人生二毛作開墾記
《その1》とうとう鴨川で山林を手に入れた!
安房鴨川、房総山地の奥深くにある「農事組合法人・鴨川自然王国」に月に1〜2度、たいていは1泊か2泊で行って、農林作業の真似事をするようになって
7年が経つ。その間、いずれはこういう山深いところに居を移して、もう少し本格的に田舎暮らしを始めたいという思いを抱き続け、その覚悟の証として、5年
前に(株)インサイダーの登記上の本社を自然王国内に移したりもしたものの、終の棲家というか、そこでこの世とおさらばすることになるであろう第2の人生
の本拠地として自分で納得のいく土地を見いだすのは、思ったほど簡単なことではなくて、ずっと暗中模索を続けてきた。が、この夏以降に急に動き出した経緯
の末に、自然王国から3キロほど離れた大山不動尊の北麓の山林を手に入れられることになり、本日、無事にすべての手続きを完了した。ここで私の人生二毛作
目の展開が始まる。
●7年越しの土地探し
鴨川市に限らず南房総あたりでは、空いている土地はいくらでもある。それでいて、なぜなかなか見つからないのかというと、第1に、農家や地主の意識の問
題がある。高齢化・過疎化が進んで、もう自分らでは維持できなくなった田畑・山林や使っていない宅地・建物があっても、先祖伝来の土地を売りたくないと思
うのは当然として、ならば貸せばいいじゃないかと思うのだが、それも「都会モンに貸したら盗られてしまう」と警戒する。そこで第2に、行政や農協の出番が
あって、一定の枠組みを作って斡旋・仲介・保証をして都会から農村への人の流れを促そうという試みが、他では成功している例もあるけれども、鴨川市ではま
だそこまで行かない。市が数年前に「空き家対策」に取り組んだことがあるが、都会側の移住希望者はすぐに500人も集まったのに、地元側からは「売っても
いい」「貸してもいい」という物件が1つか2つしか出てこず、挫折した。
そうなると、第3に、自分で探すしかない。誰でも考えつくのは、「田舎暮らし」のための物件情報誌をチェックしたり、地元の不動産屋さんを歩き回ること
だが、それでうまく行く場合もあるけれども、買ったはいいが昔の経緯があって水利権が付いていなかったとか、「農地付き」といううたい文句に惹かれて移っ
たら石ころばかりで畑にならなかったとか、信じられないようなトラブルに見舞われる場合もまた少なくない。それを避けるには、やはり、私がそうだったよう
に、たまたま故・藤本敏夫の縁で自然王国を訪ねるようになって、何年も通い詰めている内に次第に地元に知人や友達が出来て、さらには夏祭りでは毎年、御神
輿担ぎを買って出て村の長老たちとも顔見知りになって、そういう人の繋がりを蓄えながら少しずつコミュニティに溶け込んでいくよう心がけることである。そ
うすると、自ずといろいろ情報も入ってくるようになるのである。
そんなわけで、2〜3年前からは時折、よさそうな話も舞い込んでくるようになったものの、私は「こういうことは時が解決する。機が熟せば、出会い頭で一
気に事が成るということがあるだろう」と思って、焦ることなく流れに任せていた。「でもなあ、来年は還暦で、それこそ人生の折り返し。そろそろ決めない
と、年を取り過ぎちゃうなあ」などとぼんやり考えていたこの夏、まさにその“出会い頭”のような事態が降って湧いた。
自然王国スタッフのK君から、彼のお父さんが不動産関係に詳しくて、いまこの近所で急いで買い手を捜している家があるので見てみないかと言っているとい
う話があった。農作業のあと、さっそくお父さんに案内を頼んで行ってみると、そこは400坪の借地に3年前に新築したばかりの立派な杉材の本格木造家屋
で、決して悪くはなかったのだけれども、私は小屋のようなものでも家は自分の思い通りに建てたいという思いがあったし、環境的にも前後左右に隣家があって
どちらかというと町中という感じだったので、申し訳ないが食指が動かなかった。ほかに2〜3の物件を案内して貰ってはみたものの、いずれも帯に短し襷に長
しというところで、そのうち陽も落ちてきたので帰ろうということになった。
●縄伸びの不思議
車を止めてあるところまで歩きながら私がもう一度、「やっぱり私は、何にもない山の中の土地に、気に入った小屋を建てるのが夢なんですよ」と言うと、お
父さんは突然、「ああ、そうだ。俺んちの上のところに1000坪の山林がある。登記では1000坪だが、実際は2000坪近くあるんだ。見てみるか?」と
言う。登記と実際が倍も違うとはどういうことだといぶかりながらも、「はい」と私。「十数年前に私が東京のU区議会議員に世話した土地で、本人は凄く気に
入って、一部を宅地用に整地して家の設計も出来て、さあ建てようという時に彼に一身上の事情が生じて、延期になった。それ以後、もう10年も来ていないな
あ。どうかなあ、売るつもりがあるかどうか分からないがね」とお父さん。それで行ってみると、これがなかなかいい。
緩やかな北向き斜面で、上の方は次第に広葉樹の大木が増えていって、そのまま大山不動尊の杜に接している(左写真は下の街道の反対側から敷地全体を眺め
たもの。ほぼ中央の広葉樹部分がウチで、その上の杉林は不動尊の杜。左上の尾根の窪んだ辺りに白く見えるのが神社の脇にある市の青少年研修センター。左下
の緑の淡い三角の部分が東隣の草地)。
中頃に100坪余りの宅地が整地済みで、そこに立つと、南から西に連なる森を渡る風が日当たりのいい平地を通って、そのまま北に広々と広がる清澄山系の
眺望に向かって吹き抜けていく感じがする。下の長狭街道沿いにあるスーパーや農協バンクや郵便局のあたりまでは300〜400メートルしかないのに、木や
生い茂る雑草の陰に隠れて建物も街道も視野に入らないし、物音もほとんど聞こえない。宅地のすぐ南側の石垣を組んである上の土地はすぐにでも畑になりそう
だし、宅地の北側の斜面を下って道路に出る手前当たりはミニ田んぼを作ろうと思えば作れる地形になっている。「これだけあれば、馬を飼っても敷地の中で乗
り回せますよ」とK君。「ここは敷地内から水が出るから、水道は引く必要がないよ。東京電力は向こう持ちで電気を引いてくれるけど、水道は自分持ちだか
ら、下から水道を引っ張ったら工事に何百万円もかかるだろう。ここはいい水が出るから心配ない」とお父さん。私はもうほとんど一目惚れ的にここが気に入っ
てしまっていた。
それにしても、これは一体どのくらいの面積があるのか。「公簿は約1000坪だが、実際は“縄伸び”で2000坪近くあるんじゃないか」とお父さんは事
もなげに言う。田舎の田畑や山林に縄伸びということがあるのは私も知っていた。登記簿に記されている面積よりも
実測面積の方が多いことで、これは大化の改新による班田収受の時代から、太閤検地、
そして明治初期の地租改正に至るまで、政府の方はそれを元に税金を取り立てるべく、出来るだけ正確に田畑・山林を測量しようとするけれども、現実には今の
ような計測機器があったはずもなく、1間ごとに結び目を付けた縄で計るのが精一杯だし、役人の数も足りないから辺鄙なところでは今で言う町内会のような組
織に自ら測量させ面積を自主申告させたりしたので、農民や地主の方は出来るだけ少なめに登録して税を軽くするよう心がけた。
明治20年になって、余りにもデタラメなので可能な限りの修正を行う努力を払った上で、明治22年に「土地台帳」制度を作って地積を
登録した。これが今日の登記制度の元であって、都会や平地はともかく山の中に行くと、その時の登録面積のままになっているところも少なくないので、実際に
縄を当てて実測すると、あれれ?というほど縄が伸びてしまうことになる。とりわけ北斜面の田んぼの場合は生産性が低いので、平地や南面
に比べて半分くらいに申告するのが普通だったので、縄伸びで実際には倍もあるというのは珍しいことではないようだ。
「ほらあそこに大きな木があって、その上に杉林が見えるだろ。あの辺が上の境だ。この東隣の斜面は昔、地滑りが起きて、こちらとの境は動いてしまったが、
まあ大体、あの柿の木のあたりが境だと思って間違いない。いや、ここはこれだけ大きな木がたくさん生えていて、地滑りは絶対にないから大丈夫だ」
一見して、素人目に見ても1500坪か1800坪くらいはありそうだ。しかし何坪であろうと、1000坪より小さいことは絶対にないし、どちらにしても
境界すれすれまで家を建てたり塀を設けようというのではないから、ほとんどどうでもいいことなのだ。そもそも、10年以上も放置されたままの山林は、まず
身の丈よりも高く伸び放題になっている草を莫大な労力をかけて刈り取らない限り、境界らしきところまで近づくことさえ出来はしない。
「お父さん、先方に売る気があるかどうか聞いてくれません?」
「ああいいよ。実際に間に立って区議のUさんにこれを売ったのは、友達の不動産屋のYだから、Yを通じて聞いてみよう」
「いくらくらいですかね」
「うーん、Uさんも1000万円だかで買って、整地に何百万か使っているから、1300、まあ1500だったら文句はないだろう。売る気があればの話だが
ね」
「でもこのご時世だし、縄のびがあるとしても取引はあくまで公簿面積でやるのだから、1坪1万円、1000万円が限度でしょう。それでよければ買いたいと
伝えて下さい」
しばらくYさんを通じたやりとりがあって、その間に家内も現地に連れて行ったが、何より広葉樹の大木があるのが気に入ったようだった。9月末にUさんか
ら最終的な返事が来て、私の言い値で売ってもいいと言う。預金というものをろくに持たない私は、銀行でその額を丸々借りて今日付で払い込み、本当のところ
何坪あるかも知らぬまま、晴れて安房鴨川の“山林地主”となったのである。(2003年10月20日記)▲
人生二毛作開墾記
《その2》エノキ、ケヤキ、コナラ、カキ、そして……
全部で何坪あるのか分からないまま、大山不動尊の杜に連なる山林を買った。公簿上で968坪(3201平米)あるのは間違いないが、100メートルほど
離れたご近所に住んでいてこのあたりの土地の事情・経緯に詳しい長老のKお父さんも、前の所有者である東京のUさんにここを仲介し今回もUさんと私の間に
立って貰っている不動産屋のYさんも、口を揃えて「2000坪はあるだろう」と言う。前回で触れた“縄伸び”という山林・農地にありがちな現象(それにし
ても、180坪が実は200坪だったという話は聞いたことがあるが、2倍とはねえ)に加えて、東隣の田んぼだった斜面は昔、地崩れを起こして、その真下に
あるKお父さんの家も危うく土砂に埋まりそうになったことがあり、その後に市の方で土留め工事を行い、消えてしまった道路を造り直したりしたので、とりわ
け東の境界や北側の道路との境い目は公図とはだいぶかけ離れているようなのだ。
●まず草刈機を買って
確かめてから契約すればいいじゃないかと言われそうだが、第1には、自然王国スタッフであるK君のお父さんからの話であり、役所の公図よりもお父さんの
ような地元の事情通の長老の記憶の方がよほど信用するに足る。第2には、仮に“縄伸び”が思ったほどなかったとしても、私は坪1万円というこのあたりの
(不動産屋経由の場合の)大体の相場以上には払っていないので、損をすることはない。それに、第3に、敷地全体に広がる榎(エノキ)はじめ広葉樹の大木群
は(ほとんどが杉に植え替えられて無惨に放置されているところが多いこの一帯では)まことに貴重なものであり、もし造園業者に頼んでこれだけの数の成木を
植えて庭にしようとしたら、とうてい1000万円では済まないだろう。森を手に入れたと思えば、土地代はタダだったと考えることさえ出来るわけだ。
いずれにしても、売り主であるUさん側の経費負担で、YさんとKお父さんが隣接の地主に立ち会って貰って“境界確認”をするという手続きをきちんとやっ
てくれるという一項は契約条件に入っているので、それを待つ間、ともかく10数年放置された藪を切り開いて、南や西の境界にまで到達できるよう道を拓くこ
とが私の当面の緊急課題である。
これは大変な作業で、すっかりきれいにするには数ヶ月かかるだろう。自然王国のK君やM君にも手伝って貰うことになるだろう。早稲田のゼミの学生や、私
が団長をやっている草ラグビーチームの食うや食わずのフリーター的若者たちに「お前ら、草刈りのバイトやるか?」と話したら、みんな面白がって、中には
「飯だけ食わしてくれればお金は要らないからやらせて下さい」という奴までいた。
そうやってみんなに助けて貰わなくてはならないが、まず私が率先、取り組むのは当然で、それにはまず自分で草刈機を買わなければならない。これまで自然
王国ではさんざん、草刈機を使って杉林の下刈りをしたり田んぼの畦の雑草刈りをしたことがあるので、扱いには慣れている。脛に高速回転の歯が当たって自分
や周りの人の脚が短くならないようにするにはどうするか、地面に埋まった石に当てて刃が欠けたり、割れた小石が顔に飛んできて目が潰れたりするのを避ける
にはどうするか、一応は知っているつもりなので、ここはひとつ奮発して、1万円台/小排気量・小燃料タンク/刃径160ミリ/園芸など柔らかい草用のもの
から、5万円近い/大排気量・大燃料タンク/刃径255ミリ/山林など堅い草用まで、いろいろある中で、中の上程度のプロ仕様の機種を選んだ。
カワサキの2サイクル空冷エンジンを使ったキンボシ(株)というメーカーの「ゴールデンスター」ブランド、排気量33.3cc、最大出力1.48kw、
燃料タンク0.8リットル、重量6.4kg、刃径255ミリというもので、これならかなり使えそうだ。まだ出動の機会はなく、横浜の自宅の物置に立てかけ
てあるが、11月早々には“初陣”を飾ることになるだろう。
ちなみに、草刈機は正しくは(?)刈払機と言って、動力は電気もしくは充電型、4サイクル・ガソリンエンジン、2サイクル(ガソリン50:オイル1の混
合油)、同じく(25:1混合油)があって、電気なら振動が少なく排気ガスもないが、以下、後のものほど振動も排気ガスも騒音も大きい。エンジン型は、刃
先とエンジンが一体になっていて肩からベルトで吊して作業する「肩掛け式」が一般的だが、エンジン部と燃料タンクを切り離して背中に背負う「背負い式」も
