旧著『入門・世界地図の読み方』の「プロローグ」の一部が、三省堂の中学校2年生用の国語教科書に収録されて久しいが、このほど明治図書出版から「CD-ROM版・教科書掲載作家作品集/2年生」という形で他の24人の方の作品と共にCD-ROM化された。旧著のプロローグは、新著『最新・世界地図の読み方』(講談社現代新書)にそのまま引き継がれている。←2000年10月26日
『婦人公論』11月号に「半農牧半電脳生活」の探求についてインタビューされた記事が載った。まあ本サイトでさんざん語っているようなことですが、読んで下さい←2000年10月25日
10月8日は「サンデー・プロジェクト」終了後、すぐに車で出て大宮市の健保グランドで行われた我が「ピンク・エレファンツ」主催のラグビー祭に駆けつけた。4〜5つのチームが集まって、前座に「40歳以上」の試合、そのあとホンチャン現役若手による試合があり、前座の後半20分ハーフだけNo.8を務めたが、まあとにかく日頃の不摂生が祟って始まって5分もすると息が上がってヨタヨタ。でもまあこうやって若い衆が、17年前の鬼木真人=初代キャプテン(月刊プレイボーイ編集長)、16年前の2代目私、3代目だったか4代目だったかの坂本隆(前週刊ポスト編集長)といったロートル組を大事にしてこういう試合を組んでくれて、介護精神の行き届いた立派な草ラグビーチームです。いやホントに、自分のところでそれほど大事にされていないどころかお荷物扱いされている他チームからの参加者の方が「ピンクさんがこういう祭を企画して組織してくれるんで、有り難い」と喜んでいた。写真:ラインアウトの最後尾でまるで他人事のように腰に手を当てて見ているのが私。かなりバテていて“参加”の意欲が足りない様子。うちでは50歳を超えるとピンクのパンツを穿かされる。60歳になるとレッド。うーん、あと4年かあ……。←2000年10月10日
「この50匁だと一度に200本作って、仕上げるまでに15日はかかるね。まあ今日作って明日売るというもんじゃない。江戸中期から盛んになって、その頃はお城の中でしか作らなかった。会津藩自慢の特産品として、江戸で売りさばいたり、将軍に献上したりしたから、真似されてはいけないということで、まさに門外不出の技術だった。会津でも一般の者は使わなかった。身分の高い家の結婚式とか、神仏用に使われた。今は身分も何もないから、こうやって全国から皆さん買いに来てくれて有り難いことだ」
「元々は蝋はウルシの実から採ったが、いまはウルシの木がなくなって、四国・九州の暖かいところでハゼの実から搾る。それを天日で晒して白くしたのを、私ら買っている。それをこうやって鍋で熱して、“舟”という器に入れて棒を転がして周りに蝋を付ける。ん? 型じゃなくて、こう転がしながら同じ太さ・形に仕上げていく。それで絵を付けて──昔、わしら子供の頃だから大正時代は、絵付けは別の職人がいて、その時になると絵道具を持って家に来て、夕方になると一杯おごられて帰っていったもんだ。今はこうやって全部自分でやるけどね。そう、今これは最後の仕上げ。小刀で上と下を切って揃えて棒を抜く。が、ほら、長さが揃わないのがあったり、切った時に縁が欠けてしまうのがあったり、まあ手でやることだから、なかなかね」←2000年10月9日
この合唱団は、昨年9月のエイズ支援コンサートの際に政財界人、文化人、タレントなど各界の有志約70人により「元美少年合唱団」として結成され、顔ぶれがなかなか面白いのと、やってみたら結構ウマイ!ので一同すっかりハマッて、存続させることになりました。昨年の同ホテルでのディナーショーはご1名様3万5000円という大胆な価格設定にもかかわらず、300席即日完売ということになって好評を博し、大いに気をよくして、その後も月1回の六本木某飲み屋での練習に毎回30〜40人が集まって、日本のテノールの第一人者=小林一男さんの指導の下、真面目に励んできました。