農と言える日本・通信 No.51  2001-04-18      高野 孟


●阿蘇の“野焼き”と草原乗馬トライアルに参加しました!

 3月10日から3日間、阿蘇に滞在して“野焼き”にボランティアとして参加し、またその対象となる草原に乗馬トレッキングのコースを開発するための試乗に参画してきました。その体験について農文協『現代農業増刊・地域から変わる日本/地元学とは何か』に寄稿したので、それを採録します。この地元学特集は大変充実した中身で、農村はじめ地域が変わることで日本が変わるかもしれないという道筋を示唆しているので、是非みなさんお買い求め下さい。とりわけ巻頭の地元学元祖=結城登美雄さんの文章は味わい深いです。
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
地元学特集の表紙「馬」に傾く私の地元学

 この3月一一日の日曜日に、阿蘇大草原の「野焼き」にボランティアとして初めて参加した。

 日本の草地面積の半分近くを占めるというその広大な草原は、平安時代から綿々と続いてきた「野焼き」という管理技術によって維持されてきた。ところが近年は、阿蘇全体で一七五の牧野組合に分かれて入会権を所有する約一万戸の畜産農家の過疎化・高齢化が一段と進んで、野焼きの人手を確保するのが難しい。三〜四年も放置すると、ススキが人の背丈の一・五倍ほどに生い茂ってその枯れ草が地面に累積して牛馬の好む牧草が育たず、逆に牛馬が苦手なイバラ類やアキグミなどがはびこって、牧野として利用することが出来なくなる。そうなってからまた野焼きを再開しようとしても、今度は可燃物が多すぎて、とうてい人の力ではコントロールすることが出来ないような猛火になるので、おいそれとは出来ない。仕方なくそのままにしておくと、自然発火による山火事が起きたり、枯れ草の下の地面が軟弱になって山崩れが起きたりしやすくなり、幸いにそのような重大事故を免れても、やがて灌木混じりの荒れ野に変わっていって、他のどこにもないあの世界遺産級の壮大な景観は失われてしまう。

 そこで、佐藤誠熊本大学教授らが「阿蘇の草原を国民的な緑の資産として保全しよう」という目的で九五年に設立した財団法人「阿蘇グリーンストック」の呼びかけで、毎年春先に、福岡や下関、遠く首都圏からも含めて五〇〇人ほどのボランティアが集まって、野焼きを支援しているのだという。昨年秋に黒川温泉を訪れた機会に初めて佐藤教授にお目にかかってその話を伺って、矢も立ても堪らなくなった私は、今回、福岡や東京や札幌の仲間たちと一緒にボランティアの一員に加えて貰うことにしたのだった。

 我々をお世話頂いたのは、熊本県南小国町の瀬の本高原から扇温泉一帯の草地を管理する「扇牧野組合」の方々で、午後一時に集合場所に行くと、三〇人ほどの地元勢とそれとほぼ同数のボランティアたちが集まっていた。「火引き」といって、危険を伴う火付け役は、比較的若い組合員五〜六人が担当し、その他の人たちは、竹棒の先を割って籐で編んだ「火消し棒」を持って外周に設けられた防火帯を走り回り、火が隣の森や人家に燃え移らないよう消して歩く係である。間近にまで吹き上げてくる炎が発する熱風と煙にたじろいでいると、「ほら、もたもたしたらダメだ。火付けがどこにいるかよく見て、付いていかないと!」と長老指導者から声が飛ぶ。夢中になって斜面を登り降りしているうちに、たちまち四時間が過ぎて、見上げると大きな山四つ、八〇ヘクタールほどがはや黒焦げになっていた。

 我々が興奮冷めやらずに「いろんなボランティアがあるけれど、こんなにスリリングなのは初めてだ」などと言い合っていると、地元の人たちが「いや、我々もボランティアですからね」と醒めた言い方をする。「えっ? だってこうして野焼きした牧野を牛の放牧に使うのだから、これは皆さんの仕事じゃないですか」と訊ね返して、その答えに驚いた。実は、同組合で実際に牛の放牧を営んでいるのは二軒かそこらで、あとはみな、旅館の従業員などサラリーマンとして生計を立てている“兼業”であって、入会権者としてやむを得ず野焼きに参加しているだけなのだ。阿蘇全体でも、約一万の入会権者のうち有畜農家は一八〇〇戸にすぎない。なるほど、これでは野焼きも、何の経済的価値にもつながらない、単なる“伝統芸能”のようなことになってしまうわけなのだ。