あり、これだとだいぶ重量負担も振動も楽になるが、値段はハネ上がる。刃先は、家庭園芸用には160〜200ミリの小さいものもあるが、標準は9インチ=
230ミリか10インチ=255ミリで、山林用は255ミリが普通。刃には、円盤鋼板の歯型にそのまま刃付けした丸鋸、歯型の凹凸に小さく鋭く小さく鋭い
鋼の刃を埋め込んだチップソー、ナイロン糸を高速でブン回すナイロンカッターなどがある。ナイロンカッターは、安全性が高く、石・コンクリート・立木など
があっても刃こぼれを気にせずに際まで刈れるというメリットはあるが、柔らかく低い草を刈るもので、山林用には切れ味が足りない。
●夫婦エノキの颯爽
鴨川市というと「シーワールド」のイルカ芸が有名で、太平洋に面した海の町と思っている人が多い。そうには違いないが、山側にも意外に奥行きが深く、西
に向かって加茂川沿いに長狭街道を行くと、北に清澄山系、南に嶺岡山系が連なって、その間の谷間に豊かな田園風景が広がる。江戸時代に寿司米として珍重さ
れた記録もある「長狭米」の産地である。街道が登りになって峠に差し掛かる辺りが東京湾側=鋸南町との境で、そこまで太平洋側から車で約30分、房総半島
の背骨までが鴨川市である。その一番奥まった一帯が大山地区(旧大山村)で、平塚、金束(こづか)など5つの集落からなる。鴨川自然王国は平塚にあり、私
が求めた土地は金束に属する。
東西に走る長狭街道から、北に富津方面に向かう88号線が分かれる辺りが金束の中心地で、そのわずか200メートルほどの街道沿いに市役所出張所、JA
鴨川の大山支店、郵便局、交番、バス停、理容店、美容店、薬局、「寿司屋」という変な名前の食品スーパー、ガソリンスタンド、幼稚園などの“都市機能”が
軒を接するように固まっていて、少し離れて小学校、保育園、消防署もある。そのガソリンスタンドの向かいを南に入ると、それは大山不動尊に登っていく参道
の1つで、それを100メートルほど行って右に分かれて、田んぼ脇の未舗装道路を辿ると、すぐに紹介者のKお父さんの家があり、その上に無愛想なプレハブ
2階建てのもう1軒の家があり、その上を右に回り込めば、我が山林の下端に達する。街道からたった300メートル、これなら車を運転しない家内でも歩いて
スーパーやバス停に行ける。ところが敷地から眺めると、プレハブの隣家もK宅も街道も木に隠れて全く見えず、ただその遙か向こうの清澄山系の峰々しか目に
入らない。それがこの土地を選んだ大きな理由の1つである。
敷地の下端は、道路に面した手前から30メートルほどは高さ1メートルほどの立派な石垣が組んであり、その下には排水用のU字溝が整備されている。東隣
の斜面がかつて地崩れを起こした後、市で土留め工事を行った際に、ついでにこちらの方まで工事をやってくれたのだそうで、これで万全である。その石垣が切
れて、道が緩く左に折れる角が敷地の入り口で、そこから左に25メートルほど緩やかな斜面を登ると、宅地用に整地した百坪余りの平面に出て、その東端にも
大きな榎や柿の木がある。
その敷地の入り口近くには、夫婦の(根元がくっつきそうに寄り添った2本の)大きな榎(エノキ)があり、樹高15メートルほどだろうか、2本分だから空
を覆うほどの広がりで颯爽と枝を広げている。榎はその先の道沿いにも何本もあり、50メートルほど先の西隣の杉混じりの鬱蒼たる森との境には欅(ケヤキ)
やシロダモ、それにコナラもあるが、何と言っても一番手前の夫婦榎が立派で、この敷地の目印あるいはシンボルのような風情である。家を建てたらここを「榎
庵」とでも名付けるか。それじゃあ蕎麦屋みたいかな……と考えたりするのが楽しい。なにしろこの入り口の夫婦榎の姿が余りに美しく、また敷地の上の方にも
たくさん榎の大木があるのが、この土地を選んだもう1つの大きな理由だった(右写真は、敷地の入り口から夫婦榎を見ている。人物は左からK君、K君のお父
さん、家内。道の左側が敷地の下端で、この道は竹林を抜けて500メートルほど先で田んぼのあぜ道に繋がるだけなので、人も車もまず通らず、事実上、プラ
イベートの散歩道である)。
榎はニレ科の落葉高木で、ヨノミ、エノミとも呼ばれる。東北以南の日当たりのよい暖地に多く、朝鮮、台湾、中国中部にもある。高さ10〜20メートル、
直径1〜3メートルに達し、広く枝を張って姿がよい。漢字の榎の「夏」は、『漢字源』の解字によると「大きくかぶさる」意で、それに「木」偏が付いて「枝
葉が大きくかぶさる木」を表す。和名のエノキも、枝がのびのびと張るので「枝の木」と呼ばれるようになったという説があるから、いずれにしても枝振りが大
きく立派であることに特徴がある。
樹皮は厚く、灰黒褐色で斑点があり、割れ目はないが、ざらざらする。葉は互生で、長さ5〜10センチの広卵型もしくは楕円形で、基部から3本の主脈を出
し、縁の上部に小鋸歯がある。
初夏に淡黄色の両性花が咲くので、「榎の花」は夏の季語である。秋には6〜8ミリの球形の核果が成り、10月頃に熟すと赤褐色となって食べると甘い。豊橋
市の神明宮では榎の玉を用いた榎玉神事が行われるという。地元長老によると、戦時中はよく子供がとって食べ、また竹鉄砲の弾にして遊んだという。また地方
によっては、若葉を飯とともに炊いて食用にしたり、樹皮を煎じた汁を漢方薬として用いたりした。材は灰黄褐色で比較的堅く、建築・器具・機械材、薪炭材な
どに用いる。
庭園樹、屋敷木、街路樹として植えられるが、特に江戸時代には一里塚の道標として植えられたり、村境や橋のたもとの目印として植えられたりして、そのた
め道祖神のご神木になっている例も多い。そのことに関連してか、榎にまつわる迷信や伝説もいろいろある。
▼嫁入りの際に榎の脇を通ると縁切りの呪いにかかる(というが、これはエノキとエンキリの語呂合わせか?)。
▼榎が屋敷にあると元旦に黄金のカラスが来る。あるいは、屋敷の北西隅の榎には黄金が成る(実際、名古屋地方では「榎福」と言ってその方角に榎を植えてい
る家がある)。
▼榎に祈願すると歯病が治る。榎の空洞に溜まった水を「霊眼水」と呼び、目に付けると眼病が治る。
▼東京の王子稲荷にある榎には、大晦日に関八州の狐が大集合して年次総会を開き、官位を定め、またこの時の狐火で豊凶を占った(東都歳事記)、等々。
上述の夫婦榎はまさしく敷地の北西隅にある。黄金が成るのかどうかは知らないが、縁起のいいことは確かだ。榎福か。ここを「榎福(かふく)亭」あるいは
「榎福庵」と呼ぶのも悪くない。ちなみに日本一の榎とされているのは徳島県一宇町の「赤羽根大師の大エノキ」。樹高16m、目通り幹周り8.70mで環境
庁調査で日本一と認定され、平成11年に徳島県の天然記念物となった。梶本さんという方が開いている「木々の移ろい」というサイトに「巨木図鑑」があり、
その中に写真入りで紹介されている。
※一宇村の大榎 http://www.asahi-net.or.jp/~it8k-kjmt/kigi/enokakab.htm
仮称「榎福亭」の亭主としては、一度お参りに行かなければなるまい。(03年10月27日記)▲
人生二毛作開墾記
《その3》“半農半X”のライフスタイルの設計
まだ土地の整備が終わっていないどころか、敷地の境界も定かでないような段階で、いささか先走りしすぎる感はあるけれども、ここでどんな暮らしぶりを実
現して、それにはどんな家だか小屋だかを建てようとするのかについて、今から頭の体操を始めようと思う。
●四方それぞれの自然景観
しばしばお話ししているように、1000坪と言っても実際は1500から2000坪近い、緩やかな北斜面だが、全体に日当たりは良い。何本もの榎がのび
のびと枝を伸ばしているのが、その何よりの証拠だ。この土地は昔は棚田であったから、これらの木々は植えられたものでなく、田んぼとして使われなくなって
から敷地のあちこちで自生して、何十年かのうちにここまで大きく茂ったにちがいない。この木は「日当たりのよい温暖な場所に自生する」と植物図鑑の類にも
書かれている。K君お父さんは「50年は経っている」と言っていた。こんな木を植木として買って植えれば、手間や運搬費も含めて1本につき100万円はか
かるだろう。それが何十本もあるわけだから、木を10本買って土地はタダだったと考えることも出来るほどだ。
敷地全体は大きく上中下の3段に分かれている。中段の宅地のあたりで標高100メートル前後、上端は150メートル、下端は85〜90メートルといった
ところだろう。標高300メートルの自然王国より少し温暖なはずである。下の街道筋、加茂川の岸辺までの標高差は20〜30メートルか。
南側の上段は、広葉樹の大木の林で、上に行くほど木が密になり、そのまま北隣の大山不動尊の杉林に接していて、長老のKお父さんによれば、「その辺り一
帯から良い湧き水・浸み水が出る。前の持ち主が、家を建てるつもりで整地した時に、どこかその上のあたりに湧き水を貯めるタンクを設置したはずだが、今は
もちろん使えないので、タンクは作り直さなければダメだ」とのこと。もちろんこの湧き水を上水道として利用することになる。山の水を水道に使うのは、鴨川
自然王国でもやっていることで、パイプやポンプの造作はK君の担当だから、彼に相談すれば問題ない。
山の水を水道に使うには、内径2センチほどのパイプに半分ほどの水量があれば十分だそうだし、他に雨水タンクを作ることも考えているので、たぶん水は余
る。そうしたら、森から流れ出す小川を作って、家の周りで池や洗い場になって、最後は下のほうの田んぼに流れていくという、超贅沢なビオトープ遊びが出来
るのではないか。この一帯の粘土質の土を突き固めれば、セメントやビニールシートを使わずに、ほとんどナチュラルな水系を人工的に作れることは、すでに調
べがついていて、前に自然王国の一角で1〜2メートルほど試しにやって見たことがあるので、技術的には実証済みである。この土地は絶対に地崩れはないと、
Kお父さんから保証されているけれども、地中の水を出来るだけ表に抜いてやれば、なおさらその心配はなくなるはずである。
中段は、約100坪の住宅用の平地がすでに整地済みである。その上端は1メートルほどの高さの石垣とその下のU字溝が工事済みで、そのU字溝にはチョロ
チョロと水が流れて、下の道路脇のU字溝を経由して川へと流れ込んでいる。石垣の上は畑に使うことが予定されていた200坪ほどのほぼ平らなスペースで、
たぶんそこで野菜を作ったりすることになるのだろう。
宅地用の平地に立って見回してみる。北はそういうわけで、すぐ前は一段上がった畑地で、その両脇から上の方にかけては大木の林が広がる。東は、大きな榎
や、それが隣の草地との境の目印だという柿の木があり、その周りは雑木林風の藪になっている。いい木は残して雑木を整理して、東から榎ごしに朝日が入るよ
うにしたら気持ちがよさそうだ。西は道路に向かって下っていく斜面で、そのまま隣の森に繋がっていく巨木群がある。このまま活かすしかなかろう。南は道路
に向かって緩やかに下り斜面の草地で、北向きとはいえ明るい空の下に街道の反対側の清澄山系の見事な眺望が心をなごませる。
つまり、東西南北それぞれに異なった、どこにも人工物の見えない自然の景観が配置されているわけで、これを惜しみなく楽しもうとすれば、四面ガラス張り
の家を建てるしかないという地形なのである。しかもこの景観は、将来に渡って変わる可能性はほとんどない。南は不動尊の杜なので家が建つことはない。東は
昔に土砂崩れを起こした草地で、家を建てる勇気のある人はいないし、いたとしても雑木林に遮られて目に入ることはない。西隣の森は切り倒される可能性はま
ずない。北は敷地下端の木々と道路を超えた向かい側の紅葉などの林に遮られて、すぐ下のプレハブ2階建ての隣家も、その下のKお父さんの家も、300メー
トル離れた街道沿いの建物群も、ほとんど見えず、上述のように清澄山系の眺望が広がっている。ということは逆に、庭先に露天風呂を作って裸で出入りして
も、誰からも見とがめられる可能性はないということである。
下段は、道路に向かって緩やかな斜面で、一番下の敷地入り口の横の部分と、道路を超えてはみ出した部分とは、昔の田んぼの姿をかろうじて止めていて、併
せれば1反はないかもしれないが7畝ほどにはなりそうだ。自然王国のMちゃんは「そこに田んぼを作ろうよ」と言ってくれているので、いずれそういうことに
なるだろう。
●土間のある農家風の家
ここでどういう暮らしを営みたいのか。基本的には“半農半X”の農的暮らしをする“第3次兼業農家”の「本拠地」であって「別荘」ではない。横浜の家は
すぐに手放すつもりはないが、住民票はこちらに移して、ここが暮らしの中心であることを法的にもはっきりさせる。
現実には、少なくとも当初は、週の半分をそこで過ごして農の真似事をし、また鴨川自然王国の諸活動に携わることを中心として、週の残り半分は東京その他
に出稼ぎに行く形になる。ここで米、味噌、野菜などを作り、また薪・太陽熱・風力を主とし電気・プロパンガスを従とするエネルギーの半自給システム、湧き
水と雨水の利用による上水とバイオ浄化槽による下水処理を通じて水に関しては敷地内で完結するシステム、焼却炉や生ゴミコンポストを生かして最小限の廃物
だけを外に出すゴミ処理システムなどを導入して、可能な限り自立自給的な生活を実現する実験場にしたい。
また将来条件が整えば、馬を放し飼いにして敷地内や周辺を乗り回す。道産子のような馬なら、電撲(でんぼく=電気を通した針金の柵)を張って放しておけ
ば勝手に草を食って森の下草刈りを手伝ってくれる。自分がほぼ毎日ここに居て世話をするか、誰か世話をしてくれる人がいなければ馬は飼えないが、しかし、
四〇〇メートルほど下った街道沿いにあるスーパーに馬に乗って買い物に行ったり、その先の居酒屋まで乗り付けたりするというのが、私が夢見る田園生活であ
る。
家は、昔の農家もしくは山家風の、田の字型の平屋で、余計な凹凸も仕切もなく、大きな土間が全体の3分の1〜2分の1を占めて客間・リビング・台所を兼
ねた
生活の中心になるような形になるだろう。土間は、表(北側)のアプローチから裏(南側)の作業用スペースまで、そのまま床のたたきが繋がっていて、南北共
に大きく開口している。特別の玄関はなく、北側の土間入り口がそのまま玄関になって、本人もお客も、外で長靴をちょっと洗ってそのまま土間に入って来られ
