《参考資料》

有事より無事を、法律より戦略を

──問題の組み立てがおかしい有事立法


 武力攻撃事態法案など有事3法案を何が何でも今国会で成立させようと躍起になっているのは、故・福田赳夫元首相の直系の弟子を自認していて師匠のやり残したことは何でもなし遂げようとしている小泉純一郎首相と、その傷だらけの盟友で自民党国防族のボスでもある山崎拓幹事長の2人だけにすぎない。一致して反対している野党4党が審議拒否で抵抗しているだけでなく、自民党最大派閥の橋本派や連立与党の公明党には“慎重審議”論が高まりつつあって、仮に今国会の会期を延長したとしても、よくて継続審議、悪ければ廃案になる公算が大きくなっている。実際、この法案は作り方がずさん、出し方が拙速、内容は時代錯誤というどうにもならない代物で、一旦廃案の上、改めて「有事とは何か?」の議論から始めて根本から作り直し、他の関連法案とともに一括審議するのが順当と言える。

●“有事”とは何か?

 備えあれば憂いなし──というのが、小泉が繰り返し口にしている一見もっともらしい理屈だが、想像される限りのありとあらゆる脅威や危機に対して予め備えておかねばならないということになると、際限もない軍備拡張に走らざるえなくなってしまう。そのように言えば、いやあらゆる事態ではなく最悪事態に備えるのだという反論があるかもしれないが、その最悪事態として想定されているのは、かつての冷戦時代に仮想敵=旧ソ連が大規模な直接侵攻を仕掛けてきて、まず爆撃機の大編隊が来襲、続いて強力な機甲化師団が渡洋して上陸し、北海道の原野で陸上自衛隊1200両の戦車と激突する……といった“本土決戦”型のシナリオであり、今の日本では最も起こりそうにないほとんど幻想的な“有事”でしかない。

 5月19日の「サンデー・プロジェクト」で高野が安倍晋三官房副長官に、「“有事”とは何かを政治がきちんと国民に語らなければいけない。“本土決戦”型の事態は今では最も起こりにくいシナリオであり、それよりも例えば原発テロが起きる可能性が遙かに大きいのに、それは警察庁任せになっているのはなぜか。国民の安全を守るというのなら、まずどういう有事があり得るかを分析しないと話にならない」と問うたのに対して、その場では安倍は「あなた、ちゃんと法案を読んでいるんですか。この法案はさまざまな事態に対処できるようになっている」とムキになって反論したが、番組終了後の控え室で安倍は小声でこう言った。

「いやあ高野さんに痛いところを突かれてしまって。実は私は法案にテロ対策などもはっきり盛り込もうとしたのだが、冬柴さん(公明党幹事長)から『約束が違う!』と一喝されてダメになった経緯があるので、あの場面では言えないのですよ」

 なぜ冬柴がそれに反対したのかは分からないが、恐らく「最悪事態に備えておくのが国家の基本だ」と言って公明党内の法案への疑念を抑えつけてきた事情があるのではないかと推測される。いずれにせよ、この法案の有事想定がいい加減であることは、安倍も認めているのである。

 一般に、国民の安全が深刻に脅かされるのが有事だとすれば、それには軍事的有事と非軍事的有事がある。前者は、核攻撃、ミサイル・爆撃機などによる非核爆撃、地上軍による大規模上陸侵攻、大規模テロ、国境紛争、国籍不明機・不審船などの国境侵犯、大量の難民渡来など基本的に軍事力をもって対処すべき事態であり、後者は、大震災など自然災害、大火災、原発事故、伝染病、小規模テロ、広域的な凶悪犯罪など一応は警察的・消防的に対処すべき事態である。この法案が対象としているのは、もちろん前者だが、しかし両者の区分けはあいまいで、例えばテロも、9・11事件のような大がかりな“兵器を用いない軍事攻撃”と言えるような場合もあれば、1人の右翼青年がピストルで総理大臣を撃とうとするような場合もある。また伝染病は、通常の感染でも、米国での炭疽菌事件のようにテロによる場合でも、政府の権限を背景に専門家による迅速な対応が必要なことでは同じであり、米厚生省傘下の「疾病管理予防センター(CDC)」は(現に炭疽菌事件で活躍したように)そのどちらの場合であっても、アトランタの本部と13の地域センターに配置された6000人の職員が緊急動員される仕組みとなっているが、日本にはそのような態勢はないに等しい。