メンバーの一部を挙げると、浅葉克己(アートディレクター)、大友直人(指揮者)、奥田瑛二(俳優)、小野敏夫(NEC監査役)、柿沢弘治(代議士)、ケンタロウ(料理家)、ケント・ギルバード(弁護士)、三枝成彰(作曲家)、島田雅彦(作家)、高橋進(公庫住宅融資保証協会理事長)、田中康夫(作家)、ダニエル・カール(山形弁研究家)、羽田孜(代議士)、鳩山由起夫(代議士)、ペマ・ギャルボ(チベット文化研究所)、わたせせいぞう(イラストレーター)……といった感じで、特別ゲストには林真理子(作家)はじめこれまた多彩な顔ぶれが予定されています。なおユニフォームはこのほどコシノジュンコさんデザインの、着る人によってはホテルのドアマンと間違えられるかもしれないすてきなものを準備中です。インターコンチのホームページはこちらです。←2000年10月3日
先に亡くなった黒田清さん(本欄2000年8月1日付参照)の側近でありパートナーだったジャーナリストの大谷昭宏さんが、「黒田ジャーナル」を解散しつつそれを引き継いで、10月1日に「大谷昭宏事務所」を開設しました。黒田ジャーナルが発行した「窓友新聞」は廃刊となりましたが、その読者のネットワークである「窓友会」は大谷事務所が引き継ぎ、催しなどを続けていくことになるそうです。またこれに伴い、新たに大谷事務所のホームページが開設されましたのでご覧下さい。←2000年10月2日
ややもして、松浦さんの「作品」と言いたくなるような極小歯車10種ほどのサンプルとカタログが送られてきましたが、1万分の1の歯車が横から見るとT字型であることがルーペでようやく確認できる程度で、10万分の1となると形状どころか存在そのものを肉眼で捉えることさえ難しい。これが直径0.269(+0-0.003)ミクロンに9枚の歯が付いた歯車であることは、カタログの写真や図を見て初めて分かります。しかも松浦さんは、さらにその10分の1の100万分の1グラムの製品を開発中で、来春にはその量産システムを含めて発表する予定だそうです。樹研工業のホームページはこちらです。←2000年9月19日
車のライトの使い方について目からウロコが落ちた!
『fase』という車の安全をテーマにした季刊広報誌の最近号で、モータージャーナリストの菰田潔さんが「ライト類の正しい使い方」を書いていて、なるほど!と目からウロコの思いをしました。薄暗くてもライトを点けなかったり、交差点で止まるとすぐライトを消したりするのは世界中で日本人だけで、なぜそうなのかと言えば発電機もバッテリーも能力がなくてすぐに電気が切れてしまう貧しい時代の習慣を今もそれが世界ルールだと思い込んで後生大事に守っているに過ぎないというのです。これは、車の話だけでなく、いまの日本社会のすべての問題に通じることで、つまりは日本人は発展途上国を卒業していないということです。
(1)ヘッドランプを早めに点ける
日本人は暗くなってからもなかなかヘッドライトを点けずにまずスモールランプだけを点け、次にフォグランプがあればそれを点け、やっと真っ暗になってヘッドライトを点けても交差点に止まるとこまめに消すが、これは「発電機の能力が低くバッテリーも弱かった昔の車のイメージを引きずっている」からであるらしい。米欧では、日没前はもちろん、日中でも雨や曇りでもヘッドランプを点ける車が多く、また日差しが眩しいときでも急に日陰に入ると障害物が見えにくいのでヘッドランプを点けることがある。信号待ちでライトを消すドライバーも見たことがない。ヘッドライトは、自分が前を見えやすくすると同時に、自分の存在を周りに知らせる意味があるので、点けた方が自分も相手もより安全性が高まる。サンフランシスコで日本人観光客がレンタカーで走っていて、交差点でヘッドランプを消したらパトカーに捕まって、安全義務違反で罰金を取られたという話もある。
(2)スモールランプで走らない
自分の存在を後ろの車に示すだけならスモールランプでもいいかもしれないが、前から見るとスモールランプは車種ごとに位置、明るさ、色がバラバラで、相手が瞬時にこちらを正しく認識することは難しい。
