「里山」の研究

 大田代という「里山」に関わるについて、そもそも里山とは何であって、それを守り活かすためにどうすればいいのかを知りたいと思い、森林についての入門書を何冊か読みました。なるほどと感じるところがいろいろあったので、要点をメモにしました。 (98年10月22日高野記)

    (A)只木良也『森と人間の文化史』(NHKブックス、1988年)

    (B)山田國廣編著『里山トラスト』(北斗出版、1994年)

    (C)菅原聡ほか『遠い林・近い森』(愛智出版、1995年)

    (D)田畑英雄編著『里山の自然』(保育社、1997年)

    (E)渡邊定元『森とつきあう』(岩波書店、1997年)

《目次》

(1)里山とは?

(2)遷移と里山

(3)里山保全の実例

(4)どうするのか?

(1)里山とは?

●日本語として未認知

 里山という言葉は最近広く使われるようになったが、『広辞苑』はじめどの辞書にも載っていないことが示すように、実はまだ日本語として認知されていない。

 「奥山」に対するものとして「里山」という言葉を最初に使ったのは、(C)によると四手井綱英=京都大学名誉教授らしく、本人が自著の中で、昭和30年頃にある林業技術誌に現れた「農用林」についての論文に対して「私が、この森林に“里山”という名を与えて、反論的な一文を出したような気がする」「農用林即ち里山というものにこんな定義を与えたのは、どうも私らしいのである」と、ぼんやりしたことを書いているという。(C)が引用しているところによると、四手井は次のように書いている。

「農用林は、農村に必要な建築材や稲架用材を出すばかりか、燃料としてのまき刈り、柴刈り、落葉掻きなどが主な仕事で、この燃料は農家の炉やかまどで燃され、炊事・採暖用にも使われたが、炉やかまどで年を通じ夏も冬もたえず燃され続けたのは、木灰を集めるのが主目的であったからである。出来た木灰は灰小屋に貯えられ、カリ肥料として農地に与えられた。……また刈った柴は有機肥料として直接水田に鋤き込まれる重要な肥料でもあったのである」

●稲作文化の一環

 四手井はさらに、中国・湖南省の穀倉地帯の風景が南西日本の稲作地帯そっくりで、「日本の里山の利用も或いは中国から稲作が入るのと共に導入されたのかもしれない」と述べている。

 日本人は縄文の時代から、森林の恵みを利用しながらそれを維持していく術を心得ていたが、やがて稲作が伝わって森林を切り開いて耕地を求めるようになっても、なお森林を大切にし、そこから、

▼落葉・落枝や下草を採って耕地を養い、

▼木材を切り出して道具を作り、住居や土木工事を行い、

▼薪・柴・木炭など燃料をまかなった。

 そして、そのように農村での日常生活に不可欠のものとしての森林を、持続可能な恵みの供給源として維持し改変してきた。それが里山ということになる。西日本では、元はシイ・カシなど暖温帯の照葉樹林だったものが、過剰利用で土壌が痩せ、そのような土地でもよく生育するアカマツ中心に更新され、林床にマツタケが出るような里山が多い。東日本では、クヌギやナラの中にクリやサクラが混じっている「雑木林」の里山が典型的である。 

 しかし里山は森林だけでなく、堆肥や飼料のための「草刈り場」、牛や馬を放牧する「牧場」、屋根葺きのための「茅場」などもあって、里山林と同じく「入会地」として利用された(以上、主として(C)による)。

●人間の適度の関わり

 (B)では里山は次のように定義されていて、(C)とほぼ同様である。

「農山村の生活に必要な材木、薪や炭などの燃料、農業生産に必要な腐植土をつくる落ち葉の有機肥料、山菜・キノコや果物、猪や兎を得るため人為的につくられ維持管理されてきた人里近くの林」

「里山がもっている豊かさとは、人間が適度に自然とかかわることにより、そこから生活に必要な生産物を、汲めども尽きない状態で得ることができるという循環再生構造にある」

