矛盾性にある。どのような事物の内部にもこうした矛盾性があり、それによって事物の運動と発展がひきおこされる。事物の内部のこの矛盾性は、事物の発展の根本原因であり、ある事物と他の事物が相互に連係し、影響しあうことは、事物の発展の第二義的な原因である」

 毛が引用しているように、エンゲルスは「運動そのものが矛盾である」と言った。たとえばこうだ。「生命とは、何よりもまず、ある生物がおのおのその瞬間にそれ自身でありながら、しかも、ある他のものである、という点にある。したがって生命は……たえず自己を樹立し、かつ自己を解決する矛盾である。そして、矛盾がやめば、ただちに生命もまたやむのであって、死が到来する」

 生きることは同時に死ぬことであるという矛盾性において生命を認識することが、それを動態的に捉える上での前提となる。

 そのように矛盾はあらゆる事物の発展過程に内在しているという意味で普遍的であるのだが、しかしその矛盾の普遍性は個々の事物の特殊性を通じて発現する。だからわれわれは、個々の事物の個別・特殊的な矛盾のありようを掴んで、それが他の事物とどう質的に違っているかを見分けると同時に、それらの事物がまた「相互に依存しながら相互に矛盾する関係をもつか」を具体的に見極めなければならない。だから、毛にとっての第2の原則は、矛盾を具体的に見るということである。つまり、生と死の矛盾はあらゆる生命体にとって普遍的であるけれども、人と猫とトンボとアミーバにおいてその現れ方は当然にも異なっている。

 そこで次に、猫と区別された意味での人、あるいは他の人と区別された個人を採り上げるとすると、そのそれぞれの動態には発展段階というものがある。「根本的矛盾によって規定されるか、あるいは影響される大小さまざまな多くの矛盾のうち、一部のものは激化し、一部のものは一時的にあるいは局部的に解決されたり、緩和されたりし、さらに一部のものは(新たに)発生するので、過程に段階性があらわれる」

 ものごとを、ということはその内における矛盾の展開を、段階性において捉えることが第3の原則である。

 さらに、矛盾には主要な矛盾とそうでない矛盾があり、またそのうちの1つの矛盾を採っても、相対立する要素のうちに主要な側面とそうでない側面がある。しかも、主要な矛盾と副次的な矛盾、また各矛盾の中の支配的な側面と従属的な側面は、一定の条件のもとで相互に転化し合い、それによって事物の性質が変化する。これが第4の原則である。

 さらに、矛盾には敵対的な矛盾と非敵対的な矛盾があり(それらもまた相互に転化し合うが)、そのどちらであるかによって矛盾を解決する方法、すなわち闘争の形態が異なる。これが第5の原則である。

 以上は、毛沢東の言説の正確な要約とは言えないが、大体こういうことだと考えて差し支えない。前回までに挙げたいろいろな本の中には、小難しいものもあって、必ずしも全部読んでくれとは言わないけれども、この『矛盾論』だけは必読文献に指定したい。ちなみに上の引用は新日本出版社版『毛沢東選集』第1巻によっているので岩波文庫版とは訳文が違うかもしれない。

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(7)科学的方法論の展開

 第4回から第6回で概略を述べた、デカルトからカントに至る機械論的・決定論的な世界認識の方法がヘーゲルとマルクスによって弁証法的・発見学的なダイナミックなものへと転倒されたプロセスが、まことに大雑把な言い方をすると、ニュートンの「絶対時空の中で働く万有引力の法則」に象徴される力学の方法がアインシュタインの相対性原理やハイゼンベルグらの不確定性原理・量子力学によって革命的に止揚されたプロセスと対応している。