 さて、春に野焼きを行うには、前年の秋口に「輪地切り」といって、五〜一〇メートル幅に草を刈って防火帯を作る作業をしなければならない。近年では、二万三〇〇〇ヘクタールの牧野のうち七割に当たる一万六五〇〇ヘクタールで野焼きが行われるが、それに必要な輪地の総延長は何と六四〇キロ、東京から新幹線で姫路までの距離に相当する。時には姿勢を保つのも難しい急斜面で草刈り機を振るわなければならないその作業は、野焼きそのものよりもさらに大変な重労働で、実は、この輪地切りがやり切れないから野焼きが廃っていくという関係なのである。そこで、グリーン・ツーリズム研究の第一人者であり馬好き・モンゴル好きでもある佐藤教授のアイデアは、毎年毎年、人力で草刈りをしなくて済むように、輪地に普段から牛や馬や羊を放って草を食べさせ、さらにはその輪地を乗馬トレッキングのコースになるように設定し、既存の農家レストランや温泉、何もないところにはモンゴルのゲルや地元の人たちが牧草の刈り入れの時に作る藁(ではなくススキ)小屋のような仮設物を建てて、それらを馬で巡って歩けるようにしたい──ということだった。

 本当を言うと、私たちは、野焼きもさることながら、それを「馬の道」の開発と結びつけようというその考えに大いに共鳴して、それなら野焼きの後の牧野で実際に馬に乗って走って、いい馬の遠乗りコースが出来るかどうか試してみようじゃないかということになって、その目的も兼ねて乗り込んだのだった。そのため、私は帯広での牧場遊びの仲間でありこういうことの専門家である、社団法人「北海道うまの道ネットワーク協会」の後藤良忠専務理事に声をかけて、わざわざ札幌から飛んできて貰っていた。

 私と後藤さんは、前日の土曜日に福岡空港からレンタカーを駆って、阿蘇の北隣の飯田高原にある名門のウェスタン乗馬クラブ「エル・ランチョ・グランデ」に投宿した。一時間半ほど高原乗馬を楽しんだ後、同クラブの大番頭・高橋亮さんと月曜日の試乗の打合をした。同クラブから馬八頭と乗り手六人を出して貰い、残りの二頭には後藤さんと私が乗ること、それとは別に兄弟関係にある福岡県の乗馬クラブ「カナディアン・キャンプ」の山口信介さんも馬一頭を連れて参加すること、最初に経験者が乗ってルートを探索し、次に初心者や地元の方にも安全なコースを選んで乗って貰うこと、など段取りを決めた。

 野焼き翌日の月曜日は、朝から小雪がちらつく寒い日だった。一〇時に瀬の本高原の農家レストラン「八菜家」に集合して熱いコーヒーを飲みながら、社長の井農夫弥さんと歓談する。井さんは以前は牧野の土地を借りて大規模に大根を栽培していたが、五年前に地の野菜を活かしたこの自然派レストランを開いて成功している。彼も、牧野で馬を乗り回そうという佐藤構想に共感している一人だ。

「僕らの若い頃、そうねえ、昭和四三年、四五年くらいまではどこの農家にも馬がいた。“馬車馬”と呼んでいたが、大きな農耕馬で、“ドタ引き”と言って、森林の材木切り出しの作業などに使った。だから、僕でも、鞍を着けるとダメだが、裸馬にタテガミ掴んで乗るなら、今でも乗れますよ」