る感じがいい。土間には、大きな自然木のテーブル、薪ストーブ、台所、収蔵・道具置き場が含まれ、上がりの板の間まで空間的に繋がっているのだろう。
他に浴室・トイレ、寝室、書斎、納戸。土間は浴室・トイレに繋がり、その脇に洗濯場があって、そのまま南の軒下の干場があるという流れかな。その辺りの
軒先には湧き水を引いた水溜が流れる野菜の洗い場もあるのだろう。
将来というか、家が建ってから後に順次整えるのは、露天風呂、2台分ガレージと工作室・道具室、書庫、それにゲストハウスなどで、どこまでDIYでやれ
るのか楽しみである。車2台とは、4WDの乗用車と同じく4WDの軽トラック。乗用車が4WDなのは、結城登美雄さんの言い方では「野性を失わない」ため
の証である。いままで好みに任せてジープ・チェロキーに乗っていたが、それが野性を失いたくないという願望のためだったのだとは、結城さんが自分のRV車
をそう呼ぶのを聞いて「あ、そうだったのか」と気づいたことである。しかしチェロキーは4000ccで燃費はリッター5キロが精一杯の反環境的な車の代
表。もう10年が過ぎたし、トヨタのハリアーに来年はハイブリッド車が出来るそうだから、それに乗り換えるのかな。燃費が4〜5倍違うはずだ。軽トラック
は日本が生んだ世界に誇る車文化で、田園生活でこのくらい便利でタフな万能車はない。中国なんぞ、ベンツだランクルだと贅沢なことを言わずに、みんな軽ト
ラに乗ればいいのに。で、当初はガレージまで手が回らないから、屋外に放置して、そのうちに2台が入って、しかも奥の方が工作室になっていて、ありとあら
ゆる道具が壁にブラ下がっているような小屋を造りたいというのが、野性派として当然の夢なのである。
エネルギー対策としては、OMソーラー、太陽熱給油もしくは太陽熱発電、風力発電を研究する。鴨川は暖かいのでOMソーラーは要らないんじゃないかとい
うアドバイスもあるが、太陽熱で暖めた空気を床下に環流させて緩やかな床暖房をする仕掛けはなかなか魅力的だ。それがあって暖炉か薪ストーブか囲炉裏のど
れか1つか、もしくは2つがあれば、石油系の暖房はほとんど要らないかもしれない。しかし建築費は割高になる。
※OMソーラー協会 http://www.omsolar.co.jp/
OMソーラーだと床暖房だけでなく給油にも太陽熱を利用するが、家の設計そのものからそのシステムに従って設計することになる。OMを使わなければ、普
通の太陽熱給油システムを単独で取り付けるわけで、給油の補助と割り切れば30万円くらいから。冷暖房にも使うとかいろいろ機能アップすると100万円く
らいになるらしく、そんなことをするなら初めからOMにしたほうがいいということだろう。他方、太陽熱発電は200万円以上かかる。
※ソーラーシステム振興協会 http://www.ssda.or.jp/
風力は、神鋼電機が最近売り出した垂直軸風車による小型風力発電機、1基30万円を備えると普通の家なら電気が余ってしまうほどだという話なので、調べ
てみようと思っている。秒速2メートルの微風程度で発電が可能で、しかも垂直型なのでどんな風向きでも回る。価格が驚くほど安い上に、付属のVTRを見な
がら自分で組み立てと設置が出来るというのがうれしい。
※神鋼電機ニュース http://www.shinko-elec.co.jp/NewsRelease/new_0082.htm
上水道は上述のように湧き水で、タンクとパイプの敷設が必要。下水道は札幌のGさんのところ(札幌の中山組の関連会社=環境エンジニアリング株式会社)
の杉チップを使った浄化槽を使いたい。チップを蜂巣状に加工して膨大な微生物が生息出来るようにした“ハニカムチップ”というものを槽に入れておくだけ
で、あらゆる有機物を水と二酸化炭素に分解してしまう汚水処理浄化槽で、普通の合併槽と違って汚泥などは発生しないのでそれを抜き取る手間は必要なく、
チップなどのメンテナンスもほとんど不要。水はトイレの流し水や散水、洗車用などに循環させることが出来る。すでに自然王国の藤本宅で設備して性能は実証
済みであるほか、東京・井の頭公園、青函トンネルの海底駅、大雪山旭岳、神戸大震災被災地などに設置実績がある。Gさん、“お友達価格”でよろしくお願い
します。
※環境エンジニアリング http://www.nakayamagumi.co.jp/kankyouEG/EEpageindex.htm
燃やせるゴミは出来るだけ燃やして灰を活かす。生ゴミはコンポストで(と言っても機械は要らなくて、庭に穴を掘って放り込めばいいんでしょう)堆肥づく
りをして土に還元する。それ以外の処理できないゴミだけ外へ出す。「焚き火をしてはいけない」という飛んでもない誤解が世間に広がっていて、それは
2000年の廃棄物処理法改正で「廃棄物の焼却禁止」が盛り込まれたことによるのだが、この主な趣旨は、産廃業者などがタイヤを野外で燃やしたりするのを
禁止することにあるのであり、一般庶民が行う焚き火や農林業者が行う稲藁・枝葉の焼却などは政令によっても除外されている。だいたい焚き火は日本の文化の
欠かせない一部であり人民の基本的な権利でもあるわけで、お上がそんなこと規制できるわけがないじゃないですか。焚き火をしていたら通りがかりのオバさん
に「いけないんですよお」と言われたとかいう話がよくあるが、こういう知ったかぶりの環境派オバさんのお上に盲従するどころか先走りまでして過剰な自己規
制をする態度は撲滅しなければならない。このことについてはまた機会を改めて論じよう。
こうして、外から供給されるのはプロパンガスとわずかな電気、外に出すのは燃えないゴミ・資源ゴミの一部――ということで、可能な限りライフラインの自
立化を目指す。
こんなイメージで、「和風木造建築」の資料をいろいろ当たったが、そのほとんどは、確かに杉や檜をふんだんに使って、古民家風に大きな曲がった梁を露出
したり、窓に障子を嵌めたりしていて確かにそれらしいのだが、これが本当の「和風」なのかなあと首をかしげるようなものである。ただ外見が和風というので
なく、昔の山家や農家、あるいは町家のこの国の風土に合ったそれなり合理的であったはずの暮らしぶりを、もっと原点のところから考え直さないといけないの
ではないか。そう思って模索するうちに、たまたま出逢って「これだ!」と納得したのは山口昌伴の一連の著作だった。(03年11月7日記)▲
人生二毛作開墾記
《その4》山口昌伴に学ぶ日本的な暮らしの根本
どんな家を建てるかを考えながら、「和風本格木造建築」の資料を漁ったが、どうもおかしい。木や紙を使っていれば「和風」と言ってはばからない安易さば
かりが目に付く。あ、そうか、「和風」はあくまで“風”であって、それは「アフリカ風ドレス」とか「タイ風カレー」というのと同じ、しょせんはマガイもの
なのではないか――などと考えながら大型書店の建築関係の棚を渉猟しているうちに、たまたま手にしたのが山口昌伴『図面を引かない住まいの設計術』とその
続編『日本人の住まい方を愛しなさい』だった。
一言でいって、目から鱗。玄関、土間、台所、風呂、便所、洗濯、畳、光、音、風、水、雨……等々、日本の風土に合った暮らしと家づくりの基本要素につい
て、豊富な経験とフィールドワークに基づいてその根本的な考え方を説いていて、私が凡百の「和風」を見てどうもおかしいと感じた違和感がどこから来るのか
が一挙に氷解した。山口さんは、1937年生まれ、早稲田の建築科を出て10年間、建築設計監理の仕事をした後、研究の道に入り、「日本の台所」を主テー
マとして住居学、生活学、道具学を展開、87年に大著『台所空間学』を世に問うていくつもの賞を受けたことで知られる。主な著書は下記の通りで、このうち
※印のついたものを新本・古本で入手して1週間ほどで一気に読破した。これから何回かにわたって、山口に学びつつ自分の考えを整理していこうと思う。なお
引用は主に上記2冊からで、他も若干は混じるかもしれないが、書名はいちいち明示しない。
《山口昌伴の主な著書》
※『図説・台所道具の歴史』(柴田書店、82年)
『住まい考』(筑摩書房、?年)
『台所の100年/生活学第23冊』(ドメス出版、?年)
※『座談会・台所空間学』(編:筑摩書房、85年)
『台所空間学/その原型と未来』(エクスナレッジ、87年)
『私のダイドコロジー』(筑摩書房、88年)
※『和風探索 ニッポン道具考』(筑摩書房、90年)
※『和風の住まい術―日本列島空間探索の旅から』(建築資料研究社、94年)
※『地球・道具・考』(住まいの図書館、97年)
『日本の食・100年「つくる」/食の文化フォーラム 』(ドメス出版、97年)
『講座食の文化4/家庭の食事空間』(編:味の素食の文化センター、99年)
※『台所空間学<摘録版>』(建築資料研究社、00年)
※『図面を引かない住まいの設計術』(王国社、00年)
『世界一周「台所」の旅』(角川Oneテーマ21、01年)
※『日本人の住まい方を愛しなさい』(王国社、02年)
●和風じゃなくて日本型
“和風”って何か変だなという私の疑問には、すぐに答えがみつかった。
「友人のデザイナーが、フトもらした。『ちかごろ、和風っていいナと思うようになって……トシのせいかナ』 外国デザイン誌育ちのチャキチャキのデザイ
ナーにして、この弁ありか、と暗澹たる思いをした。友人は『洋風志向』に対して『和風回帰』のようなことをいったけど、西洋型に対する日本型、というべき
だったんじゃないか。……ほぼ100年間、日本では住まいも台所も、洋風化路線を試行しつづけてきた。しかし、今となって、ハタと、その路線が間違ってい
たんじゃないか、と気づきはじめている。それが最近の『和風論』ブームなのである。そして我々のやるべきことは100年前からの宿題、新日本型の創出、と
いう作業なのである。トシのせいじゃないんだよ、日本の風土に、まったくちがう風土に育った西洋型をとり込もうとした失敗に、気づいたってことじゃないの
かね。……日本にとって近代化即西洋化とは何だったのか。住まいも、家具も、台所もことさらに西洋式をとり込んでいった。でもよく見てみると西洋型にはな
りきっていない。西洋人が踏み込んでみたら西洋のそれとはまったく異質な空間で、ヨーフーって何ですか、ニホンフーのことですか、といわれそう。……その
日本人なりにムリをしてきたところを、真正面から見なおしていったら、日本の自然環境、文化環境に、もっとしっくりした型が創出できるんじゃないか」
和風というのは洋風の単なる裏返し。本当は、西洋文化に触れながら新しい日本型を創るべきところを、旧日本型を急いで投げ捨てて半端な洋風化を追い求め
て、妙な家ばかりになってしまった。だからマガイものの洋風にまたマガイものの和風を接ぎ木するのでは、屋上屋を重ねる間違いの二乗になってしまうわけ
で、一度100年を巻き戻して江戸以前の住まいや暮らしの延長上に新日本型を構想すべきなのだ。これは、私が世の中全般について「明治から100年の発展
途上国ニッポンが何千年の日本の歴史の流れの中でむしろ異質だったのだ」と言い続けていることとピタリ一致する。
●キッチンじゃなくて台所
この洋風化の象徴が「キッチン」であり、その究極としての「システムキッチン」である。
「ここでは伝統的なものをふくめて、日本型の食べる営みの具えを『台所』ということにする。それを近代化、西洋化しようとしたのを『キッチン』ということ
にする。ここでひとつ決議。『キッチン』を『台所』にもどせ。日本型台所のありようを探求せよ」
キッチンは、第1に、狭い。「3畳が平均で4畳半が広い方、6畳以上はフツーはない。大きい家もザシキが広いだけでキッチンは大同小異。……食材のス
トックから保存、調理、配膳、食器ストックまで、全要素を3畳に閉じこめるのは、もともとムリである。3畳は食材、調理具のストックコーナーに丁度いい。
それに隣接して、4畳半ほどの調理場がほしい。しめて8畳……ぐらいの台所スペースを“21世紀の常識”にしたい」
第2に、キッチンは閉ざされている。「太陽と風と土と水。これらの屋外にある自然の要素が調理・調味に働く、一種の調理具として活用できるのに、それを
使っていないのが現代の屋内に幽閉されたキッチンなのである。……これが案外気づかれていない洋風化の弊害である」
「ちょっと昔の台所は住まいの前庭、後庭から屋敷地の周辺へと広がっていた。座敷の火鉢で餅を焼いたり、落ち葉焚きの灰の中から焼き芋が出てきたり。台所
は井戸ばたに、川ばたに、そして畑に、山につながっていた。いま、住まいの中の1カ所にコンパクトにまとめられた台所。その受けもつ仕事は、ちょっと昔の
台所の担っていた役割の大半を、食品加工産業の工場やファミリーレストランチェーンのセンターキッチンに任せている。その結果、食べる営みの大事な部分が
失われている。一に食材への親身な関心の希薄化、二に味覚の繊細さ、味の多様さと深さへの感覚の低下、三に食の健康への自己コントロール能力の失墜だ」
「台所というのは、本来は屋外の一部なんですよ。でも今のものは部屋の一部でしょう。インテリアの一部になっているのを台所とはいえないからキッチンてい
うんです。キッチンでは乱暴しないのがきまりなんです」「この台所はハンドアスペースといっているんです。アウトドアとインドアの中間で半ドア。もともと
台所と、それにかかわる作業というのは、外から半分内側に入ったぐらいのところでやる。そもそも外にあったものがだんだん中に入ってきて、外のタタキで火
を焚いていたのが中に入ってレンジになり、というふうに中にとりこんでくるのが台所の歴史なんですよね。そこに無理が出てくる。もともと台所の仕事という
のは動物の皮を剥いだり骨を叩っ切ったり、殺戮とか解体とかそういう仕事ですよね」
第3に、キッチンでは火が使えない。
「台所を外へ出そう。半屋外、野外調理なら食材にも野趣が楽しめる。煙が立てられる。本当の火が使える。火が生命を持ちうる」
「いま台所の火はほとんど厄介者扱いされている。レンジは隅に追いやられ、レンジまわりには、熱による食べ物の変化を追って手を加えたり味を加えたりする