 あるいは原発も同様で、航空機突入や爆弾を抱えた突撃隊によるテロの場合でも、運転ミスによる爆発の場合でも、周辺住民に同じだけの深刻な被害を引き起こすわけだから、両方を想定して、未然防止の警戒態勢、いざという時に被害を最小限に食い止める防護対策、自治体・警察などへの連絡や協力態勢、住民への通報・避難対策、被害者の救護態勢等々に万全を期さなければならないはずだが、そのように“原発有事”を想定して総合的な安全確保戦略が練られているという話は聞いたことがない。

 日本には、運転中51、建設中・建設準備中8の計59基の商用原発と、運転中19、建設中2、解体作業中7の計28基の大学・研究所・企業の実験・研究炉があって、そのどこが事故を起こしたりテロに狙われたりしてもおかしくなく、それはどこぞの外国の大規模侵略より何十倍か何百倍も起きる可能性が大きいというのに、なぜ有事の中心シナリオに入らないのか。議論の出発点が狂っているというほかない。

●ひからびた古証文

 こんな珍妙なことになったのは、9・11以後の“何でもあり”の異様なムードに便乗して、この際、防衛庁と国防族にとって長年の宿願だった有事立法を滑り込み的に実現したいと考えた山崎の悪乗りと、福田内閣の遺産である有事立法を自分が手掛けて師恩に報いようと思った小泉の浅知恵とが合体したという、愚劣かつ不純な動機で事が始まっているために、防衛庁が20年も前に策定した素案を埃を叩いて金庫から持ち出して、それをベースに泥縄的に法案化するという安易極まりない手法が採られたためである。

 特に若い読者の皆さんは、有事立法をめぐる昔の経緯に詳しくないだろうから、簡単に振り返っておこう。

 1960年に改訂された日米安保条約が、日本自衛隊の役割を領空領海内での専守防衛に限定し、米軍はいざという場合に自衛隊を支援する代わりに在日基地を自由に使って極東の有事に対処することが出来るという、「自衛隊は楯、米軍は槍」という任務分担を定めたことは周知の通りである。このように、憲法上の制約から自衛隊の役割が限定されたことには、当初から日米双方の軍部・タカ派政治家の間に不満がくすぶっていた。

 70年代半ば、米国は75年のベトナム戦争敗北で自信喪失状態に陥り、その中で76年大統領選で後に“弱腰”と非難を浴びることになるカーターが当選した。ソ連は、その米国の状況を嘲るかのように、戦略原潜の増強と核ミサイルの多弾頭化を中心とする軍拡を推し進め、外交面でも中東からアンゴラ、極東では韓国や台湾にも手を伸ばして大攻勢に出ていた。それがやがて79年12月のソ連軍10万によるアフガニスタン侵攻という重大事態にも繋がっていく流れを形作っていた。77年に始動したカーター政権は、反共戦士=ブレジンスキー大統領補佐官の叱咤激励によってようやく気合いを入れ直し、当時はソ連を“主敵”と見ていた中国との準同盟関係を作り上げつつ、自らも軍拡を再開した。焦点は海洋核戦力の増強であり、それに伴って極東・西太平洋でも、グアム島を本拠とする戦略原潜部隊と、それを水上・上空から支援する横須賀・佐世保・沖縄を前進拠点とする第7艦隊や三沢などの戦闘機部隊に加えて、さらにP3C対潜哨戒機を米ロッキード社から100機も購入することになった(それこそが76年に発覚して日本を震撼させた“ロッキード事件”の真の原因)日本自衛隊をも連携の中に組み込んで、極東ソ連軍への防壁を分厚く築こうとした。そのため、自衛隊は守り専門という60年安保の限界を打破しなければならないという機運が日米双方から高まり、76年末に登場した福田内閣とカーター政権との間で協議が進められた結果、78年11月の「日米防衛協力の指針」(いわゆる旧ガイドライン)の締結へと突き進む。