 なるほど、ここでもつい三〇年前までは暮らしの中に馬がいたのだ。そんな話を聞いてから、いざ第一次探索隊が出発。まずは一部舗装された農道をゆっくり歩いて、丘を上がって左に折れると、そこは道芝が柔らかく敷き詰められた五〇〇メートルほどの直線の道。先頭の高橋さんが、物も言わずにいきなり全力疾走を始め、そのまま前方の灌木混じりのススキ野に突っ込んでいく。「ウッヒョー、気持ちいいぜ」「最高だよ、こりゃあ」と、その道二〇年、三〇年のベテランたちも馬の背で歓声を上げる。途中いろいろ模索しながら、南隣の組合との境に設けられた長い土塁沿いの輪地に出てそこを下った。この輪地を馬に歩かせるのが佐藤教授のそもそものアイデアである。ところがここは、人手がなくてブルドーザーを入れて五メートルほどの幅で土を掘り返しているので、軟弱で馬の踝まで埋まって歩きにくい。

「ブルで作った防火帯は使えないな」「草刈りをしたところなら大丈夫だろう」「これでもバーク(製材の際に出る樹皮をチップにしたもの)を敷き詰めればいい馬の道になって、毎年ブルを入れたり草を刈る手間が要らなくなる」と、歩きながらプロたちの検討が続く。そのようにして、距離にして七〜八キロだろうか、一時間余りかけて基地に戻った。

 高橋さんたちの結論は「これは行ける!」だった。若干の整備を行いながら、輪地を含めて二〇キロ、四〇キロといったコースを開発すれば、この周辺のいくつかの乗馬クラブが入れ替わり立ち替わり馬とお客を連れて来て、牧野を維持しながら観光ビジネスにもなるという具合に持っていけるのではないか。今後も一緒にやって行きましょう、という話がまとまった。最初の試みとしてはまずまずの成功と言えた。

 佐藤教授の夢は、土塁の向こうの産山村の上田尻牧野組合にも相談を持ちかけて、そちら側に馬のコースを延ばし、さらに同村の東は大分県久住町、その向こうは竹田市だから、そこまで馬で行けるようにしたいということである。瀬の本高原の八菜家から北に牧ノ戸峠を越えれば飯田高原でエル・ランチョ・グランデがある。また西に五キロで黒川温泉で、その方向にもコースを探ることが出来るだろう。「そこで、今晩は産山村の実力者で村会議員の井信行さんを訪ねて、彼の小屋に泊めて貰いましょう」と佐藤教授が言い出して、私と後藤さんは何が何だか分からないままに付いて行った。井さんは、かつて牧野組合のリーダーとして、いち早く県の畜産試験場の指導を受け入れて経営改善を推進したり、今も「阿蘇の赤牛を食べる会」を組織して、ステーキやすき焼き用の高級部位だけでなくスネ肉など安価な部位を上手に活用した料理を普及して牛肉の消費を広げようと、あちこちの町村にコックさんを送り込んで講習会を開いたり、また村内の阿蘇でも有数の名水である「池山水源」を利用して無農薬米で酒や焼酎を作らせたり、まあいろいろなアイデアを次々に繰り出して、しかもそれをことごとく成功に導いている、阿蘇の村おこしの神様のような人である。池山水源の脇に、これも井さんが作った赤牛料理のレストラン「名水亭」があって、その料理長は井さんの情熱に惚れて熊本市内の一流レストランのシェフの座を捨てて来てしまった林田さん。今夜は彼が井さんの小屋に出張して得意の料理を振る舞ってくれた。

 最初我々は、扇の牧野の馬のコースを、こちら側の上田尻の牧野にまで延ばして、山を越えて池山水源までつながるようにしたいという話をした。井さんは「ふん、そんなことはやる気にさえなれば簡単だ」というような顔をして聞いている。我々は酒のせいもあってだんだん勢いづいて、ただ余所から馬が来て牧野の端っこを通らせて貰うだけでは、地元にたいしたメリットもない。どうせ今は飼っている赤牛も一五〇〜一六〇頭で草地は空いているのだから、いっそ地元の人が馬を飼ったらどうか、と一歩踏み込んだ提案をした。すると彼は「実は息子が馬を一頭手に入れてきて、自分で乗っていて、そういうことをおやりたがっているんだ」と言う。それなら話が早いじゃないですか。ただ、自分で楽しみで乗るのと、ある程度の頭数を置いて調教もしてお客に乗せるのとではレベルが違う。そういう話になれば、後藤さんがプロだから、いろいろアイデアを出した。どうせなら、北海道から道産子を連れてきて、長崎県対馬には対州馬という和種がいるからそれと掛け合わせて「阿蘇馬」という新種として売り出したらどうか。和種ならば冬も草原に放っておく通年放牧でも勝手に草を食って生きて繁殖もする。どんどん殖やして、観光乗馬を盛んにして、ダメになった馬は馬肉に回せばいいじゃないか……と大いに話は膨らんで、とうとう井さんが「これは面白い。よーし、オレがいっちょう馬の飼育をやってみようじゃないか」と言い 出した。