小道具や調味料の置き場は一切ない。火の場には火口が並んでいるだけで火づかいは設計されていないのである。レンジの上のフードも申しわけ程度で、ぎりぎ
りに切りつめられたビキニの水着を思わせる。現在の細々とした火力では焼き魚が蒸し魚になる。ことに電熱レンジでは魚を焼くことが禁じられているので、
ロースターに入れるのだが、炎なき加熱であるから、焼いたつもりが煮魚になって出てくる。ガスレンジでの炒め物も煮物になってしまう。盛大に炎をあげ、煙
を立たせることは、現代の技術水準からすれば不可能のはずがない。バーナーは業務用とし、台所と居間の間に垂れ壁をつくり、調理場全体を煙突にし、そのも
うもうたる煙を抜く強制換気のドラフトを強力にすればいい。……むかし、練炭、木炭、薪柴とさまざまな火があって味覚に効果していた。余熱を保つ灰も味覚
に効果した。いまそれらはガス、電熱に単純化された。それは味の幅をせばめたばかりでなく、燃えるもののゴミ化――膨大な量のゴミ化を余儀なくして、浪費
回避不可能の環境をつくりあげている。ガス、電熱など流体エネルギー以外の、自前の火、可動の燃料と火器の備えがあれば、災害時にも断然役に立つ。ここで
も、美味が安全と経済につながるシステムがひとつ見えている」
キッチンが火を忌む背景には、もちろん食生活そのものの変化という“劣化”がある。パックされた加工済み・調理済み、そしてたぶん添加物てんこ盛りの食
品を買い込んできて、ただ温め直して、酷い場合は皿に盛り直しもせずにトレイのまま食べるのであれば、火はもちろん、包丁さえも要らなくて、電子レンジと
キッチン・ハサミがあれば済む道理である。
第4に、システムキッチンはシステムではない。
「システムキッチンというのはおもしろい言葉ですね。だいたいキッチンそのものがシステムであると思うんですよ。それをわざわざシステムキッチンというこ
ともないと思う」
部品がシステム化されていて、いろいろな組み合わせが出来るということだが、出来てしまえばひとつながりの大きなユニットキッチンと変わらない。そのメ
インテーマは何かというと「収納」である。
「近代日本の台所にとって、収納は最大テーマであった。システムキッチンの人気の根底にも、その収納妄想が凝結している。どうして台所で収納が主題になり
うるのだろうか。それは『片づけ』の一語が持ってきた脅迫観念ではないだろうか。……システムキッチンは、実に出しっぱなし禁忌症的設計になっている。実
際に使ってみると、じつに出しっぱなしにしにくい。そこで、ドアをあけたてし、抽出しを出し入れすること一勝負のうちに数百回に及ぶ。どうしてこうも頻繁
に扉や抽出しに手をかけなければならないのか。全部仕舞ってある、だから何かを使うためには扉を開けなければならない。開ければ閉めなければならない。
使ったら扉を開けて仕舞わなければならない。あけたての回数は無限になる。調理の場、料理創造の場にとって、収納が主題になることがそもそもおかしい。本
当に経済を工夫し、味覚の創造に打ち込むなら、そして本気で仕事に取り組み能率よく事を運ぶのなら、調理の道具は少ないほどよく、厳選されたそれらが手を
伸ばして届くところに、いつも定位置を保たれていなければならない。特定の料理にだけ必要になる道具類は、小間割りの戸棚や抽出しよりも、ウォークインの
開架のストックラックに並べられているほうがよほど探しやすい。プロの調理場は実際にそうなっている。……欧米の家庭の台所もこれと同様、道具を出し並べ
て磨き立てられて納まりかえっている。台所にあって、道具は使うものであって仕舞い込む意味はない。台所を一目見れば、どんな料理がどんな風味で出てくる
かがわかる、そういう台所の見せ方に徹したほうが、見るほうも見られるほうもお互いにいいのではないか。そういう台所のモデルをつくってみたいものであ
る」
その昔、人はそこから見える範囲、歩いていける範囲の「環境」を食べていた。「環境を食べるという雄大な構想から出発した、食べる営みのシステムを凝縮
したのが台所だから、自然環境に近い農山村の台所はこれまた雄大でとりとめがなかった」。広い土間と板の間、獣や魚を下ろす水場、魚を焼く軒先、大根や
菜っぱを干す軒端、豆を干す縁側、梅干しを広げる前庭、トマトを採る裏庭等々は、台所とひと続きであって、屋内に収まりきれない半屋外の空間であった。そ
のすべてを切り捨てて座敷の中に閉じこめられた台所は、もはやキッチンと呼ばれるしかなく、「どう工夫しても、それは食べる営みを豊かに支える備えにはな
りえない。「キッチンをどうやって台所に戻すか。あるいはどう発展させて台所と呼べるしたたかさを取り戻すか」。野性の台所、と言って言い過ぎなら、野趣
に富んだ台所、だろうか。マンションならキッチンで仕方がないが、山林に暮らすとなるとワイルドな台所でなければ意味がない。(03年11月12日記)▲
人生二毛作開墾記
《その5》内と外の見境がつかない「土間」の暮らし
山口昌伴が、「かつて台所は井戸ばたに川ばたに、そして畑に、山につながっていた」と言うのを聞いて、水上勉の『土を喰う日々』を思い出した。これは、
軽井沢に仕事場を持つ水上が、敷地に野菜畑を作り、周りの山谷を歩いて山菜や木の実を採って、9歳で京都の禅寺の小僧になって厳しく叩き込まれた精進料理
の素養を縦横に活かして自然の恵みを味わい尽くす1年12カ月の食の暦で、20年くらい前に古本屋で「土を喰(くら)う」という言葉の強さに惹かれて買っ
て読んだのだが、書棚を探しても出てこない。それで新潮文庫版を求めて再読した。
●コンビニじゃなくて裏の畑
由緒はあるが貧乏な寺の老師が小僧に教えたのは、台所の脇にある3畝ほどの畑に相談して、材料が乏しい冬であっても知恵を絞って、毎日のように訪れるお
客のために2、3の酒肴や惣菜を調えることだった。何もない台所から絞り出すのが精進で、「これは、つまり、いまのように、店頭へゆけば、何もかもが揃う
時代とちがって、畑と相談してからきめられるものだった。ぼくが、精進料理とは、土を喰うものだと思ったのは、そのせいである。旬を喰うこととはつまり土
を喰うことだろう。土にいま出ている菜だということで精進は生々してくる。台所が、典座職(禅寺での賄役の呼称)なる人によって土と結びついていなければ
ならぬ、とするのが、老師の教えた料理の根本理念である」
くわいを皮のついたまま七輪で気長に転がしながら焼いて塩を添えた一皿は、酒呑みの老師の大好物だった。いまのテレビ番組の料理では、くわいなども皮を
包丁でむき、見た目は芋だか何だか分からないくらい小さくする。これが上品らしいのだが、「甘味のある皮に近いあたりが捨てられるとあっては、もったいな
いのだ。また、くわいの皮ほどうすいものはないのである。小芋の皮むきなどもこれに似ている。小芋は、よくたわしで土をそぎおとしただけで、茶褐色のタテ
ジワのよった皮をもっている。ぼくらはこの皮が、多少はのこるぐらいのところでやめる」。三斗樽に水を張って土のついた芋を入れ、横板のついた棒で20分
も回すと芋が肌すりあわせて皮が水面に浮く。その芋を保存しておいて、それ以上は包丁で皮などむかずに使う。「ところが、テレビ番組の板前さんは、包丁を
器用に使い、小梅ぐらいの大きさにまでむき、厚い身を捨てて平然としている。これでは芋が泣く。というよりは、つい先ほどまで、雪の下の畝の穴にいたの
だ。冬じゅう芋をあたためて、香りを育てていた土が泣くだろう」。
台所が土に繋がっているというのは、単に家をそれらしく設計するという外面の話ではなくて、道元禅師が『典座教訓』で言う「善根山上一塵も亦積むべき
か」(高い山も一つ一つの塵が積み重なったものであるから、一塵ほどのささいなことでも大切にして、心をこめてこつこつと積み上げていなかくてはならな
い)という、芋やそれを育てた土が泣くのを感じられる感受性を自分の暮らしの基礎として取り戻すかどうかの内面の問題である。さあ何を食べようかという時
に、まずコンビニに走るのではなくて、裏の畑に相談するという暮らしぶりが、家の形を決めるのである。
●玄関じゃなくて勝手口
さて、山口昌伴に戻って、玄関とは何か。『大言海』ではまず「玄妙なる法門」で、禅の道に入る手始め、転じて禅寺の門、さらに転じて殿上人や高位の武家
の屋敷の正面入口の式台のある門のことで、庶民がおいそれと設けていいものではなかった、と言うより設けたいとも思わなかったものだった。明治になって、
官吏の住宅に上役上司接客のための格式ある空間として、小さな平土間と靴脱石と式台、それに下駄箱、あとはせいぜいスリッパ立てという現代の玄関の原型が
出来た。これが一体何なのかは、一度考え直してしかるべきである。
「下駄箱は、もともとはなかったのだけれど、あまりに不便なんで明治もお終いの頃に出現する。それが長さ半間から4尺5寸、高さは腰高が限度」であるため
に、雨靴、スニーカー、登山用、釣り用等々まで含めると一家4人で100足近い靴が土間にはみ出して、まさに足の踏み場もなくなる。傘は一家4人なら4本
でいい筈が、折り畳みや急に降られて買ったビニール傘まで入れると15本はある。「レインコート、合羽の類はどこに仕舞ってます? オーバーコートはどこ
に? 2階の寝室からオーバーまで着込んで『行ってくるヨ』が実態。外出にかかわる一切を、出入口の脇空間に収めたら、家の中がすっきりするだろう。……
背広、ネクタイ、カフス、ハンケチ、手袋、靴下なんかも、家の中じゅう探し歩くよりは出入口脇部屋に収容したらドヤ。だいたい、さあ出掛けようと寝室の洋
服箪笥へ背広を取りに行くなんてのも、まあ設計になっとらん」。
「男性なら髪をなでつけるのも、女性なら化粧に念を入れるのも、出入口脇部屋でやるのが何かと都合がいい。そう、ここはもう変装室なんです。そして、御帰
還あそばされた時には、武装解除室となる」。下駄箱の上が、もとは花瓶1つだったのが2つ、博多に行った時の人形や、北海道旅行の木彫りの熊が加わったり
して、思い出博物館のようになっているから、ご主人が帰っても鞄の置き場がないので居間に持ち込んでソファーの上に投げる、宅配便が来ても床に俯せになっ
てハンコを押したりする。『めがねメガネ、暗くて字が読めん』。玄関灯はたしかに暗い。手元灯がひとつほしい。電話も居室にあるよりは本来出入口にあるべ
きだろう。出がけに連絡を思い出すことが多いし、靴紐完了したときに限って『おトーさん、デンワァ〜』で、片足に靴をはいたままケンケンで居間の電話まで
跳ねていって、アキレス腱を切って1週間入院した人がいる」。
つまり出入口として何をするにも向かないように出来ているのが今の玄関である。「原日本人の住居は農家でも町家でも屋内床面積の3分の1が土間だった。
日本人は床使いが厳密で、高床に置いていいものと土間に置くべきものとをほとんど本能的に分別している。……土間が多いほど高床の上が片づくのに、土間が
狭小化していくのが近代日本住宅設計の流れだった。……日常の生活出入口、変装けじめ空間、そういう機能をかなえる出入口を昔は勝手口といいましたネ。勝
手口を生活機能空間として設計しなおそう」。
いわゆる玄関は要らなくて、表に向いて勝手口があって、入るとそこは家の3分の1ほどを占める土間で、囲炉裏か薪ストーブでもあって居間にもなれば客間
にもなる。その土間は奥に進むとそのまま台所で、裏の方に向いて大きく開口していて、その外の深い軒先は、畑の大根の泥を洗ったり、七輪でサンマを焼いた
り、撃ち仕留めたイノシシを解体したり(そんなことはしないか)するスペースである――というイメージになるだろうか。
「昭和30年代、農家の台所の改善が盛んに指導された頃、都市型台所を農山村に押しつけるべきではない、と唱える一派があった。台所はその家の生業に合っ
た改善の仕方があるべきだと唱えたのは、民家研究でも名高い今和次郎だった」。
その名前は私も知っている。1899年生まれ、東京美術学校を出て、早稲田の建築科の大先生で大隈講堂の設計で知られる佐藤功一の助手に入り、その佐藤
が大正6年に柳田国男らと共に作った「白茅会」のメンバーとして民家・民具の調査研究に当たり、古典と言っていい『日本の民家』はじめ数々の業績を残して
1973年に85歳で亡くなった。大正11年に出版され後に増補されて岩波文庫に収められた『日本の民家』は、全国の民家を訪ねて丁寧なスケッチと間取り
図を交えて大正年間の最初の都市化の波の中ですでに失われ始めていた農産漁村の暮らしぶりを描いたフィールドノートで、松本清張がこの本に「とりつかれ
て、豊前や肥前地方の田舎を歩いたものである」と書いているのを読んで、「へぇー」と思って買って今も手元にあるが、すでに文庫版も絶版のようだ。ドメス
出版から71年に「民家論」「民家採集」の巻を含む『今和次郎集』9巻が出ていて、これも絶版らしく新刊本の検索では出てこないが、神田の建築書籍専門書
店には置いてあった。晩年に籍をおいた工学
院大学に「今和次郎コレクション」がある(http://www.lib.kogakuin.ac.jp/k_index.html)。関東大震災をきっ
かけに、田舎の民家から一転、都市の「バラック」に関心を寄せ、街の「考現学」を提唱し実践したことも有名で、今日の「地元学」の元祖は彼と言っていいか
もしれない。
「農家の場合、土と縁の深い生活だから、土足のまま動き回れるよう台所は土間に設けるべきで、食事は土間に椅子テーブルを置き、風呂も土間から入れるよう
にすべきだとした。土間の食卓を上り框(かまち)の方に寄せて、高床の方にいる老人などは上り框に腰掛けて土間のテーブルで食事をすればよい、と[今は]
提案している。さらに来客も農人同士の行き来だから、土足のままの方が楽だろうから、応接間も土間にソファやティーテーブルを置いたらいいと提案してい
る」
農山村の台所を都市化(というか公団団地風のミニキッチン化)することが進歩であり文明的になることだと安易に信じられた時代があって、竈(かまど)の
横に安物のユニットキッチンのセットを置いたりして、そのうちに竈は壊され、囲炉裏に石油ストーブを安置したりするようになって、昔ながらの総合的な機能
を持つ土間空間はなくなってしまったが、それでいいのかということである。
●コンクリじゃなくて三和土