 旧ガイドラインは、日本防衛に当たって自衛隊が米支援部隊とどう共同作戦を実施するかというにとどまらず、在日米軍が極東有事に出撃した際に自衛隊が作戦・補給などでどのような補助的役割を果たすかについても、細目にわたって研究することを目的に、その作業のための大枠を定めたもので、その意味では60年安保の事実上の改訂にほかならなかった。長年にわたる日陰者扱いに欲求不満が溜まっていた自衛隊制服組が張り切ったのは当然で、78年7月には来栖弘臣=統合幕僚会議議長が週刊誌上で「日本には有事法制がないので、緊急時には自衛隊は“超法規的行動”をとらざるをえない」と発言して大問題になった。福田首相は金丸信防衛庁長官に対し、有事立法を含む有事対応策を研究するよう指示するのと引き替えに、「文民統制に反する」との理由で来栖を解任させた。このようにして、有事立法は旧ガイドライン協議と連動して、当時の三原朝雄防衛庁長官が「米国が今、日本に求めていることは、有事に有効に対処できる防衛態勢を整備することにある」(77年10月、米国訪問から帰国後の発言)と語ったように、まさに“戦える自衛隊”をという米国の要求に応えるべく、初めて政治課題として浮上したのである。

 ちなみに、防衛庁内ではずっと以前から有事立法の研究が行われていたのはもちろんのことで、それが政治レベルに持ち上がったのはこれが初めてということである。
▼63年に社会党が国会で暴露して大騒動になった“第2次朝鮮戦争”を想定した日米共同作戦シミュレーション「三矢作戦計画」では、「基礎研究1・非常事態措置法令の研究」として、(1)国家総動員対策の確定(戦力増強の達成、国民生活の確保)、(2)政府機関の臨戦化、(3)自衛隊行動の基礎整備(官民による国内防衛態勢の確立、自衛隊の行動を容易にするための施策)の3分野に分けて、必要な法整備を詳しく検討し、現実には「有事が差し迫った段階で、隠秘の作戦期間中に防衛庁が各省庁との調整を完了した上、緊急招集した臨時国会で2週間以内に77ないし87件の法律を一挙成立させる」という段取りを描いていた。
▼64年に国防会議は、第3次防衛力整備計画の策定作業の一環として「緊急法令整備の検討」を行った。
▼65年に防衛庁法制調査官室は、非常事態特別措置法、国家防衛秘密保護法、輸入規制法、食糧管理統制法、労働力管理法のほか道路交通法・海上運送法・港湾法・航空法などの適用除外を含む97件の有事法制の研究に入り、翌年2月に一応のまとめを終えた……など。

 78年11月27日は自民党総裁予備選で、事前には福田再選確実と見られていたにもかかわらず、蓋を開ければ田中派の支援を受けた挑戦者=大平正芳幹事長の圧勝で、福田は本選に出馬することなく席を譲った。奇しくもこの日は、日米防衛当局が旧ガイドラインを調印した日で、その意味で旧ガイドラインと、それを具体化するために防衛庁がその後も作業を続けて81年と84年に「第1分類=防衛庁所管法令」と「第2分類=他省庁所管法令」に分けて発表した有事立法案は、福田内閣がいわば死産によって残した子宝なのである。そこに、福田の書生から政治経歴を始めた小泉が、96年のクリントン訪日による「日米安保再確認」宣言、97年の新ガイドライン合意とその具体化のための「周辺事態法」制定、00年の森首相による有事法制に前向き姿勢表明(9月所信表明)、さらに01年の「テロ対策支援法」による対米軍事協力への一層の踏み込みという流れの中で、今度こそ有事立法を実現しようと決意した理由がある。

 小泉の胸の内で、福田への憧れはことのほか強い。彼がなぜ靖国神社参拝にこだわるのかと言えば、三木首相が取りやめた参拝をわざわざ「公式参拝」と銘打って復活させたのが福田だったからである。彼が先の東南アジア訪問で唐突に「東アジア共同体」構想というリップサービスに出たのも、77年8月に福田がASEANを歴訪した際、思い切ったODAの提供を通じて日本との経済関係を強化する“福田ドクトリン”を打ち出したのに倣ったものである。一見すると脈絡不明の小泉の行動を理解する1つの鍵が「俺が福田直系だ」という彼の意識であることは押さえておく必要がある。安保・外交には音痴といって差し支えない小泉にとって、福田が残したひからびた古証文である20年前の防衛庁案に日の目を見させてやることが重要なのであって、その中身が今では時代遅れであるかどうかなど大した問題ではないのである。

●リアリズムの欠如

 根底に横たわるのは、日米両政府が「冷戦が終わった」ことによる世界規模の安保環境の大転換の意味を正しく捉えることが出来ずに、いわばポスト冷戦不適応症に陥っているという問題である。