(3)夜間のヘッドライトは常時ハイビームで
夜間の走行では、100メートル先の物まで照らすことの出来るハイビームが基本で、対向車があったり、すぐ前に車が居たりする場合は“例外的に”ロービームにすると、日本の道交法でも規定されているが、絶えず対向車や前後の車がいる都会でばかり走っている人は、ロービームが標準と誤解している。
(4)フォグランプは霧の時に点ける
霧がないのにフォグランプを点けるドライバーが世界一多いのは日本である。
(5)ハザードランプを挨拶代わりに使わない
ハザードランプは言うまでもなく、故障その他の緊急事態で止まってはいけない場所に止まったり、後続車に自分が障害物になっていることを知らせるためのものだが、日本では、道を譲ってくれたりした時にお礼の挨拶でパッチンパッチンする風習がある。例えば、高速道路で道を譲ってあげて、前に入った車がパッチンパッチンしたので挨拶と思っていたら、そのすぐ先で渋滞が始まっていてその最後尾であることを知らせる合図だったという場合がありうる。お礼をするなら手を挙げるのが一番である。
(6)パッシングライトを合図に使わない
交差点などで右折しようと待っている対向車に、パッシングライトをチカッチカッとさせて「どうぞお先に」と合図するのはやめる。行ってもいいのかと思って発信すると、本当は向こうは「出てくるなよ」と警告の意味でチカッチカッを出していたという場合があり得る。
(7)高速道路の追い越し車線で右ウィンカーを点け放しにしない
ときどきハイヤーなどで追い越し車線を走っている間中、右ウィンカーをチカチカさせているのがいる(最近は余り見かけない)。ドイツなどでは、大型トラックが編隊を組んでいる場合に前がつかえて減速する時に、ブレーキをかけ始める以前に後続車に「減速するぞ」と軽く合図する場合、また追い越し車線を走っている前の車に「追い越したい」と軽いパッシングライトの意味で合図する場合にこのようなことをするが、ウィンカー本来の使い方ではなく誤解を与えるのでやめる。 ←2000年9月11日
池袋の沖縄料理店に行ったら有田芳生がいた!
9月9日、池袋サンシャインシティの「東京新聞文化センター」で1年前から毎月やって来た「世界地図の読み方」講座の今期最終回に行ったら、作家・スポーツ評論家の玉木正之さんも同じ時間に隣の教室で「スポーツライター」講座をやっていて、終わってから池袋駅西口の沖縄料理「おもろ」に行った。この店は、私が昔、池袋に住んでいたとき、いまはオウムだワイドショーだで忙しい有田芳生が京都から出てきて、東京の出版社に勤めるということになったので、新宿で飲んだあとにここまで流れて連れてきたところで、私は池袋を離れてからほとんど行く機会がなかったのに、彼はその後23年間、ずーと通っているそうで、まあ律儀な奴だ──というような話を玉木さんにしながらドアを開けると、その有田が1人でカウンターに座っていた。
玉木さんはいま私とご近所で、JR大船駅近くの寿司屋でよく飲んで騒いだり、ウチを経由して鴨川の長狭米を毎月届けたりしている関係。玉木さんも有田とは既知で、3人の共通項は「都はるみファン」ということでしょうかねえ。有田が10月に発売のはるみさんの新曲「散華」が凄い、凄いと言っていました。「散華」のことも、「おもろ」で我々とバッタリ会ったことも、彼のホームページ「有田芳生の今夜もほろ酔い」に出ています。彼は7月にページ開設以来、「日記」のようなことを書いて毎日更新しているんですね。大したものです。
玉木さんはまだホームページがなくて、ただいま準備中(自分でやったほうが早いよと言ってるんですが)。弟子筋の二宮清純さんが開いている「スポーツ・コミュニケーション」の中に「玉木正之のSPORTSぶっちゃけTALK」コーナーがあって、最新記事は「高校野球の根本問題」です。 ←2000年9月9日
大阪・鴫野の「モンゴル・オルゴ」でモンゴル料理を堪能した!