「土間は、それ自体をたたきと呼び、三和土と書いてたたきとルビを振る。たたきは叩き土、合わせ土を叩いた床」。合わせ土は、目の細かい砂利、赤土、石灰
の3種の材にニガリを加えたもので、それで三和土と書く。堅きこと石のごとしだが、毎日踏みつけられて何代にも及ぶと柔なところが減って凸凹となる。これ
が偏りなく流麗なパターンをなすようにするのが叩きの技である。「大正時代にはセメントのたたきが加わり、現在ではコンクリートの床をたたきと言ってい
る」が、三和土には石とは違う柔らかみがある。それにしても、なぜこんなところにニガリを使うのか。山口は説明していないので調べて見なければいけない。
「もともと江戸後期に成立していた日本の民家の定形では、建築面積のうち畳を敷きつめた座敷が3分の1、囲炉裏のある板の間が3分の1,そして土間が残り
の3分の1を占めていた」
日本人の空間感覚では、高さ方向に清浄感が働いていて、畳は元は板の間に置き敷きしたのでその厚みに意味があり、その畳よりさらにわずか3寸上がっただ
けの床の間は元は貴人の寝所で、人の立ち入れない清浄空間だった。「高床台上がハレのかしこまる空間であるのに対して、土間はケの、格式ばらない、普段着
の、自由な、猥雑さを許すところがある」ような空間で、その最下段の不浄性ゆえの解放感が近頃土間が人気を取り戻しつつある理由だろうと、山口は言う。
もちろん昔ながらの赤土中心の三和土でなければならないということはない。粘土を突き固める場合もあるし、最近は珪藻土のような通気性・吸湿性のある素
材も人気があるようだ。石でも大谷石のように冷たさを感じさせないものなら悪くない。しかしタイルややコンクリというわけにはいかないだろう。堅いけれど
も柔らかみと温もりが感じられる材料でなければケの空間にはならない。(2003年11月29日記)▲
人生二毛作開墾記
《その6》かつて家の中心には「火」があった
土間があれば火がなければならない。縄文の昔から人は火を真ん中に置いて暮らしてきて、それは単に煮炊きや暖房の利便のためでなく、それを中心にして家
族というものが成り立つ精神的な意味があったのだと思うが、この50年か30年ほどの間に家の中に火がなくなり、その結果、伝統的な暮らしぶりだけでな
く、家族そのものも壊れてしまった。
山口昌伴は言う。「住まいの中ではいろんな熱源があるけれど、それがだんだん見えなくなってきている。ただ昔なつかしいから炎をとりもどそう、というの
ではなく、人間に何かが欠けていくのをとりもどすために、火の復権を考えたらいいのじゃないか」。竈や囲炉裏がなくなったあとでも、一昔前まではどの家に
も七輪があって、ガスが来てもガス台のわきに七輪があった。板の間には練炭火鉢もあって、その縁は平らで湯呑みに菓子皿が置けるくらい幅があり、それが空
間を設計していた。真ん中で薬缶に湯が沸いていて、わきに茶櫃があって湯呑み、急須、お茶の缶がセットになっている。「どうしたって人が寄って来ますよ
ね。『コミュニケーション重視の間取りです』なーんて住宅産業のチラシにあるけど、板の間の練炭火鉢のコミュニケーション効果にくらべたら、何をいってい
るのかわかりません」。火鉢も幾つかあった。おじいちゃんの居場所には信楽の大火鉢があって、町の世話役が相談に来たりしていた。おばあちゃんは長火鉢に
寄りついたまま、そこで年をとっていった。子供たちも火鉢で火を学んだ。
「火の気を消去した不自然居住モデルが都市で形成されて、田舎に広がっていくのが近代の住宅史だった。……これからは田舎で形成された自然体健康居住モデ
ルが、文明の力を借りて、都市型モデルを浸食していく、そういう逆転の構図があると思う」
●熱じゃなくて炎
「火はもともと炎をあげ煙を吐き熱と光を発するものである。竈や囲炉裏では火が生きていた。火鉢にも、花を活けるという語感で炭火を活けた。その生ける火
に対して、ガス、電熱、電子レンジ、電磁調理器などは熱だけの存在だから火とはいえない。……囲炉裏は火に時間を感じる道具といっていい。薪柴は時ととも
に変幻する。薪柴をくべれば火勢があがり、放っておくと消え入りそうになる。また薪を足す。そこに大きなリズムが生まれる。……囲炉裏に集う人たちは寡黙
である。火を見つめていると、それぞれに思い思いの想いがめぐる。こんなのが本当のコミュニケーションになっていた。……囲炉裏や暖炉の火は現代のダイニ
ングにあるテレビにどこかしら似ている。だが現代家族の視線は家族の輪の外を向いている。囲炉裏の火は集いの真ん中にある。テレビは外界の出来事を映す。
炉の火は走馬燈のように自分の内なる世界のドラマを映す」
うーん、深いなあ。木は何十年かそれ以上も山で生きてきて、薪となって囲炉裏や暖炉にくべられてその最後の命を燃やす。パンパンとはぜたり、木口から泡
を立てて樹液が吹いたり、急にガックリと崩れたりしながら、燃え尽きる。それは単なる光や熱ではなく命の輝きだから、“求心力”なんて生やさしいもんじゃ
ない、人の心を吸い取ってどこか遠くに飛ばしてしまうような不思議な働きを持っていて、だから炎を見つめる人を時には寡黙な哲学者に、またある時は饒舌な
語り部にさせるのだろう。
家の中心は土間で、そこには炎がなければならない。しかしどんな炎か?
竈ねえ。いくら何でも竈は要らないだろう。昔の農家では、土間の真ん中に土まんじゅうのように竈を作って、煙突も立てずにそのまま火を燃やした。ご飯の
炊ける匂いと一緒に土間一杯に煙が広がるのが、竈と書いて「へっつい」と呼んだ頃のイメージである。やがて竈は壁際に移って煙突が付き、そのうちに煉瓦造
りやタイル張りになったり鉄製のストーブに置き換えられたりして、ついに村にプロパンが入ってきてガス台に取って代わられた。その“近代化”の歴史を逆転
させるのは無理で、たぶん自分の家には火力の強いプロ用のガス台を中古で調達して設置することになるのだろうと思っているが、先日、佐賀市の大隈重信生家
の台所で見た、質実剛健の武家らしい小さくて端正な竈(写真)なら、台所の片隅かその外の軒下にあったらいいかもしれない。それは、煉瓦を4段に積んでそ
の上に板の台が乗り、その上に珪藻土のような薄黄色の土で2つ穴の竈を築き、土管の煙突を立てていた。これなら自分で作れそうだ。そこまで凝らなくても、
田舎の巨大ホームセンターに行けば、鉄の鋳物の窯で飯炊きの大釜を乗せられるようなものを数千円で売っているので、それで十分だろうか。
●囲炉裏じゃなくて囲炉裏テーブル、それとも薪ストーブ?
やっぱり囲炉裏でしょう、土間に似合うのは。昔は、土間に接して上がり框(かまち)の付いた高床があって、そこは普通は板敷きで囲炉裏が切ってあって、
その周りにゴザを敷いて人が集った。亭主、奥さん、客人の座は決まっていて、自在鍵には鍋か薬缶が掛かっていつも湯が沸いて、脇に茶の道具や煙草盆など置
いて、それらがその家のもてなしの形を表していた。しかし、薪をくべる本物の囲炉裏は大変だよね。鴨川に移住してきた陶芸家のOさんが自宅の裏の工房の横
に洒落た囲炉裏小屋を建てたので、よく遊びに行って宴会をやったが、確かに雰囲気は最高だけれど、煙いし、それで天井や窓を開けると冬は背中が寒いし、結
局、火事を出して工房もろとも燃えてしまった。それでも、別棟の小屋だから出来たんで、今時、普通の家で薪は炊けないから、実際には炭を活けて“床火鉢”
のように使うのだろう。
それならいっそ、友達である木工家のBさんが作っているような“囲炉裏テーブル”が気が利いているかもしれない。Bさんの作品は、長さ数メートル、厚さ
10センチかそれ以上もある広葉樹の原木を10年ほども寝かせて木目も美しく削り上げた板を2辺が長く1辺が短い細長い三角形に組んで、その中央に空いた
小さな三角形の空間に合わせて鉄工家に作らせた鉄製火鉢を組み込んで、そこに灰を入れて炭をくべるというもの。三角形の囲炉裏テーブルはBさんのオリジナ
ルだが、別に三角じゃなくてもいいんで(Bさんが三角にこだわる理由はちゃんとあって、それはそれで説得的だけれども)、そうやって無理のないやり方で、
土間のある暮らしがあってその中央に火があるようにしたいものだ。
中心をなすような力のある板が手にはいることが肝心だな。鹿児島のTさんが「古材が倉庫一杯あるから見にお出で」と言っていたので2月に行ってくる。鴨
川地元のAさんも「130年ものの杉を切ってから50年寝かせた板があるけど、欲しい?」と言ってくれたし、他にもこの近隣には解体を待つ古民家がいくつ
もあって、何か面白い材が見つかるかもしれない。
暖炉や薪ストーブという手もある。炭火もいいけれども、やっぱり薪をダイナミックに燃やしたいよね。暖炉は雰囲気は最高だが、あれはほとんど暖房にはな
らない。米国か北欧の高性能な薪ストーブなら、熱効率が非常に高いし、堂々と薪を焚いても部屋じゅう煙だらけにはならない。囲炉裏か囲炉裏テーブルがあっ
てそこに炭火があっても、なおかつストーブがあったほうがいいだろう。知人のMさんが「使わない」というので譲り受けた鉄製ストーブがあって、まだ梱包し
たまま仕舞ってあるが、これはやや小さい。家の中心に据わる火となると、ある程度の大きさがあって存在感がないといけない。カナダ製の大型キッチン・ス
トーブなんぞもいいけどね、値段がね……。まあゆっくり研究しよう。
薪の材料はこのあたりはいくらでもある。2年は寝かせないと、いい火にならないから、外壁沿いのどこかか物置小屋の脇には薪を積む場所をつくらないとい
けない。炭焼きも窯を作って自分でやるのだろう。周りにはハチクの竹林がいくらでもあって、竹も竹の子も取り放題だから、竹炭を作るのがいいだろう。副産
物の竹酢液は田畑の防虫に使える。間伐材の切り出し、薪割り、炭焼きは自然王国でやってきたことなので何の問題もない。
あとは屋外の火ですね。珪藻土の七輪は丸と四角の2つがある。庭に焚き火を囲んでバーベキューができるスペースがあるのは当然で、そこには山の水が流れ
放しの流しと
調理台があるのだろう。また台所の裏手には、燃えるゴミを燃やして灰として活用する焼却炉、生ゴミを堆積して堆肥にするためのコンポストを、たぶん煉瓦を
組んで作ることになる。
こうして、家の中には囲炉裏か囲炉裏テーブル、薪ストーブ、火鉢、それにプロパンガスのガス台があり、軒先には七輪や、もしかしたら武家風の土竈か鋳物
の鉄竈があり、外には焚き火スペース、焼却炉があって、やたらにナマの火がある家になる。火事には気を付けないとあかんなあ。
ところで、本連載第3回で触れたが、焚き火をしてはいけないという飛んでもない誤解があって、ネット上でもいろいろ話が出ている。都下に住むOさんとい
う人の個人ページにはこんな珍体験が書いてある。
庭の落ち葉を集めて焚き火をしていたら、30年輩の女性が「焚き火をしてはいけないんですよ」と云って通り過ぎた。恐らく、野焼きをするとダイオキシン
が発生するとの情報を聞きかじってのことと思ったが、市条例でもあったら厄介だと考えて市役所に電話した。例によってあちこち転送されたあげく、「そのよ
うな条例はありませんが、念のため、消防署に確認してください」との回答。消防署となると都条例か、ややこしいなと、いぶかりながら、消防署に電話する
と、やはり数回転送された挙げ句、「焚き火禁止の都条例はありません。念のため、市役所にも確認しましたが、市条例もありません、ただし、焚き火をするに
当たっては、『ヨネンコクチ』をして下さい」と意味不明の回答を得た。『ヨネンコクチ』とはなにかと質すと、返事は「予燃告知」。敢えて英語でいえば
“preliminary notice of
fire”とでもなるのだろうか。焚き火をするに当たっては、予め焚き火をする人の氏名、焚き火をする年月日、時刻等を電話で予告して下さい、という意味
だった……。
うーん、この日本語は変だね。「予」は「告知」に掛かるんだから、間に「燃」を挟んだんでは「予燃」つまり予め燃やすということになって意味をなさな
い。言うなら「燃焼予告」だろうが、何も無理に4文字熟語にすることもなくて、「焚き火事前届け出」とか言えばいいだろうに。それにしても、焚き火をする
のにいちいち氏名、年月日、時刻をお上に届け出るってのはどういうことなのか。私はいま、自分の土地の草刈りに精出していて、刈り取った茅の山を順次燃や
しているが、この場合は、最近まで人気もなかった山林から煙が出るので、下の街道沿いの消防署分署に「これからしばしば焚き火をしますがご心配なく」と挨
拶に行った。こういうヨネンコクチは必要だが、普通の家で庭で焚き火するのに届け出なぞ必要ない。焚き火は日本文化の不可欠の一部であり、憲法で保障され
た(かどうか分からないが)人民の基本的権利の一つである。
焚き火がなぜ文化なのかと言えば、それが単なる廃棄物の焼却ではないからだ。道元禅師に言わせれば料理も修行(前回参照)だが、庭や墓を掃除して落ち葉
を焚くのもまた修行である。私が高校生の時にやっていたサークルの1つが禅研究会で、毎日曜日午前5時に起きて文京区白山の曹洞宗のお寺に通ったが、そこ
では読経・座禅・朝食の前後に庭の掃除と墓の草取りをする。禅師が言うには、「何もかも取り除くのが掃除ではない。庭や墓地を自然のあるがままの姿に戻し
てやることだ」。落ち葉がたくさんあれば、1枚残らずというのではなく掃き寄せて、植え込みに山にして土に戻し、あるいは焚いて灰にして畑に戻す。そのプ
ロセスを通じて自然の循環を感じ取りつつ、自分の心もまた自然に戻っていくのが掃除であると言う。
だから、家庭ゴミ(生活系廃棄物)の何十倍何百倍も出る企業ゴミ(事業系廃棄物)の中の特に質の悪い産業廃棄物の大量焼却を禁止した廃棄物処理法改正を
一知半解して、「焚き火はいけない」「いや焚き火はいいが、農薬の付いた柿の葉や塩素漂白の紙はダイオキシンを出すから燃さないほうがいい」などと、大真
面目に語っている人がいるけれども、これは哀れというほかない。
それはちょうど、自動車の排ガスなどでたっぷり汚染された空気を吸わなければならない事態の深刻さを放置して、「路上喫煙禁止」で違反者から罰金を取る
という千代田区条例のバカさ加減とも共通する。そこで次回は風と空気の話に移ろう。(03年12月12日記)▲
人生二毛作開墾記
《その7》風が空気になってしまっている!