 冷戦が終わったということは、冷戦にせよ熱戦にせよ、大国が武力を振り回して世界を好きなように動かせる時代が終わったということなのに、米国はそれを「ソ連が負けて米国が勝った」と誤解して、“唯一超大国”気取りでブッシュ父は湾岸戦争、ブッシュ・ジュニアはアフガン戦争からさらにイラク再攻撃に突き進もうとしている。その唯一超大国の軍事態勢を維持するには、太平洋からインド洋、中東地域までを睨む最大拠点として在日基地を(しかも日本に思いやり予算を出させてほとんど無料で)確保するだけでなく、さらに自衛隊に補完的な役割を担わせるよう仕向けることが決定的に重要で、そのために、旧ソ連の脅威が事実上消滅したことを認めざるを得なくなった後でも、それと同等もしくはもっと恐ろしい脅威が北朝鮮や中国からもたらされるかのようなディスインフォーメーション(偽情報)を手を変え品を変え供給し続けて、日本の政府と国民をマインド・コントロールにかけようとしてきた。

 それに対して日本政府は、本当にコロリ騙されているのか、それとも騙されたフリをしているのか分からないが、盲目的と言っていい従順さでその状況認識に付き従ってきた。恐らくそれは、首相と官邸は世界のことがさっぱり分からず、外務省は「アメリカ様のおっしゃることは何でも」といった奴隷根性から抜け出せず、防衛庁は脅威があることにしておいたほうが予算を減らされずに済むという打算を働かせるといった具合に、それぞれの知的怠惰が複合した結果なのだろう、結局日本は、自分の頭でポスト冷戦時代の意味を考えて防衛戦略の転換に踏み出すことが出来なかった。軍事的リアリズムに立つなら、まず何より大事なのは、ポスト冷戦時代に日本が現実的に直面する可能性が大きい脅威の様態とその優先順位を分析することであり、それなしには防衛戦略が編み出せるわけがない。防衛戦略がなければ、日米安保や在日米軍基地の役割、自衛隊の任務を再定義することも出来ないし、部隊の縮小再編と配備と装備の計画を打ち出すことも出来ないし、さらにその運用・戦術体系を確定することも出来ない。そこまでブレークダウンしてきて、そこでその運用・戦術を有効なものにするための国内法制の整備が問われるのである。

 言ってみれば、大不況の中で業態転換せざるを得なくなった企業が、新しい時代に適合していくためのマーケット調査もせず、経営戦略の立案もせず、組織改革と人員削減にも手を着けず、他者との提携関係や資金計画の見直しも放っておいて、社員の就業規則の改定に夢中になっているようなもので、まったくお話しにならない。

 このような過去10年余りの戦略論的空白状況を、本誌は「旧ソ連の脅威を北朝鮮や中国の脅威に安易に“横滑り”させるな」と一貫して批判し続け、田岡俊次などごく少数の軍事専門家も同様に論陣を張ってきたものの、それらは圧倒的に少数派で、マスコミの大勢はワシントン発のディスインフォメーションに疑念を差し挟むどころか、そのお先棒を担ぎさえしてきたのが実情である。日本経済の実情について、政府とマスコミと専門家がこぞって「不況だ、不況だ」と言い募って、自民党内の抵抗勢力と一緒になって政府支出による景気対策を求めるばかりで、日本の発展途上国時代の100年間が終わって過去の中央官僚主導の政策・予算決定システムに切開手術的な改革を施さない限り景気回復などあり得ないという現実に目を塞いでいるのと、全く似たような問題構造がある。戦略不在が安保でも経済でも深刻な日本の病である。

●軍事的有事の検討

 誰が攻めてくるか分からないじゃないか、だから「備えあれば憂いなし」だ──というような言い方は、軍事を知らないロマンティストの言い草で、そんなことを言えば未知の宇宙人の来襲にも予め備えておいた方がいいということになる。軍事的リアリストの立場をとれば、周辺・近隣諸国のいずれかが(1)日本を攻撃・侵略する意図を持つ可能性があり、(2)持った場合にそれを実現しうる兵器や部隊を持っていて、(3)それが現実となるような国際情勢の展開となる可能性があるという場合、その国は潜在的脅威と認定されるだろう。冷戦時代の旧ソ連は日本にとってまさにそれで、だからこそ当時は同国極東軍による大規模上陸侵攻が有事の中心シナリオとなり得たわけである。

