7月1日から1週間、今年で3度目の「モンゴルオペラ鑑賞ツァー」で初夏のモンゴルを訪れた。今年の参加者は35名で、着いた翌日から3晩連続して「蝶々夫人」、日本ではほとんど上演されたことがないというラフマニノフの「アレコ」、それに馬頭琴の起源を描いたモンゴル民話を題材にした民族もの「フフナムジル」を観て、そのあとは郊外のゲル村に2泊して乗馬トレッキングや遊牧民のゲル訪問、相撲と子供競馬の観戦などを楽しんだ。

 2日の日曜日はたまたま総選挙の投票日。4年間「民主連合」に政権を譲っていた旧共産党=人民革命党(と言っても共産主義は綱領から外して中道左派的な社会民主主義路線を採っている)が「有利」だとは前から言われていたものの、蓋を開ければ何と76議席中72議席を奪う圧勝で、一気に政権に復帰した。一院制の議会を単純小選挙区制で選ぶという極めて分かりやすい仕組みが恐ろしいほどの政権交代効果を発揮した訳だが、それにしてもその制度的利点をこのように活用して見せるモンゴル民主主義の若々しさを感じた。

◆アジアふう政治の力

 松岡正剛さんが個人通信「一到半通信」No.54で、南北朝鮮の金金会談について、「一挙的な《アジアふう政治の力》というものを見た。(日本の)衆議院総選挙とは格段の落差だ」と書いていたが、まさにそのような一挙的な政治の力は、台湾でも韓国でもモンゴルでも力強く作動しているのに、日本だけが取り残されたように低気圧の谷に填り込んでいるのはなぜなのか。ウランバートルではホテルはもちろん、どこの家庭でもケーブルTVを通じて見ることの出来るNHK衛星放送で森新内閣のどうにもならない顔ぶれを眺めながらただ嘆息するばかりだった。

 日本では、何の役に立っているのか分からない参議院があって二院制で、それでもせめて衆議院だけは政権交代のダイナミズムを働かせようということで小選挙区制を選択しておきながら、ブロック別の比例制に重複立候補を認め惜敗率で判定するという二重三重に分かりにくい仕組みを抱き合わせてしまったという制度上の問題があるのは事実だが、それでも国民がもう少し強い意思を持って、あと5〜7%投票率を押し上げれば、制度的欠陥を乗り越えて政治の転換を実現することが可能だったのであり、つまりはそこまで踏み込む勇気を我々は持たなかったということなのだろう。

 さて、モンゴルに話を戻せば、旧共産党の市場化・自由化の不徹底と利権漁りによる腐敗ぶりを批判して、旧体制下で抑圧されていた知識人や新興ビジネスマンが中心となった“民主派”が政権を握り、欧米マスコミでは大いに礼賛されたものの、数年にして政策的実務能力の欠如と前政権以上の腐敗を露呈して旧共産党の穏健改革路線の復活を許すというのは、東欧諸国でもほぼ共通した現象で、それ自体は珍しいことでも何でもない。

 市場経済とは言っても、それを担う企業主体もビジネス機会も恐ろしく未熟で、せっかく立ち現れた新興企業家も政権内のお友達と組んで国有財産や外国援助を食い物にして自分らの蓄財に励むばかり。所得は伸びず(1人当たりGDPが400ドル)、インフレが進み(昨年は10%)、福祉は切り捨てられるという中で人々の不満が鬱積していました。1年前には、民主連合の中核だった民族民主党の議員3人が汚職で現職のまま逮捕され、さらに党首はじめその他の幹部にも疑惑が指摘されるに及んで、連立相手だった社会民主党は民族民主党との心中を避けるべく今春に政権を離脱するという混乱ぶり。民族民主党は党首=首相のアマルジャルガルも議席を失って50議席からわずか1議席となり、社会民主党に至っては離脱戦術も奏功せずゼロで、同党から分かれた国民勇気党の女性党首が個人人気で1議席を得たに止まった。