昨年末もギリギリまで時間のある限り鴨川に通って、草刈りに精を出した。自然王国スタッフのK君、M君にもだいぶ手伝って貰い、また早稲田のゼミの学生
有志数人も2度、3度と来てくれて強制労働に従事した。おかげで、下の敷地北端から宅地用の平地、そしてその上の段の森林に差し掛かる辺りまで、全体のだ
いたい4分の1くらいではないかと思われるが、地表の茅と野バラを中心とした密集的な藪は取り払われて、だいぶ雰囲気が分かってきた。もっとも、高さ2〜
3メートルに達していた茅を切り開いたら、けっこう下の街道沿いの家々が見えてしまうのは、いささか計算外だったが、しかしそれは後で目隠し的な植栽を考
えれば済むことだ。
草刈りと言っても並大抵のことではない。まず1回、刈払機で茅や野バラやその他雑木を切り倒すが、それだけでは倒れた草や枝が地面を覆っていてどうにも
ならないから、それをフォークやレーキを使って大きな山に積み上げる。それをいっぺんに焼いたらたちまち山火事になるので、一山ずつ燃やす。それでもまだ
地面は見えず、虎刈りになった茎が突き出していて、ゴム長靴程度では足裏に突き刺さって歩けないので、もう一度丁寧に刈払機をかける。その短い茎と、10
年以上も放置されて年々枯れては落ちた枯れ枝が厚さ5センチくらい堆積しているので、それを吹き飛ばすように3回目の刈払機をかけて、それも掻き集めて火
にくべるのだが、この時は地面の土や石まで一緒に削ったり跳ね飛ばしたりして、刈払機の刃がたちまち減ったり欠けたりするので、その時は古い刃に付け替え
て思い切り地面をガリガリ削らなくてはならない。
そのようにして、3回刈払機をかけて全部を燃やすと、ようやく地面が見えてくるのであるけれども、そこから先が問題で、地面の下には20センチほどの深
さまで、茅の巨大な根っこや笹の地下茎や葛の蔓がビッシリと詰まっていて、地下帝国のようになっている。さて、これをどうしたらいいのか。農薬をかければ
簡単だが、少なくとも1年間は何も生えなくなるし、それを過ぎても残留農薬が心配だ。茅が少々なら、切り取った根の上に食塩を山盛りにして殺す手があると
白井隆さんは言うが、今まで切り開いた部分だけでも数千本の茅があるから、とうてい手に負えない。とすると、耕耘機かユンボ(パワーシャベル)で掘り起こ
すか、逆に表面に20センチほど盛り土をしてしまうかないが、それもまた大変。考えあぐねているうちに正月が来てしまった。
●空気じゃなくて風
さて、今回は風の話である。
山口昌伴は言う。「いまどきの住まい、風が止まっている。閉じこめられて、風が空気になってしまっている。……なんとも“気詰まり”です。……密閉型の
サッシュのせいだけではない。空気が設計の対象になっていて、風は対象から外されてきた。住まいにとって風は、“風邪”あつかいの邪(よこしま)なものと
して、住宅設計技術の歴史の中で差別されてきた」。
山口は重症のチェーンスモーカーで、自宅のマンションでは嫌煙権をめぐる攻防は微妙な段階にある。「たしかに今の住まいは有限の空気が密閉されている単
位空間ですから、その中で3立方センチほどの体積とはいえ草を燻したら、たちこめる煙はしたたかな量で、家人が迷惑がるのも無理はない。……キッチンのレ
ンジフードの下に行って立ちんぼ喫煙している負けオヤジなんて見るも無惨。食卓の上に換気ダクトを持ってくりゃいいんだよ」。
なあるほど。アメリカは世界一、大気汚染の酷い国だから、窓の開かないような建物を作って中の空気を密閉して空調技術で完全管理する。循環式のニセ温泉
と同じで、人が吸ったり吐いたりした空気を一度戻してフィルターにかけて、“そよ風”モードとか言って何食わぬ顔して送り出して、また吸わせる。そうする
しか屋内で空気が吸えないのだから、そこで煙草を吸われたんではたまったものではない。だから嫌煙ファシズムが他のどこよりもアメリカでヒステリックに叫
ばれることになったのだ。本当の問題は大気汚染そのものなのに、自動車天国アメリカでそれを正面切って問題にするわけにはいかない。
脇道に逸れるが、循環式の温泉というのは恐ろしいもので、とりわけ平成に入って(竹下政権の「ふるさと創成」資金がきっかけで)全国に乱立した公共温泉
の99%はこれである。では昔ながらの温泉地なら安心かというとそうでもなく、同じような方式を採っている旅館がたくさんある。循環式とは、浴槽の湯を流
し放しにしないで循環させ、砂などで濾過してゴミや汚れを取り除き、塩素で大腸菌などを殺して、もう一度ボイラーで加熱して浴槽に注ぎ込むもので、これが
問題であるのは、第1に、この方式が正しく運用されたとしても、湯は一般家庭の水道水を上回る塩素で侵された“塩素風呂”になる。塩素自体が皮膚細胞を溶
かすので、痒みや湿疹、肌荒れやシミ・ソバカスの原因になるし、大量の塩素を肌から、ま
た特に泡風呂や打ち湯があると飛沫を口と鼻から、体内に吸収すれば体内の細胞も傷む。さらに、塩素が汚濁物質と反応して発生するトリハロメタンは発ガン物
質であり、免疫不全を引き起こす。
第2に、塩素被害は別にしても、そもそも湯量不足を補うための循環式が、それだけでなく換水と掃除を手抜きしてコストを浮かせる手段に悪用される傾向が
あるため、不潔極まりない。循環式であっても毎日湯を入れ替えて浴槽を掃除したり、循環させた湯に新しい温泉湯を加えて成分を出来るだけ維持したりする良
心的な経営者もいないではないものの、ほとんどは週に2〜3回、酷いところは週に1回しか換水しなかったり、水道水を加えていたりするので、レジオネラ菌
で死なないまでも、成分的にはデタラメの不潔な湯に入ることになる。流行るところは日に3000人が入浴するから、1週間換水しないと、塩素で溶け出した
2万4000人分の皮膚細胞の死骸を到底濾過しきれないから、湯はヌメヌメする。それを温泉の成分のせいだと勘違いして有り難がって飲んだりしているおじ
さんがいる。
第3に、これが正しく運用されないと、殺菌不足で、大腸菌ならまだしも、レジオネラ菌が蔓延し、2000年4月に静岡県掛川市の「ヤマハリゾートつま
恋」で23人が感染して肺炎に罹りそのうち2人が死亡した事件が代表例であるけれども、体と心を癒すはずの温泉に入って死んでしまうことになる。
循環式かどうかを見分けるのは、一義的には、湯が浴槽から洗い場側にあふれ出しているかどうかで、流し放しにあふれ出していれば本物の温泉、浴槽内の壁
面に湯を吸い込む排出口があってあふれ出さないのは循環式である。より巧妙なのは、洗い場側でなく窓側の溝に湯があふれて一方向に流れていくようになって
いるもので、これも循環式である。しかし、あふれていればすべて安心だとは言えず、循環式でも時間によって湯をあふれさせてゴミを取り除く「オーバーフ
ロー機能」が付いているものがあるし、かつて報告された最も酷い例では、洗い場にあふれさせてシャンプーや石鹸で汚れた湯と一緒に回収してそれも濾過して
再使用していたケースもある。浴槽の湯口に柄杓などが置いてあって「飲用可」と表示してあるのは間違いなく本物の温泉で、「飲めません」と表示してあるの
は循環式だが良心的な経営者であることを示す。何も表示していない湯を飲むのは自殺行為である。循環式と分かった場合は、少なくとも泡風呂や打ち湯は使わ
ず、上がる前に入念にシャワーで塩素を洗い流すよう心がけなければならない。もっとも、シャワーや蛇口にも循環湯を混入しているところもあって、その場合
には見分ける方法がない。だから仕上げのシャワーは水のほうがまだマシである。
ちなみに「天然温泉」という謳い文句は何の意味もない。循環式であろうと、温泉を引いてそれを循環させていれば“天然”だし、東京郊外の銭湯が湯河原温
泉からタンクローリーで運んだ湯を水道で湧かした湯に混入させていても“天然”を名乗ることが出来る。「天然温泉100%」というのは、多分「水道水を混
ぜていません」という意味で、「循環式ではありません」という意味ではない(以上、主として松田忠徳『温泉教授の温泉ゼミナール』=光文社新書による)。
本来は自然に流れているものを密閉空間に封じ込めて技術的に管理して“自然らしく”見せることが、どのくらい訳の分からない事態を引き起こしていて、我
々が何も知らずにそれを有り難がっているということだが、それは水道水、給湯システム、空調でも原理的に同じなのである。
●冷房じゃなくて風通し
閑話休題。温暖多湿の日本ではとりわけ風通しのよい家が好まれたし、そのための精緻と言っていい(空気ではなく)風の管理技術があった。山口は夏のある
日、大正生まれの冷房アレルギーの爺が街中に建てた家を訪れた。座敷に上がると冷房はおろか扇風機もないが、鎮まってみるとしずしずと涼しい風が吹いてい
る。「いい風ですねえ、この昼日中に」と言うと、爺の普請道楽自慢が始まった。
「暑いのはイヤ、だが冷房もイヤ。そこで家の建て直しにあたって、隣近所のたたずまいをよく観察して、風の道を見いだした。あの家と家のはざまの、緑の谷
間を通ってくる風がいちばん冷えている。それを、俺んとこの座敷に廻り込ませるように仕掛けたんじゃよ。ほれ、あそこの建仁寺(垣根の様式名)が風の向き
を変える仕掛けで、ずーっと、ほらここに風が来ているでしょう。それだけじゃあ空気が溜まって風にならないからね、これを引っ張る工夫がいる。で、南の方
の庭に砂利を敷いて、わざと熱くなるようにすると、あっちの空気が軽くなって上がる。と、こっちの冷えている空気が流れ出していって、暖まって上がってい
く。どんどん空気が流れて風になっちゃうわけじゃ」
止まっていれば空気、動けば風。昔の人は、風通しの悪い家は万病のもとで、住む人も病み建物も傷むと忌み嫌った。自然の中の大気は季節の味をはらんでい
て、それを背戸(北側の木立や藪や池のある裏庭)と前庭(南側の石庭)の温度差を利用して北庭に向いた小座敷に取り込むと、そこが一番涼しい。簾や屏風、
それに帳(とばり)や緞帳というのも、ただのインテリアや目隠しではなく、風の管理と結びついていたのだろう。
また台所は、通り土間を通じていつも換気されていたし、床下も風通しがよかった。板の間の台所の床や、踏み込み炉と言って土間から板の間に切り込んだ腰
掛け式の囲炉裏の脇には、揚げ板を設けて自然の冷暗所を作り、薪炭や野菜籠や漬物桶や醤油瓶などを置いた。今時の家にもポリケースの「床下収納」を設ける
場合があるが、床下の風通しが悪い上に床上では冷房を使うので、久々に開けたら結露で水が溜まっていたというケースもあるらしい。台所も床下も風通しがよ
く、すぐ外の軒下や前庭は陽当たりがよくて、それらすべてが、自然の力を借りて食材を加工し保存食を作り保管しておくスペースとして連関していたのが日本
の民家や農家であり、その基本に風通しということがあった。
昨今、自分で保存食を作ることはなくなって、金を出して買うばかりだが、山口に言わせれば、保存食とそれを使った惣菜こそ「“おふくろの味”の正体であ
り、お節料理の中身である」。野菜が余れば糠や塩や味噌に漬け、大根が一度に採れれば干して沢庵を作り、芋が余れば茹でて干し芋にし、魚を獲りすぎたら生
干しにするというのは、旬の味と鮮度を貯蔵する知恵の集積であり、それを自分ではやらなくなったことから、台所は買物籠、いやビニール袋一杯分の食料を処
理するだけのキッチンになり果てて、そうなれば風通しのよい台所も床下も軒下も要らなくなり、水の溜まる床下収納などという代物がまかり通ることになる。
横の吹き抜けだけでなく、縦の風の道もある。土間や板の間で火を使えば上昇気流が生じて、夏なら、火の周りは熱いが外から冷たい空気を引き込む。冬は、
外からの風を制限して室温を上げる。茅葺き屋根はその全体が巨大な煙突で、熱と煙を吸い上げて外に排出する。飛騨の高屋根などはその煙突機能を妨げないよ
う、天井を板でなく簾で張っている。
このあたりの横と縦の風の道をまったく考慮に入れなくなったのが現代の都市建築で、さて鴨川の北斜面の山林に農家的というか田園的な家を建て、しかも風