 ただし、その時でも(1)の“意図”についてはかなり疑問の余地があって、上陸侵攻するというのは日本の領土・資源を占領・支配することが目的であるはずだが、日本の狭い領土と乏しい資源を支配しても何のメリットもない。日本に資源があるとすれば、勤勉な国民の働きによって支えられた強大な経済力・技術力だが、それは物理的な占領・支配によってはかえって活用することが出来ない。とすると、北海道なり佐渡島なりどこか一部を象徴的に占領して、日本に屈服もしくは妥協を迫るということだが、それもたぶんコストに合わない。可能性があるとすると、米ソが例えば欧州正面で全面戦争になり、その場合に旧ソ連が背後から太平洋米軍の攻撃を受けることを避けるために、主として在日米軍基地を無力化することを狙って(旧ソ連側から見れば二正面作戦で)日本を襲うことであるが、その目的のためなら核・非核のミサイル攻撃の方が遙かに効率的で犠牲も少ないのではないか。また(2)の“手段”については、たしかに旧ソ連の極東に配置された爆撃機編隊と機甲化師団はなかなか強力で、空爆で制空権を確保した上で陸上部隊が大挙押し寄せて上陸侵攻するというシナリオは成り立たないではないが、当時の旧ソ連極東海軍の渡洋運搬能力は恐ろしく貧弱で、もし彼らが戦車・装甲車を含む大規模な師団を一挙に運ぼうとすれば、バルト海・黒海の艦隊から地球を半周して渡洋能力を増強しなければならない。ところがそのような増強は、隠れて行うことは出来ず、米国はじめ世界中が注視する中で白昼堂々と喜望峰、インド洋、マラッカ海峡、日本海経由で行わなければならず、そんなことをしている間に国際世論によって阻止される公算のほうが大きい。従って、冷戦下で旧ソ連が主敵であった時代でさえも、その大規模上陸侵攻が本当にありうるかどうかは、それほど高い確率とは言えないというのが本誌の見方だった。

 まして、冷戦が終わって旧ソ連そのものは脅威でなくなって、しからば北朝鮮や中国がそれと同じ程度の脅威として新たに浮上したのかと言えば、そんなことはない。北や中国が日本に上陸侵攻して占領・支配しようなどという大それた“意図”を持つとは基本的に考えられないし、その“手段”としての渡洋能力は保有していない。中国が日本にせよ他の国にせよ、突然に核ミサイルを発射することは、指導者が発狂しない限り考えられず、普通、軍事戦略は我が方も敵方も基本的に正気を保っているという前提でゲームをシミュレートすることになっている。相手が気が狂った場合にも備えなければならないとなると、いちばん恐ろしいのは米国大統領がそうなった場合ということになってしまう。北朝鮮が日本にせよ他の国にせよ、突然に非核ミサイルを発射する可能性も中国の場合と同等で、それと宇宙衛星打ち上げのための乾坤一擲のロケット発射が失敗して日本近海に落ちるといった一種の“ミステイク”とをごっちゃにするのは誤りである。

●朝鮮半島“有事”の8ケース

 これも5月19日の「サンデー・プロジェクト」で、与野党の幹事長クラスが「北朝鮮がミサイルの発射準備に入って、燃料充填を開始したり、軍事要員に招集をかけたりしているのが察知出来たら、それは今回の武力攻撃事態法案でいう“武力攻撃が予測される事態”だ」「いやそうなれば“武力攻撃のおそれのある事態”だ」とか言っていたのは、ほとんどマンガ的で、まず第1に、北が日本に非核ミサイルを撃ち込むという事態がどのような政治的な文脈で起こりうるか、それとも起こりえないのかの検討を欠落させて、いきなり燃料がどうしたとかいう話になっているのが奇異なことであるし、第2に、ではその燃料充填や要員招集をどうやって察知するのかと問えば、「それはアメリカの軍事偵察衛星が全部見ている」という答えであり、だとすると武力攻撃事態、それが予測される事態、おそれのある事態という判定は米国任せというのだから笑ってしまう。今までさんざん米国のディスインフォメーションに翻弄されてきたというのに、有事やその前段階の日本の生き死にに関わる判断を米国に任せて平気だというこの日本の政治家のノーテンキなまでのナイーブさは、どうだろうか。それに、もし北が衛星で察知できない地下の秘密発射施設を使って準備を進めたらどうするのか。これも、脅威を冷静に分析することもしないで、「北のミサイルがいつ飛んでくるか分からないぞ」とズブの素人を脅して、防衛戦略もその一環としての情報戦略もすっ飛ばして、いきなり有事立法という低位戦術レベルに突き進もうとする無理の反映と言える。