 といって人民革命党も“勝ちすぎ”で、前政権の失政を批判するのはいいが、これと言って決め手があるわけではない中で、今度は誰のせいにすることも出来ずに全責任を負わなければならず、早くも「どうせ次の総選挙ではまたひっくり返るだろう」との観測も出ていた。人民革命党も決して一枚岩ではなく、モスクワ留学組のエンフバヤル党首を中心とするベテラン世代と、民主化後に台頭してきた若手グループとの間にかなりギャップがあると言われており、政権が行き詰まった場合に分裂する可能性もある。さらに議会と大統領との関係も問題で、これまで大統領は人民革命党、議会は民主連合というネジレ現象があって、事あるごとに両者が対立して議論と駆け引きに時間を空費するという状態は一応解消されたものの、制度的に大統領の権限があいまいであることに変わりはなく、新政権の下で再検討と法改正が進められることになるだろう。

 我々が泊まったウランバートル・ホテルの隣にある人民革命党本部の前には演壇が仮設され、月曜日夕方にはそこでカメラの砲列を前に勝利宣言が発せられたのだが、幹部はじめ当選を果たした議員たちも、取り囲んだ支持者たちも、勝利に酔いしれるというムードではなく、むしろ「大変なことになった」という重圧感からなのだろう、喜びも半分くらいという表情だったのが印象的だった。

◆21世紀のモンゴル

 そのモンゴルふう政治の力は、21世紀にどこへ向かって放射されるのだろうか。今度の旅を通じて、ずっとそのことを思いめぐらせていた。

 モンゴル国は、日本の4倍の国土に、人口では50分の1以下にすぎない242万人が住む、モンゴル族の唯一の国家である。

「草原の国」とは言うものの、その広漠たる大地が我々のイメージする草原らしく緑に覆われるのは、真夏のほんの一瞬であり、7月上旬の年に一度のナーダム祭りの時期に訪れても、どこまでも続く灰茶色の瓦礫状の土漠にうっすらと緑が浮いているのを、辛うじて認めることが出来るだけである。馬や牛や羊たちは、そのまだ地表から1センチも伸びていない草を、土ごと引き剥がすようにしてむさぼり食べる。

 しかも1年の半分は地面が凍りついて、真冬ともなれば零下40度に達する極寒の中で,藁敷きの小屋も水桶も配合飼料も与えられるわけではない彼らは、蹄で氷を掘り砕いて,その下で仮死状態になっているわずかな草や根をむしって生き延びる。昨冬は例年にない大寒波で、数百万頭の家畜が餓死した。我々の基準からすれば「動物虐待」に等しいように見えるが、しかしこの国では人もまた家畜たちと肩を寄せ合うようにして同じ過酷さを生き抜いているのであり、家畜の大量死についても「確かに残念だが、このところだいぶ家畜の数が増えていたから、少し調整されたのかもしれない」と、それが神か仏の思し召しであったかのような達観したことを言うだけのゆとりを失わない。

◆豊かさと貧しさ

 1人当たりGDPで約100倍の“豊かさ”を持つ我々が、関西新空港から直行便でわずか4時間半、いきなりモンゴルの“貧しさ”に直面したときに、根本的に再検討を迫られるのは彼らの貧しさではなくて我々の豊かさである。遊牧民のゲルを訪れて、長椅子にも使える4つの清潔なベッド、ダライ・ラマの写真を貼った仏壇、ソ連製の手回しミシンなどが壁際にきちんと配置された6畳間ほどの円形の空間の中央に暖かいストーブが燃え、その上でいま作ったばかりの馬乳茶や牛乳酒やチーズを振る舞われたとき、その主婦の平安な顔つき、優雅な仕草、確かな口振りと鮮やかなコントラストをなして露呈されるのは、我々の豊かさとは金さえ出せば手に入れることが出来るだけの虚飾の塊にすぎないという事実である。