力発電も導入できないかと考えている私の場合、どのようにして敷地全体と家を建てる場所の風の道を見いだせばいいのだろうか。
その上で、夏の涼しさを主に考えるなら開放型の家になるし、冬の暖かさを主にすれば、OMソーラーもそうだが、何らかの程度、密閉型になる。OMソー
ラーは、屋根のパネルで温めた空気を密閉した床下に送り込んで床暖房し、さらにその暖気を室内にも回して柔らかな自然暖房を実現する優れたシステムだが、
あくまで冬中心で、夏は暖気を温水用に振り向けて、床下から室内には外の冷気を取り込むことになっていて、その効果のほどは(夏にモデルハウスを訪れたこ
とがないので)分からない。
いまこの季節に現地に通っていて分かるが、関東一温暖な南房総でも北風はかなり冷たいし、敷地が北斜面で冬は日照が短い。年齢のこともあるから、やっぱ
り床暖房ということになるのだろう。夏は窓を開け放しにすれば済むことだ。
●匂いと臭い
風に関連して、匂いということがある。山口は言う。「住まいを匂いで設計する。そういう視点がいるのでは……これは図面に描けるものじゃありません。台
所の設計、便所の設計を、匂いのメリハリと演出の視点から気配りをしなおしてみる必要がある」。
昔、家には匂いがあったし、街もいろいろな匂いに満ちていた。今は家もオフィスも街全体も空調化され無臭化された。匂(にお)いも臭(にお)いも区別せ
ずに、みな臭(くさ)いとみなして排除するのが近代化だと思ったからだろう。私が20歳過ぎまで住んだ世田谷・下北沢の家の台所は、いつもひんやりとし
て、すえたようなカビくさい臭いがしたが、あれは揚げ板の下の漬物樽の糠が生きて発酵する匂いだったのではなかろうか。あるいはそれが、昨日焼いたサンマ
の煙の臭いや、勝手口の土間に置いた生ゴミのバケツの腐りかけた臭いなどと渾然一体となっていたのかもしれない。ヴァーチャル・リアリティというが、あれ
がどうしても現実に近づけないのは匂いがしないことだ。それでも我々がそこにリアリティを感じるのは、本当の現実がすでに匂いを失っていることに馴らされ
ているからなのだろう。管理された空気に香気を混ぜて気分をよくさせようというアロマセラピーは、循環式の浴槽に“温泉の素”を投げ込んでいるようなもの
で、本末転倒。暮らしに本来あるべき匂いを復権させなければならず、それにはまず風通しがなければ話にもならない。(04年1月1日記)▲
人生二毛作開墾記
《その8》敷地の中から水が湧いていることの幸せ
1月24〜25両日は、日本一の芝生屋さんである清水興産グループの清水勇夫会長から同社のプロの庭園作業員の精鋭14人に草刈りボランティア部隊とし
て派遣命令が下され、平
野英四郎隊長の指揮の下、2日間で一気に我が山林の敷地最上段まで藪を切り開いてくれた。さすがプロ集団で、刈払機、チェーンソー、鋸、鉈を駆使して、藪
を払い、蔓を切り、枯木を倒して、さらに草や枝は燃やし、太い幹は後で薪にするようまとめて、あれよあれよという間に開墾作戦第1期の「とにかく上まで藪
を切り開く」という目標が達成されてしまった。清水さん、平野さん、そしてプロの作業員の皆さん、本当にありがとうございました。自然王国スタッフのK君
と私が加わって総勢16人。やっぱりこういうことは人海戦術に限る。
清水さんは私のモンゴル旅行や六本木男声合唱団の仲間で、ゴルフ場やサッカー競技場の芝生の施工・管理ではナンバーワンの会社を率いており、日本芝生協
会の会長でもある。時々ゴルフを教えて貰ったり、私が川淵三郎キャプテンと引き合わせて「学校校庭の芝生化」の運動に一緒に取り組んだりしている。「冬は
芝生の仕事が暇なので、“社員研修”として作業員を派遣しますよ」と言ってくれて、この日、横浜の本社と千葉県市原市の作業所から14人の部隊が来てくれ
たのである。隊長の平野さんは、芝生管理の超一流博士であるのに加えてゴルフも釣りもプロで、よく遊んで貰っている関係。1日目の夜は半数以上が自然王国
の小屋に泊
まったので大宴会になった。
皆さんのめざましい働きのおかげで、2日目の午後になってようやく、初めて、敷地のほぼ全貌が見渡せるようになった。下から見上げると、藪だらけだった
時には何か暗い圧迫感のようなものがあって、かなり急な斜面のように感じていたのが、意外になだらかで、一番奥に行って少し急斜面になっている地形である
ことが分かった。西日が差し込むようになったせいもあるのだろう、明るく柔らかな景色で、そこに焚き火の煙が漂って幻想的な趣さえ感じられる(写真)。ラ
ンドスケープ・デザイナーの白井隆さんも駆けつけて、「いやあ、南から西にかけての森の景観がいいですねえ!」と歓声をあげた。
こうして切り開いていくと、藪の中からいろいろなものが発見される。中段中央には小振りの梅があり、その左手上方には甘夏ミカンが4本あった。たぶん前
の持ち主が植えたのだろう。藪に埋もれていて危うく切り倒しそうになったのを、「あれ、これはもしかしたら甘夏じゃない?」という具合に気が付いて残した
ものだ。タラの芽も何本か残した。自然薯も蔓や誰かが掘った穴があちこちにある。自然薯掘りに慣れた人は誰もが「こりゃあ、来年になったら自然薯の宝庫だ
よ」と言う。下の林道の向こう側は(余所の土地だが)ハチクの竹林で、筍も採り放題である。他にも丁寧に見ていけばいろいろなものがあったに違いないが、
今はそんなことを言っている場合じゃない、シャニムニ切り開くのが先で、それでも後で出てくるものは出てくるだろうし、欲しいものがあれば植えればいい。
この時点での「榎福亭敷地概要図」下図のとおりです。
●水源が3つ見つかった!
最大の関心事である水源は、これまでに3つ発見した。第1は、敷地の上の、昔ここが棚田だった時の最上段にあって、これが田んぼに水を供給する源だった
のだろう。前の地主が、コンクリートの槽を埋めて、そこから土中にパイプを通して左方の大きな水タンクに貯水し、さらにそこから土中パイプで下の水道栓ま
で繋がるよう工事がしてあるが、パイプもタンクも泥が詰まっていて使い物にならない。山の浸み水は使っていないと散ってしまって出が悪くなる。それでも僅
かに清らかな水が浸み出していて、白い沢ガニが何匹も棲んでいるから、まだ生きている水源である。一度周りを深く掘って、パイプとタンクを工事し直せば、
段々水量が増えるのではないか。
第2の水源は、東隣の森に入った辺りにあり、ここのほうが水量はやや多い。亀の形をした大きな岩に巨木の根が絡みついたその根元に水が湧いていて、そこ
から5メートルほどパイプを引いて大きなコンクリートの槽に流れるようになっている。地元長老のKお父さんによると、昔はここから下の方の3軒の家が水を
取っていたそうだから、相当な水量があったのだろう。お父さんを通じて水利権者に了解を得れば利用して構わないとのことなので、まずはここから水を引くこ
とを試してみることにしよう。こういう工事はK君がお手のものである。
この第1と第2の水源は、お父さんから聞いていたものだ。ところがさらに、中段に第3の水源があった。1月11〜12両日、現地に行き、宅地として造成
された部分のもう1つ上の段の茅と野バラの山を(風が余りなかったので)野焼き同然に盛大に燃やした。枯れ草や枯れ枝の山を野バラの棘に難渋しながら抱き
かかえて焚き火のところまで運ぶ作業をしていると、段々地面が見えてきて、そのさらに上の段との間の土手のほぼ中央から水が少し滲み出しているのが見え
た。そこを枯れ葉をかき分けてよく見ると、土手に沿って左(西側)にすこーし水が流れて湿っていて、5メートルほどのところで大きな穴が開いていてそこに
水が吸い込まれている。
ところがその先をさらに枯れ枝を取り除いていくと、ずっと下の方まで緩やかなC字形を描いて、元は田んぼの脇の水路だっただろうと思われる跡があるでは
ないか。それに沿ってどんどん掻き分けて行くと、元水路はその段を東に向かって横切って、右手の雑木林の手前で下に曲がってだいぶ下の方まで続いていて、
その先は急な斜面になっていてちょっと分からなかったが、全長40メートルくらいだろうか、れっきとした小川の跡なのだ。
そこで、近所のDIY屋に車を飛ばして小さな掛矢(カケヤ=杭打ちなどに使う樫など堅い木で作った槌)を買ってきて、水を吸い込んでいる穴を土で埋めで
その上から石を集めてカケヤで叩き込み、上から粘土をかけてまた突き固めると、少しずつではあるが水が下へと流れ始めた。
で、今度は土手下の水源を見ると、1カ所は本当にちょろちょろですが、水が浸み出していて、その近くに沢ガニが1匹いたので、間違いなく水源である。と
ころがその30センチほど右にもう1カ所、水が溜まった小さな穴があり、その水は右に流れているようだ。シャベルを使ってその水も左に流れて、先の水源と
合流するようにしてやると、だいぶ小川に流れる水が増えた。夕方、暗くなって引き上げるまでに、水はお湿り程度ではあるけれども15メートルくらい先まで
届いていた。いまは一番枯れている時期だから、これで雨が降るともっと流れるだろう。
前の地主は、上述のように、ずっと上の方の第1の水源からタンクを経て、この元小川をまたいで地中パイプを引いて、梅の木の横に蛇口を設けていた。とい
うことは、彼がこの工事をした10数年前にはすでに小川は枯れていたか、水量が落ちていたのだろう。しかしここもやり方次第ではチョロチョロ小川を再生す
ることが出来るかもしれない。いや、なかなか面白い。湧き水が余るようならそのまま敷地を流れる小川にして、クレソンでも生えていて、蛙や沢ガニがいて鳥
が遊びに来るようにしたいもんだと思っていたけれど、そんなものを人工的に作らなくても初めからちゃんと小川があったのだ。
それにしても、第1、第2、第3とも水の出をよくする作業が必要で、自然王国代表の石田三示さんに聞くと「基本的には深く掘ってみることだが、無駄骨を
避けるには井戸屋か何か専門家に見て貰うのがいい」と言っていた。石田宅も自然王国も山の浸み出し水を使っていて、水はチョロチョロ(2センチほどの細い
パイプに半分ほど)でもタンクを大きくすれば日常の用には十分足りるそうで、さらに雨水も利用することを考えれば、まず上水は心配ない。
これで塩素ガス殺菌の水道水を飲まなくて済む。しかも、水道は電気と違って自分で引かなければならないから、150メートルほど離れたKお父さんのお宅
のところからここまで管を引けば100万円か200万円の工事費を負担しなければならないし、さらに当たり前だが後々水道代を払わなければならない。大変
な節約になる。
しかし実はお金の問題などどうでもいい。水道水というのはご承知の通り、塩素ガスを投入して水の中に次亜塩素酸という活性酸素を発生させ、その強力な酸
化作用で水中の細菌を殺す。ところがこの活性酸素は水道水の中に残留して、それで顔や手を洗えば肌を酸化させて表面を破壊するし、内臓に入れば細胞を酸化
させてガンをはじめ様々な障害を引き起こす。活性酸素こそ万病の元と言われるゆえんで、健康のためにありとあらゆる薬やドリンクを試す人がそれを飲むとき
に水道水で飲んだり、トレーニングやエアロビクスに取り組んで「あー、疲れた」と言って水道水で喉を潤したりしているのでは、何の意味もない。
そこで浄水器を取り付けて活性酸素を除去する訳で、それでもやらないよりかはマシだが、活性酸素を除去しても活性水素は発生しない。そこでさらに高価な
電気分解装置を導入して、活性水素の豊富な「還元水」を作るのがベストということになるのだが、そうまでしなくても、本当の天然の山の浸みだし水なら人工
的な還元水に近い水質が得られる(ちなみに天然水と銘打ってボトルで売っている水には活性水素は少ししか含まれていない)。この土地は、上にも左右にも人
家がなく、十年以上にわたって農薬を使用したことがないのは確実だから、調べてみないと確かなことは言えないが、恐らく優れた水が出るはずで、これが何よ
り幸せなことなのである。(04年1月27日記)▲
人生二毛作開墾記
《その9》水源からパイプを引いて水場を仮設した!