 朝鮮半島有事と日本との関わりについて、重村智計=拓殖大学教授(前毎日新聞記者)はかつて『中央公論』96年7月号の「朝鮮半島“有事”はない」という論文で、8つのケースを例示して、そのどれを採っても日本にとっての有事ではありえないと論じた。
8つとは、(1)韓国との戦争が起きる、(2)北朝鮮で核兵器が完成する、(3)日本にミサイルが飛んでくる、(4)北朝鮮から難民が来る、(5)北朝鮮でクーデタが起きる、(6)金正日が暗殺される、(7)金正日が退陣するか亡命する、(8)北朝鮮国内で大暴動が起きる、である。

 まず(5)から(8)までは、北の国内問題であって、日米韓は一応それが引き金になって戦争に転がり込む危険について最大限の警戒を怠ってはならないが、それに軍事力をもって対処しなければならない有事ではない。(1)の第2次朝鮮戦争は、形式的には南北2国間の戦争だが、本質的には内戦であり、そうであっても米国は、米韓軍事同盟に基づいて、もしくはかつての“国連軍”が今も存続していてその司令部が日本の座間に置かれているという建前に沿って、韓国軍支援に打って出るだろうが、韓国と軍事同盟を持たず、かつての国連軍の参加国でもない日本は、その文脈からはそれに介入することはない。唯一ありうるのは、日米安保&周辺事態法が発動されて米軍に対する補給等の“後方支援”に出て行くことだが、北朝鮮のみならず韓国も、日本が軍事力をもって朝鮮半島の問題に関わることを歓迎しないだろう。

 (2)の北の核は、確かに完成すれば潜在的脅威であり、それを日本に向けて発射しようとする意図が見て取れて、実際にその準備が始まれば現実的脅威に転化するが、まだ完成していないし、今後完成する見通しにない。(3)非核のミサイルは、破れかぶれで1発か2発、撃ち込まれる潜在的可能性は確かにある。しかし、上述のようにどういう政治的文脈で北がそのような意図をもって決意するのかが問題の中心であり、金正日が発狂した場合は軍事的合理性の範囲外なので除外するとして、他には米日の何らかの軍事行動に対する恐怖もしくは報復の意図をもって行う以外には考えにくい。報復とは、第2次朝鮮戦争が勃発して在日米軍が出撃した場合にその基地を叩くか、またその米軍に周辺事態法によって日本が後方支援に出動して、それを当然にも北は日本の“参戦”と受け止めて反撃しようとするといったことだろう。北にとっては、日本の巨大な経済力を自国の再建に対する支援に結びつけること、北にとって麻薬密売と偽札作りを除いて唯一の外貨収入源となっている在日朝鮮人による献金を維持することが基本的な戦略的利益であって、それを投げ捨てるのは余程の場合に限られるだろう。少なくとも、米国と日本が何もしていないのに、ある日突然ミサイルを飛ばすと考えるのは、北の陸上部隊が大挙日本に押し寄せて上陸侵攻すると想定するのと同程度に滑稽である。

 (4)の難民は、第2次朝鮮戦争などの場合に大量に発生する可能性があるが、日本は資本主義地獄だと教えられている北の人々の対日観からして、わざわざ海を渡って日本に逃げるよりも、鴨緑江か図們江を徒歩で渡って中国の延辺朝鮮族自治州はじめ東北地方に約100万人住んでいる朝鮮族を頼って北方に向かって脱出するほうを選ぶだろう。第一、海を渡る船がない。来たとしてもごく少数で、警察や海上保安庁で対処できないほどの規模になるとは考えられない。

●妄想の上に立つ空中楼閣

 とすると、北のミサイル攻撃や原発テロがありうるのは、在日米軍や自衛隊が朝鮮戦争に介入した場合の報復措置として以外には極めて考えにくい。これは中国についても同様で、台湾海峡で戦火が交わされて在日米軍が出撃し、また日本が後方支援に出動した場合に、中国は当然にも日本を交戦国とみなして核ミサイルで後方を叩くという挙に出るだろうが、それ以外には考えにくく、まして渡洋能力の乏しい中国人民軍の地上部隊が日本に押し寄せることは、意図からも手段からも、ほとんど考慮に値しない。

 つまり、周辺からの大規模上陸侵攻というシナリオはほとんど架空だということである。それこそ福田内閣当時の防衛庁官房長であった竹岡勝美は、退官後は自由な立場で日本の防衛政策を批判する評論家になっているが、5月上旬に主な国会議員に送付した陳情書「武力攻撃事態法に想う」で次のように述べている。