大阪読売の斎藤喬編集委員から電話があって、「ちょっと大阪へ遊びに来ない? 大阪・鴫野(しぎの)でモンゴル・レストランをやっているスーチンドロン君が高野さんに相談があるそうだ」と言うので9月7日に出かけて行きました。15:30から読売で、編成部の西田裕美さんらを中心にした若い人たちがやっている勉強会で「情報社会の未来」について1時間ほどしゃべって、若干の討論。そのあと近くのイタリア料理店で、明るい内からドイツ直輸入ビールとワインで酒盛りが始まり、元ニューヨーク特派員で今はThe Daily Yomiuriの大阪駐在=水島敏夫さんも合流。やがて鴫野に向かいました。
日本でほとんど唯一マトモなモンゴル料理が食べられるのではないかと思われる「モンゴル・オルド」は、JR学研都市線・鴫野駅から1〜2分のところにあり、内モンゴル出身のスーチンドロンが5年前から頑張って続けていて、彼が自ら作る料理がおいしいし、空輸で取り寄せている多種多様なアルヒ(モンゴリアン・ウォッカ)はじめお酒が珍しいし、それだけでなくモンゴル語や馬頭琴の教室も開かれるなど文化の交流・発信の基地にもなっています。20:00頃には、大谷昭宏さんも合流して大いに盛り上がったのでした。
下記の「黒田清」さんの項に書きましたが、斎藤さんはかつての「黒田軍団」の参謀長格、大谷は当時は駆け出しの先兵というところで、お2人とはもう四半世紀のお付き合いになります。7月31日に梅田・太融寺で行われた黒田さんの葬儀のときに斎藤さんの姿が見えなかったので、どうしたかと思っていたら、ドイツ・オーストリア出張中で、オーストリアでは例のハイダー党首にインタビューしたりしていたとのこと。「こいつは、絶対に政権を取るな」と確信したそうです。なお黒田さんの軌跡と葬儀の模様については、黒田ジャーナル発行の『窓友新聞』8月追悼号をご覧下さい(06-6361-3755黒田ジャーナル)。
で、すっかり酔ってその夜は無理なので、翌朝スーチンドロン君にホテルまで来てもらって、シラフでいろいろ話をしました。彼の夢は、関西にはまだ1つもない「モンゴル・ゲル村」を作りたいということ。モンゴル式のテント=ゲルを並べた宿泊施設は、栃木県那須の「モンゴリア・ビレッジ“テンゲル”」や、岐阜県上矢作町の「福寿の里・モンゴル村」などいくつかありますが、彼の構想は、規模は小さくてもそこに自分が家族と共に住んで料理を出したりお客をもてなしたり出来るようにしたいということで、いろいろ模索の末に、丹波篠山インターから20分ほどにある「草山温泉・観音湯」の協力を得て、その隣接地に大型のレストラン・ゲル、宿泊用と展示用の2つのゲル、合わせて3棟を建てる計画が動き出しています。彼によると、東大阪市に建設予定の「司馬遼太郎記念館」から、鴫野の彼のレストラン「モンゴル・オルゴ」、丹波篠山のこのゲル村、さらに福知山に向かう9号線を北上して但東町にある日本で最も優れたモンゴル民族生活資料の展示館である「日本・モンゴル民族博物館」を1つのルートとして結んで、これを「モンゴル街道」と名付けて世に売り出したいとのことでした。私は彼の熱意と構想のおもしろさに大いに感銘を受け、及ばずながら支援を約束したのでした。
スーチンドロン君もメンバーの1人である「モンゴル風の会」ホームページに、レストラン「モンゴル・オルゴ」の案内があります。 ←2000年9月7日
道具大図鑑「チェーンソー」を補充しリンクを付け加えた!
ほぼ毎日、少しずつ改訂を続けています。←2000年9月5日
「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」を聞いた!
同名のドキュメンタリー映画が大評判で異例のロングランになった、キューバの国宝級(?)バンドの本物がやってきて、春にチケットを売り出したとたんに完売というこれまた大人気。これも、下記のチベット歌舞団も、アジア・第3世界の優れた音楽を紹介する仕事をしている芳賀詔太郎さんの会社「カンバセーション」のプロデュースなので、芳賀さんに頼み込んでプラチナチケットを1枚だけ確保してもらって、9月1日の有楽町国際フォーラム大ホールでの演奏を聴きました。いやー、楽しかった。あとで加藤登紀子さんのホームページ「TOKIKO WORLD」を見たら、お登紀さん・藤本敏夫と3人の娘さんも行っていて、藤本は「もう俺、死んでもいい」と言うほど感激し、来年は一家でキューバ行くぞー!ということになったそうな。1919年生まれのピアニスト、ルベーンさんが両脇を支えられてヨロヨロと出てきて、座るなりガガガーンと達者なピアノを弾き出すのを聴いていると、生きる希望が湧きますよね。映画を観たときの感想はINSIDER No.448 のエディター欄に書きました。
ちなみに、ブエナ・ビスタの仕掛け人とも言えるトランペッターのゴンサーレスが組織した、新旧4世代にわたる凄腕ミュージシャンたちによる「アフロ・キューバン・オールスターズ」が10月に来日、24日に国際フォーラム、25日にZepp Tokyoで公演します。これもカンバセーション(5280-9996)です。 ←2000年9月1日
『婦人公論』から「21世紀/半電脳・半農牧的生活」についてインタビューされた!