 彼女に向かって「電気がなくて不便じゃありません?」と訊ねる馬鹿はいないだろう。冷蔵庫などなくても、彼らは何千年にも渡って引き継がれてきた食料保存の技術を持っている。テレビ? あっても悪くないくらいに思っているかもしれないが、多分そういうものへの憧れも拒絶もとっくに超えてしまっているのではないか。ナショナル・ジオグラフィー・チャンネルで世界の秘境の珍しいドキュメンタリーを見なくても、彼らはどこよりも美しく厳しい自然に囲まれて日々暮らしている。MTVでロンドンの最新のロックを聴かなくても、彼らには自分たちが愛してやまない歌も音楽もある。NHK衛星で旭鷲山がナマで見られるのはちょっと魅力だけど……くらいのことだろうか。電話がないとしても、彼らには馬で一走り行って話し込んでくる十分な時間がある。

◆歴史の奪還

 もちろん、近代化による開発か未開のままの自然かといった問題の立て方は全くの陳腐にすぎない。しかし、豊穣という名の腐敗や便利さにかこつけた自堕落といった20世紀的なものすべてにほとんど耐えられなくなっている我々が、単にたまにモンゴルを訪れて気晴らしをするというのでなく、そこで大地にへばりつくようにして生きる彼らから何を学んで自分の暮らしの中に取り入れることが出来るのか、答えは簡単には見つからない。

 同様に、モンゴルの人々にとっては、永遠に今のままでいいというのも勇気ある1つの選択であるけれども、そうでないとしたら、モンゴルにとっての近代化とは果たして何なのか、誰も答えてはくれないその問題に自分で解を見いださなければならないのだろう。

 20年ほど前、改革・開放による4つの現代化政策に踏み込んで間もない中国で、向こうの学者たちと長い議論をしたことがある。その時に私が言ったのは次のことだった。

「日本では、農業社会を収奪しながら強行的に産業社会に移行させるという意味での西欧型近代化を、もっと徹底的に、そして短期間で(善し悪しは別にしてともかくも)成功させたが、10億人の人口の圧倒的大部分が農業に従事している中国で同じタイプの近代化が出来る訳がないのであり、とすると中国的近代化とは何なのか」

 中国人の答えはモゴモゴしたもので、それはやはり農業と工業のバランスのとれた発展が望ましいとかいうものだった。「いや,単にバランスというような問題でないと思う」と私は言った。数千年に及ぶ巨大な農業社会とそれに根ざした文明や価値観を持っている中国が“近代化”するとすれば、まず農業にあくまで基礎を置いて、農業社会の内側からそれを近代化するとはどういうことかの理論と政策が生み出されなければならないのではないか。農村にいきなり拝金的な資本主義的価値観を持ち込む“万元戸(農家の1戸当たり所得を1万元に引き上げる)”政策は,ロクな結末しかもたらさないのではないか。

 実は日本でも、もっと別な日本独自のやり方があったかもしれなくて、これほどまでに激しく農村を破壊した上に急いで産業社会を作り上げてしまったことへの反動が襲うかもしれない、と。しかし4つの現代化への熱気に燃える若い中国人学者には、私が何を言いたいか伝わらなかったようだった。

 その中国は今になって、モンゴルにとって兄弟・親戚筋に当たる内モンゴル、新疆ウイグル、それにチベットはじめ西部の少数民族地帯と沿海部とのどうにもならない経済格差の解消に苦しんでいる。

『ニューズウィーク』7月19日号によれば「少数民族の怒りが危険なレベルにまで高まっている」ことを懸念する江沢民政権の方策は、まことに近代主義的なもので、「巨額の資金をつぎ込んだ、中国史上類を見ないほど大規模になるかもしれない緊急プロジェクト“西部開拓”」である。天然ガス・パイプラインをはじめ、ハイウェ−、鉄道、国際空港、上下水道、インターネット、カジノ、外資誘致等々だが、人々が望んでいるのは金よりも独立かもしれないのである。