 別の井さんも言っていたように、ここにもつい何十年か前まで馬がいた。かつて阿蘇が軍馬の育成牧だったこともある。そういった歴史を再発掘することを通じて、牛だけでは活かしきれない大草原を馬で活かすことができれば、こんなすばらしいことはないじゃないか──というあたりで時計は一二時を回って全員朦朧となり、炬燵に突っ伏すように寝込んでしまったのだった。
 帰京後、一週間も経たずに佐藤教授から連絡があり、「扇牧野組合の若手のあいだで馬の道への関心が高まっていて、県の畜産課でもそういうことなら助成を出そうという話にまでなっている。上田尻の井さんのほうも含めて、やれることになりそうだ」とのことだった。

 阿蘇の体験談が長くなってしまったが、私の理解する限りでは、地元学というのは、我々のような面白がり人間があちこちに出没して、ささやかながら触媒役を担うことで、地元の方々が自分らの足下にある森や野や田畑や川や道や、余りにも日常的でそこにあって当たり前だと思っていたものの価値を再発見して、それで何事かを起こして行くきっかけを作るための、言ってみれば「地域興しベンチャー」の方法論である。私はそれを用いて、日本の村々にまだかすかな痕跡が残っている「生活文化の中の馬」を復元することに微力を注ぎたいと思っている。欧米では、性急な機械化やモータリゼーションにもかかわらず、馬の文化はそれとしてきちんと存続させる努力を怠っておらず、それが子供の教育や家族のレジャー、グリーン・ツーリズム、あるいは障害者セラピーなど社会の中で1つのどっしりとした役割を担っている。日本人はせっかちなのだろうか、石油文明が入ってきた途端に、村から馬を一掃してしまった。そのことが心のゆとりを奪い、カネカネカネの風潮を呼んで、結局、村を衰退させ教育を荒廃させることにも深いところでつながってきたのではないか。

 私の「農的生活」の本拠である南房総・安房鴨川の過疎村でも、地元学を実践しようとこの一月に「里山探検隊」を結成した。その第一回の行動でさっそく分かったことは、我々の小屋のある本拠地一帯は、かつて「馬捕り場」と呼ばれていて、鶴岡山系一帯に放牧された馬を年に一度その土手に追い込んで捕らえて市に出す一大イベントが行われたところだという。今は広葉樹林や杉林になっている目の前の山は、昔は年々野焼きが行われる牧野で、そのあちこちには湧水があって馬の水飲み場になっていた。そんな村人の昔話を聞きながら、ほとんど放置されたままの荒れた森を探索し、「この道はすこし倒木を切り払えば、いい馬の散歩道になるなあ」などと話し合っている。近くの神社には、鎌倉時代から続く古式豊かな流鏑馬の行事も残っている。が、馬は地元にはおらず、毎年福島県あたりから借りてくるのだそうだ。

 里見氏が四〇〇年前に開いたという嶺岡牧は、江戸時代には幕府直轄の軍馬育成場になり、そこへ吉宗将軍がインド人から貰った乳牛三頭を預けて「牛酪」を作らせたことから、「日本酪農発祥の地」ということにもなっている。「そういう土地柄で、馬を余所から借りて流鏑馬をやっているんじゃしょうがないじゃないか」ということで、いまここでも道産子を放牧して森の下草を食わせながら、山野を走り回る馬の道を開発してお客を迎えられるようにしようという相談が始まった。

 私の地元学は、ますます「馬」に傾いていくことになりそうである。▲