読売に買い取られてかわいそうな中央公論社。しかし『婦人公論』は頑張っています。お前のやっている半電脳・半農牧的生活が面白いということで、インタビューされました。9月発売の号に載る予定です。 ←2000年9月1日
このページを全面再編した!
しばらく忙しくて「最新情報」がちっとも最新でなくなって失礼しました。が、夏休み(と言っても断続的に2〜3日ずつ2回ほど家でブラブラしているあいだ)に、これまでの「高野孟の個人的ホームページ」を「高野孟の極私的情報震源地」として全面的に再編しました。まだ工事中の部分も少なくありませんが、前よりは少し見やすくなったかと思います。また「鴨川自然王国」は専任スタッフを迎えて公式ページがスタートしましたので、稲刈りなどの日程告知や活動報告などはそちらに譲って、これまでの「鴨川自然王国・非公式ページ」は「農牧的生活を求めて」に組み替えました。
50も半ばを過ぎたオジさんがWebづくりで遊んでいるのもどうかと思いますし、ウチの会社や周辺にはプロのデザイナーもたくさんいるので、中身だけ書いて頼めばもっと洗練されたサイトが出来るのですが、インターネットの本質は「たった一人の個人でも全世界に発信できる」ことにあるわけなので、内容も形式も誰にも頼らず自分で楽しみながらやっています。中級くらいまでのWeb技術はたいてい駆使(?)していますが、ま、不備の点はご容赦ください。←2000年8月31日
文芸春秋社の単行本『私の死亡記事』に原稿を書いた!
文春で、生きている100人に自分の“死亡記事”を書かせて1冊の本にするという企画があって、原稿を書きました。中身は本が出てからのお楽しみ。たぶん10月刊行でしょう。 ←2000年8月30日
チベット歌舞団「新宿・花園神社」公演が成功した!
日曜日の午後に帯広から帰って、そのまま新宿・花園神社で行われた「チベット舞台芸術団」公演に駆けつけました。この団はインドにあるダライ・ラマ法王の亡命政府が、中国支配下の本国では途絶えつつあるチベットの伝統文化を保存・継承するために設立した、言わば国立歌舞団。富山、京都、東京・葛飾、つくばと回って、今日の新宿が最後の公演。どこもほぼ満員だったそうですが、今日も神社の境内に並べられたベンチの席は一杯で、立ち見が出るほどでした。都内2カ所の公演は「実行委員会」が主催で、その委員長が不肖私なので、開会の挨拶をしろと言われて、この一連の公演が実現するまでに在日中国大使館から関係者に対し「中止しろ!」という圧力がかかったことを披露し、「政治的にはいろいろ問題があるとしても、亡命政府の下に暮らす人々がいて、その人々が豊かな文化を持っているという事実を否定することは出来ないし、そのチベット文化に接したいと思う日本人の気持ちを押しつぶすことはできない」という趣旨のことを述べました。
なお、来年4月にはダライラマの提唱による「世界聖なる音楽祭 in Japan」が広島で開かれる予定で、近藤等則総合プロデューサーの下、日本実行委員会が出来て、ホームページも開いています。 ←2000年8月27日
帯広で温泉に入って馬に乗った!
8月25〜27日は帯広の牧場の集合日。東京・大阪・石川・札幌から18人が集まって、牧場のサウナと乗馬、然別湖温泉の露天風呂、レストラン「ランチョ・エルパソ」での車椅子のトランペッター=アサやんのライブと地元の「十勝渓流塾」の面々を交えた宴会、等々を楽しみました。詳しくは「農と言える日本・通信」No.34を。 ←2000年8月27日
月刊『創』で“ナベツネ”について座談会をやった!
元共同通信の魚住昭さんの近著『渡邊恒雄/メディアと権力』(講談社)が面白いというので、魚住、元大阪読売社会部=黒田軍団の末端だった大谷昭宏、巨人軍やベルディなどナベツネのスポーツ経営を激しく批判している玉木正之、それに私で、月刊『創』で座談会をやった。同誌10月号の巻頭に載った。『創』のホームページはここ。 ←2000年8月23日
名古屋から新幹線に乗ったら寺島実郎さんと会った!