 いま私はモンゴルに来て、同じように、遊牧社会を基礎にした近代化というのがあり得るのか、それともそんなものはないのであって、旧態依然の自然のままの暮らしぶりに、ただ80万都市=ウランバートルにだけ砂漠に浮かぶ蜃気楼のように揺らぎ立つ“市場経済”が接ぎ木されればそれでよしと考えるべきなのか。

 私は無論のこと、彼らも答えはないだろう。しかしそのことを考える上で、まず前提として必要なのは、牧畜・狩猟より農業が、農業より工業が、より高度の段階だと考えるそれこそ西欧近代主義的な進歩史観を一度捨て去って、遊牧社会と農業社会と産業社会はそれぞれ別の価値を持つがゆえに、優劣も前後関係もない同等の存在理由があると捉えることではないだろうか。遊牧民は、不当に貶められてきたその歴史を取り戻す必要がある。

◆世界史の原動力

 ところが不思議なことに、不勉強な私が知る限りでは、モンゴルでは、かつて旧ソ連の支配によって不当に歪められてきた自国の歴史を再構築しようとする試みはなされているものの(例えばロシアを何世紀にも渡って侵略し支配したチンギス・ハーンとその子孫たちの世界帝国の偉大な業績を語ることは、かつては“反ソ的”と見なされた!)、広く中央アジアないし中央ユーラシアの遊牧社会が世界史全体に及ぼし続けたインパクトを正しく再評価しようとする動きはなく、それはむしろ日本から起こっている。

 江上波夫編『中央アジア史』(山川出版社、1987年)を先駆として、護雅夫・岡田英弘編『中央ユーラシアの世界』(同、90年)、岡田『世界史の誕生』(筑摩書房、92年)、杉山正明『遊牧民から見た世界史』(日本経済新聞社、97年)などがその代表的なものである。

 岡田は書いている。「中央ユーラシアという地域は、その周辺に、中国文明、インド文明、メソポタミア文明、地中海文明という、古代世界の4大文明の発祥地を持つ地域である。……これらの古代文明が発展して現在の中国や、インドや、西南アジアのイスラム諸国や、ソ連や、ヨーロッパ諸国になる課程で、中央ユーラシアから四方に向かって放射する力が、決定的な影響を与えたのである。現在でこそ、中央ユーラシアは、中国とソ連という2大国によってその大部分を支配されているが、こうした形勢は17世紀以降のものであって、中央ユーラシアの歴史の上ではごく最近の現象にすぎない。それ以前の中央ユーラシアには、中央ユーラシア独自の歴史があり、土着の諸民族がその主人公だったのである」

 ユーラシア中心部から見れば4大文明が「周辺」であって、その中心部からのインパクトなしには中国やインドやロシアは今の姿にならなかったかもしれないと思う“位置感覚”がショッキングである。

 その四方に向かって放射する力の最初は、前3000年紀に始まる中央ユーラシアのどこかからのインド・ヨーロッパ語を話す人々の西方・南方への移住であり、続く前2000年紀にはギリシャ人のバルカン半島南下と現在の地への定住、アナトリアでのヒッタイト人の古王国建設、アーリア人の南下によるドラヴィダ系のインダス文明の崩壊があった。

 同じ頃、中国では、タイ系の夏王朝が山西高原の北狄(森林狩猟民)の殷王朝に倒され、殷が今度は西戎(草原遊牧民)の周王朝に倒され、周も西戎の1つ「犬戎」に滅ぼされて春秋・戦国時代となるが、その中からやはり西戎の秦が台頭し、南蛮(山岳焼畑民)出身の楚を滅ぼして前221年ようやく中国を統一する。そこから「中国史」が始まるのであって、つまり黄河流域を中心とする中国という国家を作り上げたのは、後に漢族が「東夷・西戎・南蛮・北狄」と野蛮扱いする中央ユーラシアの諸勢力だった。というよりもむしろ、秦の後を継いだ前漢・後漢の400年余りを通じて、それも北方のモンゴル高原から発する匈奴、次の鮮卑の絶えざる脅威の下で、初めて「漢族」というものが形成されていったというのが本当なのである。