3月13〜14両日と24〜25両日は私と自然王国スタッフのK君の2人で作業に入り、まだ敷地のあちこちで山をなしている刈り取った草や藪や雑木を、
薪に出来るものは残して燃せるものは燃し、だいぶ景観が美しくなった。
13日の昼過ぎには、千葉県茂原の別荘で里山暮らしを実践している小橋暢之さんが、そのお仲間3人と一緒に“偵察”にやってきた。小橋さんは、農協中央
の農政部長を経て虎ノ門パストラルの社長をしていて、NPOふるさと回帰支援センターの理事でもある。私とは同年生まれで、私がパストラルの「ヒューマ
ン・ビジネス・ネットワーク」という食と農に関わる経営者たちの勉強&親睦組織の企画委員長を故・藤本敏夫から引き継いでいるという関係。昨年秋には『定
年後の10万時間里山暮らし』(家の光協会)を出版した、田舎暮らしの先輩である。「おお、こりゃあ広くていいなあ。眺めもいいし」と盛んに感心しながら
デジカメをパチパチ撮って、「うちのホームページに載せるかな」と言って帰っていった。彼のホームページは「房総里山暮らしかわら版」というタイトルで、
そこに上記の著書の紹介も出ているのでご覧下さい(http://yokoo.cside.com/kohashinet/top.htm)。
●第2次草刈り大作戦
さて、だいぶ片づけが進んだと言っても、全部終わるにはまだ4回か5回の作業が必要で、うまく行っても4月一杯かかるだろう。そこで問題が生じる。これ
まで刈った分を片づけ終わらないうちに、中段から下の宅地予定地を含む部分では、茅や笹や野バラの切り株から新しい芽が出てきてしまうのだ。10数年ぶり
に刈り込まれて太陽がいっぱい当たるようになった地面からは、すでに蕗の薹や野蒜やその他いろいろな草が芽生え始めていて、それはいいのだが、ついでに、
あれほど苦労して徹底的に刈ったつもりの茅その他の株からも緑の芽がちらほら顔を出しているのが見える。うーん、どうするか。下手をすると死ぬまで草刈り
だけやっていて、いつまで経っても家が建たないということになりかねない。
除草剤を使えば簡単だが、それをやれば少なくとも1年間は何も生えないし、植えることも出来ない。ランドスケープ・デザイナーの白井隆さんによると、茅
の切り株に塩を盛るという手があるというけれども、切り株は中段以下だけでも何百もあるだろうから、とうてい追いつかないし、それでは地表近くに網の目の
ように張り巡らされた葛の根は退治できない。結局、ユンボで30センチほど掘りながら根っこを取り除いて表面をならす“天地返し”をするしかないだろう。
14日、昼食をとりながらK君とそんな話をしているところへ、この土地を世話してくれた地元不動産業のYさんが息子さんと一緒に現れた。
Yさん親子の判断も同じで、特にユンボ運転のライセンスも持っている息子さんはこういうことに慣れているらしく、「これは、3月末になって暖かくなった
ら、アッという間に草が出てきて、どうにもなりませんよ」と脅す。それで一同相談の上、3月下旬か4月上旬に1週間、鴨川市の重機屋さんでユンボを安くレ
ンタルして、息子さんとK君とが操作して、一気に天地返しをやってしまうことになった。地表の草刈りが第1次だとすると、今度は地中の草の根を刈る第2次
大作戦ということになる。楽しみなことである。
●古い水タンクを再活用する
そうやって集中的な作業をするとなると、これから暖かくなってくることもあり、水が使えないのが不便である。今までは、朝に自然王国を出るときに軽トラ
に水タンクを積んで来て、湯を沸かしたりしていたが、それでは休憩時に顔や手を洗うのも不自由だし、そこでこの際、3つある水源の1つからパイプを引いて
仮設の水場を作ろうということになった。
前回に、敷地内の上部と東脇と中段の3カ所から山の浸み水が出ていていると述べた。上部の第1水源は、昔ここが棚田だった時には田んぼ全体を潤すだけの
豊かな水量があったようで、この土地の前の持ち主も、そこから地中パイプを敷いて1100リットルのポリタンクに水を溜め、そこからまた地中パイプで中段
まで導いて、蛇口をひねれば水が出るように、かなり大がかりな工事をしていた。しかし10数年放置されていた間に、パイプは詰まり、ポリタンクにも泥が溜
まって、まったく水が流れていない。流れないと、水源周辺の地中の水の路も拡散して、水源そのものの出が悪くなる。掘り直せばまた出るだろうが、今はチョ
ロチョロ浸み出している程度である。
中段中央あたりの第3水源は、かつては田の脇の小川の起点になっていたと思われるが、これも今はチョロチョロ。ただし私が小川の途中に穴が開いて水が地
中に吸い込まれていたところを2カ所修復しておいたので、24日に見るとチョロチョロがサラサラくらいになって30メートルほど下まで水が流れるように
なった。そこで、25日には半日かけて、水源の土砂や枯葉を取り除いて流れをよくし、30メートルから先を少しずつ道をつけて、途中穴が開いているところ
は修復して下り斜面になるところまで届かせると、最後はまたチョロチョロではあるけれども、道路脇の用水路まで80メートルほどだろうか、ともかくも小川
が復元した。だんだん手入れしていけば水量も増えて、生き物が寄ってくるようになるだろう。人工的なビオトープだと、土の下にビニールなどを埋め込んで水
が地中に逃げないようにするが、今はそれを避けて、水源を整備して水が自分の力で小川を元に戻すよう促したい。
で、仮設水道は一番水量豊富な第2水源を利用することにした。第2水源は、東隣の杉林の中にあり、昔は下の方の2〜3軒がそこから上水を採っていたそう
で、水源のすぐ下に立派なコンクリートの漕と排水路があり、取水用のパイプもそのまま残っている。が、今は下の家々も市水(市営水道)に切り替えてしまっ
たので、誰も使っていない。恒久的に使うには、水利権者にあいさつして保健所の水質検査も受けなければならないだろうが、今はその必要はないだろう。K君
が、パイプの先端にシュロの毛を3重に巻いて針金で止めてゴミ除けの天然フィルターにし、それを水源に沈め、その先は、土を少し掘ってパイプを埋めたり、
逆に土がへこんでいるところでは枝をY字型に切って支えるようにして、要は重力を利用して水が低きに流れるように繋いでいく。長さ5メートルのパイプ7本
半でタンクに届いたから、37〜38メートルの原始的水道である。そこに上記の第1水源に接続されていた古い水タンクを運び出してきて水を溜め、蛇口をひ
ねれば水が出るようにした。
中に泥が詰まり、周りも汚れるだけ汚れて苔が生えた上に蔦が絡んで身動きもできなくなっていた水タンクを、K君と2人でうんうん言って下まで引きずり下
ろし、洗剤とたわしを買ってきて2時間もかかって磨いて、何とか使えるようになった。これだって新品を買えば何万円もするから、再活用するに越したことは
ない。Kお父さんから貰ったブロックを土台にして、タンク下部の蛇口の下にバケツが置けるだけの高さを確保して、設置完了。さあこれで順調に水が溜まるか
どうか。
内径が1センチの一番細い水道用パイプで、こんなものにチョロチョロ流れる程度で実用に足るのかどうかと思ってしまうが、問題はパイプの流量よりもタン
クの容量なのだ。24日に確かめたところ、思いのほか水量があり、500ミリリットルのペットボトルが9秒で一杯になるから、1100リットルのタンクが
5時間半でに満タンになる計算だ。とすると、日本の家庭では1人1日平均250〜300リットルの水を使っているので、2人で500〜600リットル、3
人でも900リットルどまりだから、まだ水は余る。4人家族でも、1人250リットル程度、合計1000リットルに抑えるよう心がければ何とか足りるだけ
の量である。
ちなみに、水資源公団のデータでは、4人家族の場合、風呂・シャワーが26%、トイレ24%、炊事22%、洗濯20%となっている。例えばの話、雨水を
溜めてトイレの流し水に使えばマイナス24%、風呂の水で洗濯用水を賄えばさらにマイナス20%で、1000リットルが560リットルで済むことになる。
あるいは「水ウェブ」というサイトが掲載している使用配分はだいぶ違っていて、1人当たり洗濯70リットル、風呂・洗面60リットル、食事45リットル、
トイレ35リットル、掃除10リットル、その他15リットルで計235リットルだという。いずれにせよ、自分の家の水の使い方を自覚的に考えて、可能なら
データを取って、我が家の水戦略を立てなければならないだろう。
●水の中央集権vs自立分散
それにしても我々は、全体として水を使いすぎている。WHO(世界保健機構)によると、人間らしい暮らしを送るに必要な水は1日最低5リットルだが、世
界中の飢餓地帯や難民キャンプはじめ、それさえも確保できないで飢え・渇き・病でむざむざ死んで行く人々が後を絶たない。我々は250〜300リットルも
使ってそれが当たり前だと思っていて、例えば1分間シャワーを流すと12リットルであって、イラクでもルワンダでもいいけれども、世界のどこかで生死線上
をさまよっている子供2人半を1日救うだけの量をアッという間に使ってしまうことなど考えたこともない。
しかも250〜300リットルというのは、直接に家庭の水道の蛇口から流れ出る分だけで、それだけなら300リットル×365日×1億2700万人で
140億トンにすぎない。ところが日本全体の水の使用量は年間約900億トンで、その家庭用以外の圧倒的大部分は産業用・農業用である。会社に行ってお茶
を飲んだりトイレに行ったり冷房をつけたりすればそのたびに水を使うし、ホテルに泊まればふんだんにお湯を流しっぱなしにしてシャワーを浴びて平気だった
りする。華やかで便利な都市文明というものは、膨大な水の浪費なしにはなりたたないものなのである。またよく言われることだが、小麦1キログラムを作るに
は1トンの水が、牛肉1キログラムを作るには20トンの水が必要で、そのような食品の大量生産・大量流通・大量消費・大量廃棄のシステムもまた、水の大量
生産・大量流通・大量消費・大量浪費のシステムと裏表の関係にある。さらに、日本の食糧自給率は4割程度だから、我々は外国の農場で費やされる水も飲み込
んでいる。もしそれを国内で生産したらどれだけ水が要るかというその量を「仮想水量」というが、それは年間約650億トンに達している。逆に言えば、現実
および仮想を合わせた日本の年間総使用量は1550億トンで、日本人1人あたり1200トンほど使っていることになる。
しかし問題は“量”だけでなく“質”である。これだけの水を大量生産するのは国の責務であるということで、「清浄にして豊富低廉な水の供給を図り、もっ
て公衆衛生の向上と生活環境の改善と寄与する」(水道法第1条)ための水源開発と水道事業が大々的に営まれることになる。そう、水道は厚生労働省管轄下の
“公衆衛生”事業なんですね。だから「水道事業者は……水道施設の管理及び運営に関し、消毒その他衛生上必要な措置を講じなければならない」(同22条)
が水道法の核心となる。
ヨーロッパ諸国では昔から水道水の原水は原則として地下水である。しかも、日本で言う浅井戸、つまり地表近くの浅いところを流れる不圧地下水ではなく、
深井戸、その下の粘土層に隔てられた砂利質沖積層の被圧地下水を優先的に用いるし、河川水を使う場合も一旦砂礫層に導いてゆっくりと濾過するなど、自然浄
化を旨とするので、日本のように無闇に塩素消毒するということはない。スイスは例外的に塩素消毒をし、末端蛇口の残留塩素は「0.1ppm以下」という規
定がある(鯖田豊之『水道の思想』=中央公論社、96年刊)。
日本は、アメリカの真似なのかどうか、爆発的な産業化・都市化に伴う需要増大に応えるにはそんな悠長なことでは間に合わないということで、河川や湖沼・
ダムの水を直接浄水場に取り込んで、“衛生的”な水を大量生産する方式を採った。日本の水道水の取水源は、河川47%、ダム等24%、井戸・伏流水29%
である。湖沼やダムでは酸欠腐敗があり、河川では農工業・生活排水の流入もあって汚染が激しく、それらの有害物質をすべて取り除くことは不可能だが、取り
あえず手っ取り早く殺菌するには、塩素を投入して次亜塩素酸という活性酸素を発生させ、その強力な酸化作用で菌を殺するのが効率的であり、とりわけ経済の
高度成長に伴って70年代からその投与量は一段と増えた。しかも、浄水場を出た水道水が途中や末端で汚染される危険に備えて、日本の場合は、末端給水栓段
階での残留塩素が「0.1ppm以上」でなければならないと規定されていて、上限規定がない。塩素は1ppmで人の赤血球・リンパ球・細胞を破壊すること
はよく知られている(だから塩素は毒ガス兵器に使われた!)が、そんなものを上限規定なしに用いるのは相当勇気のいることだ。
末端で「0.1ppm以上」という規定がどういう実用的な意味があるかというと、例えば市民から「水道水が臭い」という通報があって保健所の係員が駆け
つけると、まず蛇口の残留塩素量を調べて、それが0.1ppm以下あるいはゼロになっていれば、どこかで汚染が起きて、それと闘うために塩素が費消されて
いることが分かる。次に、それがビルで屋上に貯水タンクがあればそこを調べて……という具合にして汚染箇所を特定していく。だから、まあ、水道局も善意で
あって、別に国民を殺そうとしてそうしているわけではないのだが、しかし、上水の需要が増えるほど下水の処理が追いつかなくて原水の汚染が酷くなるので、
塩素投入量は次第に増えているらしい。
塩素そのものだけでなく、それが原水に含まれる有機性汚濁に反応してトリハロメタンなどの有機塩素化合物が生成され、これがガンや、アトピー、花粉症な
どの免疫不全の原因になると言われている。ちなみに、花粉症というのは、この水質はじめ大気の汚染、食品添加物の大量摂取などによって免疫体系が壊れてい
るから、杉などの花粉にすら耐えられなくなってしまうのであり、時折新聞の投書などで「要らない杉なんか全部切ってしまえ!」という意見が乗ったりするの
は本末転倒。いや、要らない杉は切った方がいいのだが、それとこれとは別問題である。
さらに、塩素は浄水場からだけもたらされるのではない。前に触れたように(第7回)、公衆浴場はもちろん温泉と称しているもののほとんども、湯を循環さ
せて塩素殺菌したものを湯船に戻している。さらに笑ってしまうのは、最近大手住宅メーカーなどから「環境にやさしい」と言って売り出されている風呂水をト
イレの流し水に再利用するシステムで、どうせ翌日にはトイレに流してしまうのに、こんなものまでわざわざ塩素殺菌することになっている。
そういうわけで、上水の大量生産・大量消費を続ける限り、下水を通じての大量廃棄も避けることは出来ず、両システムがますます巨大化し“衛生的”になり
ながら、しかしどうしても下水のほうが追いつかないから上水の原水汚染が拡大することになり、水の役所主導・中央集権の考え方そのものが破綻に瀕してい
る。ところが便利に飼い慣らされている我々は、蛇口以前と排水口以後の“見えないシステム”は出来るだけ見ないようにして、金だけ払って好きなだけ水を
使っている。そのシステムから決別して、自前で上下水を完結させるというのは、都会に住む限り絶対的に不可能で、だからこそ田舎暮らしの根源的な意味があ
る。水の自立から人の自立が始まるのではないだろうか。(04年3月25日記)▲