8月17日、名古屋で講演が終わって、打合を1つ済ませて「のぞみ」に飛び乗ったら、斜め後ろに三井物産戦略研究所長の寺島実郎さんが座っていて、「やあやあ、久しぶり」ということでおしゃべりをしました。8月13日付毎日新聞「時代の風」に彼が書いた「放置された米軍基地問題/“常識”直視し撤退迫れ」という一文のコピーを貰いましたが、「日米関係の再設計を」という趣旨に全面的に賛成。私と寺島さんは、鳩山由紀夫が96年に「常時駐留なき安保」と言い出したときの仕掛け人ですからね。ちょうどたまたま翌日は、在日米大使館のフォスター公使(政治・安保担当)から赤坂のイタリア料理店にランチに誘われていたので、「ほら、寺島さんのような知米派だってこう言っているでしょうに」と言ってコピーを取り出しましたが、彼は「あ、それ、読みました」と言って隣の同僚に渡していました。
フォスターさんとは、15年以上前でしょうか、彼がヒラの大使館員で政治担当だったときからの付き合いで、公使になって戻ってきてからは、時折、自宅でのディナーに呼ばれたりしています。この日は、私が7月23日の「サンデー・プロジェクト」で放送した沖縄米軍基地の実態レポートについて「少しお話ししたい」ということでお声が掛かったのですが、予想通り、「沖縄の海兵隊は空洞化していて、もう要らない」という番組の趣旨にやんわり反論しつつ、より一層の理解を求めるということでしたので、「米国が冷戦が終わったのに、それ以前の惰性で、日本の思いやり予算をいいことに居座っているのがおかしいので、米国は米国としてポスト冷戦時代のアジアで(ソ連の脅威とは別の)どういう種類の脅威があって、それにどう備えるのか、というちゃんとした戦略を立てなければダメでしょう」などと、ひとしきり安保論議を交わしました。 ←2000年8月18日
野村万之丞が10月に「萬狂言の世界展」を開く!
「あしたのまんのじょー通信」が届いて、9月20日〜10月5日はフランス・ドイツ・ウクライナで萬狂言公演、10月5日から東京日本橋・高島屋で「萬狂言の世界展」を開くとあります。三家宝の貴重な面・装束・道具などを初公開するというからこれは楽しみです。 ←2000年8月10日
鴨川「大山不動尊」のお祭りで御神輿を担いだ!
我々が通う安房鴨川の大山地区では毎年8月7日がお祭り。5〜6日の土日に農作業をして、7日には昨年に引き続き御神輿を担いだ。以下、『おとなぴあ』に連載中のコラムに書いたその報告。
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安房鴨川・エセ田舎暮らし耽楽記 5 「昔ながらの夏祭り」
8月7日は大山不動尊の夏祭りで、昨年に続いて今年も御輿を担いだ。明治初め以来、最近まで7月7日だったが、今はこの日で、曜日ではなく日にちで決まっているのが昔風でなかなかよい。
かつてこの一帯は大山村と呼ばれ、そのほぼ中心にある森に包まれた小山の中腹にお堂があって、近隣からとくに雨乞いの聖地として崇められてきた。創建は古く、奈良時代の神亀元年に華厳宗の良弁僧正が全国行脚の途次、不動明王のお告げを得て建立し、楠の巨木の根に近い部分を用いて像を刻んで安置した。そのとき彼は、幹の部分でもうひとつ像を彫って、後に相模の大山不動尊に祀ったので両院は兄弟分になる。それと下総の成田を併せて「関東3大不動尊」と呼ばれている。
源頼朝が鎧・太刀一式を奉納したり、足利尊氏が400段余りの石段を寄進したりしてから、かなり由緒正しい。お堂は江戸末期に建て替えられたもので、このあたりでは最古の建造物である。
わが大田代集落の10人ほどの担ぎ手は、朝7時半に集まって冷や酒を酌み交わし、さっそく軽トラックに分乗して「平塚地区」の御輿の出発点となる神社に向かう。すでにかなり人が寄っていて、中には茶髪の高校生や、鳶職風で木遣りが上手なお兄さんもいて、今年は担ぎ手が多そうだ。とにかく昔の大きくて重い御輿だから、担ぎ手は一人でも多く、そして若いほうがありがたい。
揃いの白帷子を着て担ぎ出すと、とたんに汗が噴き出す。休憩所のたびに浴びるほどビールを飲んで、また担いで約2時間、ヘロヘロになりながら不動尊の下まで着くと、そこから尊氏の遺した急階段を一気に引き上げる最後の山場。境内でひとわたり揉んで、そのまま本堂の入口に突っ込むようにして御輿を奉納する。
ようやく境内のあちこちに地区ごとにシートを広げて宴会が始まる。地区の長老格がビールを注いでくれながら「あんたも、2年続いて担いだから、もう半分は土地の者と一緒だ」と言ってくれたのが嬉しかった。 ←2000年8月20日
黒田清さんが亡くなった!