 後漢の末に黄巾の乱があって漢族の人口が10分の1以下になった混乱の後には、匈奴はじめ中央ユーラシアの諸勢力が華北に入り込み、やがて五胡十六国の135年間の乱を経て鮮卑出身の魏王朝が華北を統一し、その後を継いだ鮮卑と漢族の連合政権である隋王朝が全土を再統一し、それをまた同じ性格の唐王朝が引き継いだ。それ以後を見ても、漢民族政権は宋と明、それに中華民国以降だけで、遼はモンゴル系の契丹族、金や明は満州族、元はもちろんモンゴル族であるから、何か中国数千年の歴史を通じて連綿と漢族の王朝とその文明が続いてきたかのように中国史を描くのは真っ赤な嘘で、むしろ中央ユーラシア諸族の興亡史の従属変数として中国史があったと捉える方が真実に近い。

◆ロシアもモンゴル属国

 匈奴は、秦に対抗しながらモンゴル高原に出現した最初の遊牧帝国で前漢とも激しく戦った。前漢は秦が作った万里の長城をもっと西まで伸ばし、さらにその先の中央アジアのオアシス都市をも制圧した。そのためやがて匈奴は東西に分裂し、その西に残った子孫と言われるフンの一派が、5〜6世紀にはインドのグプタ朝を滅ぼし、別の一派がドナウ川流域に進出して東はウラル川から西はライン川に至るアッチラ王の大帝国を築いた。その衝撃が、ゲルマン民族大移動を引き起こし、476年、西ローマ帝国の滅亡に繋がって、欧州の「中世史」が始まることになるのである。

 他方、モンゴル高原の東匈奴はやがて鮮卑にとって代わられ、鮮卑が華北に進出したあとは柔然が埋め、さらにそのあと6世紀央にアルタイ山脈の西から突厥(チュルク=トルコ)が興って、初めてモンゴル高原から中央アジアまでの広大な領土を統合する大遊牧帝国を築いた。そのあとモンゴル高原にはウイグル帝国、遼が興り、遼の遺産を引き継いで満州・女真族の金が華北を含む帝国を築き、さらにその金の同盟者であった遊牧部族の中からモンゴル族のチンギス・ハーンが現れて1206〜27年の治世下で東北アジアから中央アジアまでのユーラシア横断的な大帝国が形成される。

 その偉業は直系の子孫たちによって引き継がれつつさらに拡張を続け、フビライの子孫は元朝を立てて中国・満州・朝鮮・モンゴル・チベットを、チャガタイの子孫は中央アジアを、ジョチの子孫はカザフスタンからウクライナにかけての草原を、フレグの子孫はイラン高原を、それぞれ長く支配した。

 抵抗する者は激しく攻撃するが、一度恭順の意を示せば、軍事=交通拠点と徴税システムだけは握って、あとは行政も文化も宗教も自由にさせるという騎馬民族独特の緩やかなネットワーク型支配の下、初めてユーラシア大陸のほぼ両端に至る広域経済生活圏が成立する。これを岡田は「世界史の誕生」と呼んでいる。

 ロシアはその頃ルーシと言って、今のウクライナの首都キエフが政治・文化の中心として栄えていただけで、それ以外は森の中にポツンポツンと王侯の砦があるだけの弱々しい存在だった。ロシアの諸侯はジョチ家のキプチャク・ハーン国にたちまち制覇されて服属し、13世紀以来17世紀末に至るまで税金を納めなければならなかった。モンゴルのハーンの手先として徴税代理人の役目を買って出て重んじられ、次第に勢力を持ったのがモスクワの大公で、16世紀央、イワン4世の時に初めてツァーリ(ハーンのロシア語訳)を名乗って独立への意思を明らかにし、キプチャク・ハーン国の分家のいくつかと戦って敗った。