「私は周辺諸国が一方的に対日侵略してくるとの法案の有事シナリオは現在“妄想”と確信しています」
「この法案で政府が“起こりうるもの”としてその対処策を国民に訴えている“有事”とは、日本に届き得る距離にある周辺隣国が、日本本土の全部または一部を占領する目的で(他に侵略する目的はありません)、日本に一方的に宣戦布告し、または奇襲で、はるばる渡洋し、日本の国を挙げての抵抗を制圧することに成功し、上陸侵攻してきたという“有事”のはずですね。敵国はそのためには100万人単位の軍事力を動員せねばなりません。私は隣国にそのような軍事力はなく、その“意図”は皆無と確信しております。だからこそこの法案を“妄想の上に立った空中楼閣”とまで、政府に失礼ながら極言するのです」

 大規模上陸侵攻に比べれば、ミサイル攻撃や原発テロのほうがだいぶ現実的な有事だが、それも主としては、米軍が日本を基地にして朝鮮戦争や台湾有事に介入し、またそれに対応して日本自衛隊が後方支援に出動した場合の“報復”として起こりうると考えるのが自然である。とすると、日米安保条約がなく、従って在日米軍基地がなく、従ってまた米軍の尻を追って日本が出撃することもないのであれば、そのような有事に直面する可能性は極めて少ない──つまり安保があるから日本は危ないという逆説が生じる。つまり、端的に言えば、ポスト冷戦時代の日本にとっての脅威の震源地は米国だということである。

 竹岡はまた、小泉が「備えあれば憂いなし」を常套句にしているが、備えの効果がなく憂いが生じたところで有事法制は発動されるわけで、この法律で憂いをなくすることは出来ないと指摘している。その通りで、あり得る有事を想定したら、まずそのようなことを起こさずに無事を確保するための外交戦略に全力を傾けるべきであって、1冊の本で言えば、第1章から第8章くらいまでを占めるであろうそのような無事のための外交的努力がすべて破綻した後に有事があるかもしれず、その対処法を第9章に記述し、第10章はまた戦争の後の平和回復策を盛り込むのでなければならないだろう。第9章だけをいきなり取り出して、しかも、脅威の見積もりも戦略・戦術もなしに法整備の話しか書いていないのでは話にならない。仮に、私がそのような本を1冊書こうとすれば、例えばこんな目次になるだろう。

第1章 冷戦終結の世界史的意味と米国の“唯一超大国”幻想
第2章 国連改革(もしくは第3の国連創設)と集団安全保障の理念
第3章 地域的集団安全保障を模索するEUとOSCEモデル
第4章 日本外交の目標となるべき「東アジア共同体」構想
第5章 朝鮮半島和平のシナリオと対北朝鮮外交戦略
第6章 アジアの平和と繁栄の大拠点となる沖縄の発展構想
第7章 日本の防衛構想の再構築と自衛隊の分割・再編・縮小計画
第8章 日米安保条約の再検討と在日基地の段階的解消
第9章 日本有事の分析と対処戦術、それに必要な態勢と法の整備
第10章  21世紀日本の「この国のかたち」

●沖縄からの視点

 さて、以上は、有事法制で何から何を守るのかという場合の「何から」に関わる話である。そこで次に「何を」という問題がある。何を守るのかと言えば、まず「国民の安全」であって、いかにして自衛隊が犠牲を惜しまず戦いつつ国民への被害を最小限に食い止めるかということでなければならないはずだが、これまでの政府答弁では、警報の発令や非難の指示・誘導を行うとしているものの、国民の保護のための措置はその程度であって、目立つのはむしろ地方自治体や企業への政府命令権限、土地の強制収用、物資・価格統制、外出制限・交通規制など国民の権利を制限して自衛隊に行動の自由を与えるという側面ばかりである。

 緊急時に警察や消防の場合と同様、自衛隊にも特別の権限が与えられるのは当たり前で、にもかかわらず自衛隊に関してはそれについての明文規定がなかったから、無闇な超法規的行動を防ぐためには有事立法が必要だというのはその通りで、だから「有事立法なんか要らない」というのは暴論であるけれども、しかしその場合に、「戦争なんだから少々のことなど構っていられるか」という調子で、あれもこれもとなるのは主客転倒で、各種の有事に際して政府・自治体、自衛隊・警察・消防等々がいかに迅速・緊密に協力して国民の安全を確保するかを、例えば阪神大震災の時の政府・自治体はじめ関係機関の無能ぶりへの反省を土台としつつ徹底的にシミュレーションすることが、まず第一でなければならないだろう。付随して、もう1つおかしなことは、この有事法制は、本土防衛の際に自衛隊と共同作戦を組むはずの米軍には適用されないという政府答弁である。こlれが本当だととすると、米軍は超法規的に(つまり全く自由に)行動するのに、自衛隊はこの法律によって出来ることと出来ないことがあって、極端な話、米軍はどこへでも踏み込んで行くのに自衛隊はそこから先へ進めないということが起こることになる。