 デカルトは1637年の『方法序説』で、中世的な迷妄主義に近代的な合理主義を対置して、人間に等しく備わっている理性を正しく用いて真理に達する方法を説いた。簡単に言えば(1)自然はその細部に至るまで同一の運動法則によって支配され、従って数式によって客観的に表すことが出来る巨大な機械のようなものであり(機械論的世界観)、(2)どんな複雑な現象もそれを最小の構成要素にまで還元して分析することで全体を理解しうる(要素還元主義)――ということである。その論理学的=数学的仮説を物理学の法則として実証し、全宇宙を統一的に理解する科学的認識のパラダイムを確立したのがニュートンで、それは1687年の『プリンキピア(自然哲学の数学的原理)』に集大成された。このデカルト=ニュートン的方法によって、それから数世紀にわたる科学技術の爆発的な発展が可能となったことは言うまでもない。

 ところが19世紀末から20世紀初にかけて、ニュートン力学によっては説明しきれない不思議な現象が次々に観測されるようになった。プランクは1900年に発表した「量子仮説」で、原子や電子が電磁波を輻射したり吸収したりする時のエネルギーは連続的に変化せず、量子というまとまった最小単位の整数倍で段階的に変化することを明らかにして、すべての運動は連続的であるとするニュートンの常識を覆した。続いてアインシュタインが1905年に、その量子モデルを光に適用して、電磁波の一種である光は、極微の物質である粒子であると同時に空間的な広がりを持つ波であるという相容れない二重の性質を持っており、「機械論的に説明することが出来ない」ことを証明した。また彼は同じ年に「特殊相対性理論」を発表して、光の運動を、静止した観測者から見た場合と、一定の速度で運動している観測者から観た場合とで、光の速度が違うように見えるのは錯覚で、本当は時間と空間が運動によって伸びたり縮んだりしているのだということを明らかにして、絶対時空を否定した。

 さらにハイゼンベルグは1927年「不確定性原理」を発表し、例えば粒子でもあり波動でもある光や電子を測定する場合に、その粒子の位置と運動量とを同時に正確に決定することは出来ない――つまり粒子の世界にはデカルト=ニュートン的な絶対確実な客観性など通用しないことを証明した。

 そこから量子力学が生まれ、原子の秘密が次第に解き明かされていったが、その中でも画期的だったのは湯川秀樹による「中間子論」で、原子核の中で陽子と中性子とを結びつけている“力”の実体は未知の中間子という粒子であるという考えを示した。これが、以後の物理学の方向に決定的とも言える影響を与えた(最近の「ビッグバン理論」まで含めて)。その湯川の研究チームにいたのが坂田昌一と武谷三男で、武谷は、後に『弁証法の諸問題』(著作集第1巻、勁草書房)に収められた1936年から10年ほどの間に精力的に書いた一連の論文を通じて、「量子力学が抱える様々な困難は唯物弁証法によってしか解決できない」ことを主張し、さらには、自然そのものの構造と、それを1枚1枚ヴェールを剥がすように解明してきた物理学の歴史と、さらには例えば中間子論を導いた彼ら自身の探求方法とをすべて統一的に把握する認識の方法論として、マルクスの『資本論』などを参考にしながら《武谷3段階論》を打ち出した(第2回参照)。彼は書いている。

「物理学の発展は第1に即自的な現象を記述する段階たる現象論的段階、第2に向自的な、何がいかなる構造にあるかという実体論的段階、第3にそれが相互作用の下でいかなる運動原理に従って運動しているかという即自かつ向自的な本質論的段階の3つの段階において行われる」「この3つの段階は宿命的に相次いで現れるものではなく、自然がこのような立体的な構造をもっており、それを人間の認識がつぎつぎと皮をはいで行くのでこのような{物理学の}発展がみられる。歴史的発展と論理的構造の一致である」

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(8)複雑さの科学へ

 デカルト=ニュートン的な決定論では、単純な法則によって説明し切れない現象は、偶然とか例外とか、あるいは確率の問題として片づけられていた。ところが相対性原理や量子力学の出現によって、例えば光は粒子であると同時に波動であるという相反する性質の統一物として理解されなければならないことが明らかになり、それ以降、20世紀の科学は「複雑なものを複雑なままに捉えるにはどうしたらいいか」という気の遠くなるほど面倒なテーマに次々に踏み込んできた。