 ロシア=旧ソ連の公式の歴史では、彼らが「タタールのくびき」と呼ぶモンゴルの残虐支配はここで終わり、「ロシア史」が始まったことになっているけれども、これは虚構で、実際には、依然強大だったクリミア・ハーンに引き続き支配され、それどころかイワン4世は一旦退位してチンギス・ハーンの直系の子孫であるモンゴル人のシメオンをロシアのツァーリに推戴し、そのシメオンから改めてツァーリの座を譲り受けるという手続を踏んで権威付けを図った。その後にもボリス・ゴドノフというモンゴル人がツァーリに就いているし、そうでなくともロシアの宮廷にはモンゴル人のお妃や重臣が何人もいて、その属国ぶりは1613年にミハイル・ロマノフがロマノフ王朝を建てても当分のあいだ変わることがなかった。つまり、ロシア皇帝はチンギス・ハーンの遺産の1つにほかならない。

 ところで中国に戻ると、元朝は1368年に至って漢族の明朝に追われてモンゴル高原に退いたものの、明は元が作った朱子学を基本とする科挙制度をはじめ政治・軍事制度をそのまま引き継いだ。しかしモンゴル人にして初めて可能だった全ユーラシアにまたがる広域多民族連合帝国の経営には全く失敗し、何よりもモンゴル高原に元朝皇帝の印璽を持ち去って依然として「北元」を名乗っているモンゴル族を滅ぼすことが出来なかったし、北元の側もまた最後まで明を中国の正統政権とは認めなかった。

 17世紀末に勢力を増した満州族は第2代のホンタイジのときに内モンゴルを併合し、そこを支配していたモンゴル族の一派=リンダン・ハーン家から元帝の御璽を献呈された。そこで1636年瀋陽で遊牧民の部族代表による直接民主主義的決議機関であるクリルタイが招集され、中国人とモンゴル人の代表たちがホンタイジをハーンに選び、彼が国号を清と改め、自ら清の大宗を名乗る。その意味で。清もまたモンゴルの後継国家なのである。

◆モンゴル国の成り立ち

 従って、今のモンゴル国の領域すなわち外モンゴルは「17世紀から清朝の支配下に置かれた」と普通言われているが、その関係は元々は、政権を譲った者と譲られた者の遊牧民同士の同盟と言ったほうがいい性格のものであった。

 しかし19世紀になると清朝が次第に弱まり、内部で雇われ漢族官僚の力が増すと、モンゴルに対して横暴を働くようになった。それに対して当時モンゴルを支配していた王侯・僧侶のあいだに民族的な危機感が高まり、やがて1911年清朝が崩壊すると同時に、活仏ホトクトを押し立てて「ボクド・ハーン政権」を樹立する。同政権は、内モンゴルを含めて中国に対して自立して大モンゴルを復元するための後ろ盾をロシアに求めるが、すでに弱体化していたロシアは中国との紛争を恐れて、逆に内モンゴルへの中国支配を認め、外モンゴルについても中国の宗主権の下での自治政府とする軟弱策をとる。これによって内外モンゴルの分断が固定化することになるのである。

 やがて1917年にロシア革命が起こり、引き続いて内戦状態が始まると、中華民国はそれに乗じて外モンゴルも完全に取り込もうとして、19年自治権を一方的に剥奪する。モンゴル人の間では民族独立運動が燃え上がり、その波に乗って翌20年には人民党(今の人民革命党の前身)が結成される。同党とその下の人民義勇軍がソ連赤軍の支援を得て21年に臨時政府を樹立し、24年に「人民共和国」を建国するのである。

 今も建国の父であり人民革命党の創始者として、ウランバートル市内に大きな銅像が建っているスフバートルは、人民党結成に参加して軍事部門を担当した人物である。確かに有能な人物には違いないが、結党と建国にはもっと優れた筋金入りの共産主義者や民族主義者の指導者が何人もいたにもかかわらず、その後のソ連支配の時代に片端から粛正されて、比較的穏健な民族主義者だったスフバートルしか賞賛の対象とすべきかつての指導者が残っていなかっただけのことだという皮肉な見方もある。