 さらにもう1つ、米軍との絡みで曖昧なのは、本土防衛の場合でなく米軍がアジア有事で出撃して日本がガイドライン及び周辺事態法を発動して自衛隊が後方支援に出ていったという場合、先にも書いたように、当然、相手国は在日米軍基地を叩こうとするばかりでなく日本自体を敵対的な参戦国とみなして攻撃するかもしれないわけで、自衛隊が出たとたんから「武力攻撃が予測される事態」だか「武力攻撃のおそれのある事態」だか(この区別はいくら聞いても分からない)になって、自動的に有事法の適用が始まるのでないとおかしいが、どうも政府はそういう認識を持っていないようなのである。例えば、いま自衛艦3隻がインド洋に出ているが、出て行った瞬間から日本は報復テロが予測されあるいはそのおそれのある事態に突入していて、アル・カイーダの残党による(たぶん)国内の原発への攻撃の危険に直面していると思うのだが、政府がやったことと言えば各地の原発への機動隊による警備を若干強化したことだけ。このへんもどうなっているか、さっぱり分からない。

 というような細かい点はともかくとしても、この問題は「軍隊は果たして国民を守るのか」という、もっと本質的な問題に関わっている。国民はもちろん、軍は自ら身を挺して敵と戦って丸腰の国民を守ってくれるために存在していると信じているのだが、それがそうとは限らないということを、太平洋戦争末期の「沖縄戦」が示している。20日付朝日新聞の早野透のコラム「沖縄から見た有事法制」の中で、大田昌秀=参院議員(前沖縄県知事)は「軍隊は結局、軍隊自身を守るだけです。戦場で住民を守ることなどできないんです」「今度の有事法制だってどう住民を避難させるか、住民の安全を図るのか、具体的には何も書いていないじゃないですか」と語っているように、沖縄戦では米軍よりもむしろ日本軍によって沖縄県民18万5000の命の大半が奪われた。司馬遼太郎の体験も同じで、首都決戦に備えて満州から呼び戻されて宇都宮に陣地を構えた戦車隊の一員だった彼は、米軍が首都を攻撃して住民が逃げまどい、日光街道を北に非難しようとする人々でごった返している状況で、どうやって宇都宮から東京に戦車隊を差し向けることが出来るかという話になった時に、司令官がひと言、「そんなものは踏みつぶせ」と言ったことに衝撃を受け、それが彼の作品の底流にある昭和前期の軍国日本への激しい嫌悪の出発点になるのである。

 日本で唯一、近代的な地上決戦を体験した沖縄のほうからこの有事立法を見ると、軍隊は国家あるいは国体を守るために国民を平気で犠牲にするという、軍というものが初めから抱えている根源的なパラドックスが見えてくる。ちなみに、アフガン戦争ですでに9・11ニューヨーク貿易センタービル崩壊によるそれを上回る一般住民の死傷者が出ているが、米軍用語ではそれを「付随的被害」と呼ぶのだそうである。仮に米国が本土決戦型の戦争をして、軍の安全や行動の自由の確保のために米国市民を犠牲にしなければならなかった場合、それもやはり「付随的被害」と呼ぶのかもしれない。戦争は、外で戦おうと内で戦おうと、国家の面子や生き残りのためのものであって、国民はしょせんは国家の付随物だという観点に立てば、敵にせよ味方にせよ国民の被害は付随的なことでしかないということになるのだろう。

 独立国である以上、自ら国を守るのは当たり前じゃないかというけれども、「国を守る」というのは具体的に何をどうやってどの優先順位で守るのかということは、普通に考えられているほど自明のことではない。「何から」は時代遅れの見当違い、「何を」は曖昧模糊というのでは、有事立法はロマンティストの戯言になってしまう。やはりこれは一旦廃案にして、そもそもから出直す以外に、世界中の笑いものになることを避けることは出来ないだろう。▲

※この記事は、i-NSIDER No.64(5月25日発)、No.65(5月30日発)を統合して若干加筆・訂正したものです。たかの