 面白いことに、量子力学から直接に影響を受けた分野の1つは生物学で、それは、量子力学の「相補性」概念の提唱者であったボーアが1932年に「光と生命」と題した講演で、物理学や化学が扱う現象と生命過程とは統一的に理解できるにちがいないという仮説を提起し、またもう1人の量子力学の権威シュレディンガーも1944年に「生命とは何か」を書いて、数学的に定式化された物理学的に検証可能な模型を用いて生物学を精密化することが必要だと提唱した。そして、これらに影響を受けたボーアの弟子のデルブリュックや、シカゴ大学の学生だったワトソンらによって分子生物学、ひいては遺伝子工学が生まれた。それによって生命の秘密は次々に解き明かされ、DNA(デオキシリボ核酸)のメカニズムに操作を加える技術さえ登場してきたが、そこまでたどり着いた時に分析的な生物学は、かつて物理学が直面したのと同じ問題――部分の総和は必ずしも全体ではない――という難問に出会うことになった。

 米沢冨美子『複雑さを科学する』(岩波書店)の分かりやすい表現を借りると「“生物にとっての原子”を求めて、生き物を臓器に分け、細胞に分け、最終的には遺伝子、DNAにまでたどり着いても、生物はまだ十分には理解されていない。たとえば1匹のハエにしても、要素に分けて、窒素が何ミリグラム、炭素が何ミリグラムと分析することはできる。しかしその逆に、その窒素や炭素などを全く同じ量だけ集めて、電気炉に入れてスパークを飛ばしたとしても、それがハエとして動き出したりはしない」ということである。そこから、各構成要素の性質を見極めただけではダメで、それらの間に相互作用があって、それらが何らかの形で協力的に働いた場合に、全体として初めて現れてくる性質があるのではないかという考え方が生まれた。そしてそれは生命現象だけでなく、例えば経済システムや人間社会の動きにも適用できるはずだということから、学問ジャンルを超えた「複雑系」の研究に火が着くことになった。

 その中から出て来た概念の1つが「自己組織化」で、これはもともと、免疫作用や脳の働きの自律性を、システム自体がその内部の構成要素の全体的な協力関係を通じて新しい構造や機能を自分で創り出していくことを説明する用語であるけれども、それが情報社会論に応用されて、インターネットに象徴されるネットワーク社会の組織論に理論的な基礎を与えている。

 物理学の分野では、相対論、量子力学に続く第3の革命として「カオス」の発見があった。その端緒を開いたのはアメリカの気象学者ローレンツで、彼は1961年に気象の変化を予測するためのモデルを方程式に書いてコンピュータでシミュレーションをしていて、一度行った計算を検算しようとして、同じ方程式に同じ数値を入力して、グラフが画面に現れるのを待つあいだにコーヒーを飲みに行った。戻ってきた彼が見たのは、最初のうちこそ1回目と同じような動きを示しているものの、時間が進むにつれてだんだんズレが大きくなり、ついには一方が山になっているところで他方は谷になるという、ほとんど似てもにつかないようなグラフだった。四苦八苦の末に彼は、1回目に0.506127と正しく入力したデータを、2回目には0.506と4桁以下を切り捨てたことに気付いた。たくさんの数値の中のたった1つの、5000分の1程度の最初の誤差が、処理が繰り返される内にとんでもない大きな違いを生み出すという、今までの常識にはなかったこの現象を、後に学問の世界では「初期値に対する敏感な依存性」と呼ぶようになった。

 カオスの話は面白いのだが、詳しくはジェイムズ・グリックの卓抜の科学ドキュメンタリー『カオス』(新潮文庫)に譲ろう。松岡正剛編『複雑性の海へ』(NTT出版)もお勧め。要は、複雑なものを複雑なままに捉えようとすると、ややもすれば法則的認識を放棄して不可知論に逃げ込みたくなりがちだが、それではダメなんで、例えば海岸で海を見ていると波の形はどれも違っていて2度と同じ光景が繰り返されることはないが、しかしその個々の波の動きはニュートン力学に立派に合致しているという、そのえも言われぬ部分と全体の関係を掴まなくてはいけないということである。          

                                       《第1部了》

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