 それからのモンゴル国は完全にソ連の属国で、ソ連に批判的なことを口にする者は容赦なく処刑された。特に1920年代から40年代にかけてスターリン恐怖支配が吹き荒れた時期には、「日本のスパイ」の烙印を押されて葬られた人々が数万人もおり、最近になってその名誉回復の運動が起こってその資料館も設立されている。経済的にも、コメコン分業体制の下で、モンゴルは銅鉱石はじめ天然資源や羊毛など原材料のモノカルチャー的供給源の地位に甘んじる代わりに、石油や工業品、それに援助資金を与えられるという従属的な関係に置かれた。その恨みが、91年の素早い独立に繋がるのである。

◆ロシア領のモンゴル人

 モンゴルの北のロシア領内にもモンゴル族がいる。代表的なのは、バイカル湖の東岸から南岸、そして一部はモンゴル国内にまたがって暮らすブリヤート人35万人である。

 彼らは遙か昔からこの地に住んで半牧畜・半農耕の生活を送っていたが、17世紀になって東進してきたロシア人に抵抗も空しく支配されて酷い目に遭い、対抗上、モンゴル国からラマ教を受容して文化的一体化を進めた。ロシア革命後の内乱の中では、逃げ延びてきた反革命の白軍将軍セミョーノフと手を組んで、モンゴル国共々対ソ独立を達成しようとするが挫折。今度は逆に、ソ連政府によって、革命に干渉・侵攻してきた日本軍に対するバッファーとするため「極東共和国」を作らされる。日本軍の敗退後に同共和国は解体され、ソ連邦下の自治共和国となる。独立や全モンゴルの統一を叫ぶ者は容赦なく弾圧され、非モンゴル化が進められた。91年のソ連邦崩壊後、主権宣言をしたものの、ロシア連邦には留まっている。

 その西隣のトゥヴァは、チュルク語系のトゥヴァ族20万人が住む。元はイスラム教で、13世紀以降モンゴルの支配を受けてチベット仏教に変わる。モンゴルが清朝の支配を受けた時期はここにも清朝の影響が及ぶが、1911年の清朝崩壊でロシアに併合され、21年に仏教を国教とする独立国となってモンゴル国との合体を推進しようとするが、29年ソ連派のクーデタが起きて独立派・民族派が大弾圧に遭う。90〜91年のソ連邦崩壊過程で10万人ほど居たロシア人に対する暴動が頻発し、多くのロシア人が逃げ出す中で、91年主権を宣言し、独自の憲法を採択した。トナカイの飼育で知られる人々で、世界的に知られるモンゴル的な喉歌ホーメイのバンド「フー・フール・トゥー」はここの出身である。

◆中国内のモンゴル人

 中国内には、本国よりも多い480万人のモンゴル人がいる。もちろん最大のまとまりは内モンゴル自治区の340万人で、17世紀から清朝に服属してきたため中国側は完全な自国領と見なしている。毛沢東は革命の過程で、内モンゴルはじめ非漢族の少数民族について、当初は「独立国家、中華連邦の一員、中国内の自治区のどれを選ぶのも自由」と宣言していたが、革命成就の目前になると豹変し、中華人民共和国建国の2年前、1947年に早々と内モンゴル自治区人民政府を作らせて、モンゴル国との合同の夢を潰した。

 新疆ウイグル、青海省、甘粛省、東北3省には「モンゴル族自治州」ないし「自治県」が9つあり、そのほかにも州や県としてまとまってはいないが、モンゴル人もしくはモンゴル系と目されている集団が点在する。それらは、元朝時代に各地に駐屯軍として派遣された人々の子孫である。

 冷戦崩壊とモンゴル国独立のあと、ブリヤートやトゥヴァ、それに内モンゴルの間で「3モンゴル音楽祭」といった形での交流が盛んになっており、大モンゴルへの夢も再び湧き起こりつつある。政治的には難しいが、モンゴル族のアイデンティティ復興は何事かの始まりとなろう。[INSIDER No.454/2000年7月15日号より]▲