浪速の大ジャーナリスト=黒田清さんが亡くなりました。大阪読売の社会部長として、敏腕記者たちを率いて、「男」「女」「われわれは一体なにをしておるのか──34年目の民主主義」などの大型連載企画をはじめ、読者に向かって開か
れた連載コラム「窓」、大丸デパートで毎年開いた「戦争展」など,大新聞というものの既成観念を打ち破るような多彩で旺盛な活動を繰り広げ、大阪に「黒田軍団」ありとその名を轟かせましたが,やがて同紙の東京本社で着々と権力への
道を登り詰めつつあったナベツネこと渡辺恒雄=現社長の親中曽根的国家主義路線と軋めくようになり、ついに86年、手足をもがれ縄で巻かれたような格好で社を追われます。その後、軍団の一員だった大谷昭宏さんと2人で『黒田ジャー
ナル』を興して、それまで「窓」を通じて行ってきた、名もなき庶民の喜びや悲しみ、悩みや怒りと真正面から向き合う仕事を継承する一方、雑誌やTVや講演で大活躍しました。
私が初めてお目にかかったのは、「われわれは一体……」の連載が始まっていた頃でしたから、23〜24年くらい前のことだと思いますが、事件取材で大阪に入り浸っている時に、ある金融関係の情報通から「関西の地下世界を覗こうと思
うならこの人に相談せなあかん」と言われて紹介されたのが、黒田軍団の参謀長格というか鬼軍曹役だった斎藤喬記者で、その縁で黒田さんにも面識を得て、彼らの溜まり場の曾根崎署裏の飲み屋やアジトのマンションにもさんざん出入りさ
せて貰いました。
黒田さんと2人で飲むときは、なぜかいつも梅田のトリスバーで、そのうち黒田さんがどこかのエッセイで「高野君にはトリスバーがよく似合う」と書いて下さって、それはそれで名誉なことではあったのですが、ある時「僕は本当はあん
まりサントリーが好きじゃなくて、バーボンがいいんですけど」とおずおずと申し出たらたら、「ううん、君はトリスバーでいいの!」と言われてしまって、結局ほかのところには連れて行って貰えませんでした。私は、「われわれは一体…
…」の連載が単行本になった時に黒田さんが書いた「まえがき」が好きで、そのことをよく彼と話して教えを請いました。少し長くなりますが一部引用します。
「ずいぶん前から、自分たちの周囲が変ちくりんなことになってしまっている、親子のことにしても、教育のことにしても、社会全般のことにしても、変ちくりんが大手を振って歩いている。……『なんでこんなことになってしもうたんやろ』などと話し合っているうちに、古ぼけたような言葉が浮かんできた。そう、それが『民主主義』です」
「民主主義が平和や反戦と同義語であるかに思ったのが錯覚であることは、現に、われわれに民主主義というおみやげを持ってきてくれた張本人のアメリカさんが、そのあと朝鮮半島やベトナムでドンドンパチパチ飽きもせずにやりはったことでも明かですが、それでは、民主主義というものは、もともと自由や平等や権利といったものとも相反するのか、それとも、われわれが民主主義だと思っているのはインチキの民主主義なのか、いや、われわれの本モノと思っている自由や平等の方がインチキなのか」
このように、自分の皮膚感覚でおかしいものはおかしいとピリピリ感じ取って、その感性を素早く「民主主義」というキーワードに凝縮させ、そこから地を這う取材で答えを探し求めるというのが、黒田軍団的浪速ジャーナリズムの鮮やかな手法でした。私はまた、数少ない師匠の1人を失いました。合掌 ←2000年8月1日