「松を残すために下草を刈った。松の背が高くなって下草より上へ上がったら松が残る。杉林は枝を打つ必要があるが、松は枝を打ってはいけない。80年くらい経つと材木として使用できる。松を伐採した後は、また一から始める。……作業をすると火を焚く。そこへ秋はシメジが生え、春はワラビが生える。人が入ってかかわりを持った方が良い」

●安房地方の森

 ところで、(B)には、各地の「里山トラスト」の経験の1つとして、鴨川市の南の三芳村で立木トラストによってゴルフ場建設を阻止した運動の中心人物=鈴木昭の手記が載っている。運動そのものはちょっとおくとして、彼が描いている安房の森林の現状はたぶん鴨川自然王国の一帯でもまったく同じだろうと思う。

「今、安房の山はかつてない程うっそうとしていると言われている。昔ならとうに伐り出す番に来ている植林杉がそのまま放置されているからだ。枝打ち・間伐の手が行き届いていないので余計に林の中は薄暗く、大雪や豪雨で大丈夫かと不安を与える。もっとも、ほとんどの村人は山に見向きもしておらず、山地主ですら今の自分の山の杉がどうなっているか知悉している人は少ないだろう」

「思えば“山遊び”と称して村の男たちは、ついこの間までは暇を見つけては竹の子・山芋掘りにでかけ、狸や兎の罠を調べ、川魚の魚籠(びく)を回収し……と楽しみ、女たちは宮や寺堂に集まっておしゃべりし、山に登って花見などをしていた。これが村のレジャーであり、テレビなどで宣伝される都会人のレジャーとは異なるものであることは言うまでもない。……川と海を汚しておいてプールで泳ぎ、里山の森を壊しておいてゴルフをする」

「ゴルフ場の対案の1つに『何もしないこと、山をそのままに残しておくことこそが対案だ』というのがある。山はそのままでも国土を保全し、水を涵養し、空気を浄化し、生き物を育み、景観を維持する。ところでここで言う山が里山となると少し様相がちがってくる。集落の裏に広がる山々は人とのかかわりが深く、いつも人の手を入れさせていた。人、言い換えると『家屋敷や田畑』と裏山を有効に結びつけて初めて人は自立的な生活が営めたからである。ところで、裏山が人にとって必要であるとは言えても、裏山にとって人が必要であるとは言えないのではないかという疑問がある。裏山は人がそこに住みつく遙か以前から存在し、安房地方では椎の純林を形づくっていたとのことである。なまじ人が手を入れたばっかりに、放置された今は見苦しくなってはいるが、放置が数百年も続けばやがて椎林の極相へと遷移していくことだろう。とはいえ、今のように藪が多すぎては鳥も住みづらいらしく、松も枯れてしまう。裏山にとって良いかどうかはともかく、歩道があって、山菜が採れ、薪炭材が手に入り、杉林がバケモノ林から少しは明るい林に変わり、石宮に陽が当たり、そこそこの尾根から海などが見晴らせられれば、たぶん気持ちの良いことだろう」

●村人の生活の変化

「なぜ山が荒れてしまったのか。それは炭や杉が売れなくなったからだ、という答えは正確ではない。そこに住む村人本人が炭も杉も使わない生活をし始めたということに注目したい。世の中がどう変わろうが村人が“山仕事”をし続け、自分たちの主たる燃料を薪炭に頼り、建材や道具や肥料を外国産や化学製品に頼らず、四季の食べ物を里山から求めるようになっていれば、人はもっと頻繁に山に入り、そして山は今のように拒絶的でなく親しみやすいものとなっていたのである。村人が都市と同じ論理で生き始めた時、山はみるみる荒れていった。ゴルフ場業者が狙ったのはこういう山であり、都市と同じ論理で生活したいがために地主は山を売った」

 山は放置しておいて勝手に極相林に遷移するに任せればいいという一見すると自然を大事にしているかの原理主義的な意見は、少なくとも里山に関する限り全くの間違いだろう。すでに1000年以上もの間、人の手が入りすぎて何度も荒廃の危機に立たされながらも、さらにまた人の手が適切に加わることで人と自然の共生的な循環構造を回復して、人に多くの恩恵をもたらしながら自らも生命力を維持してきた里山には、それ以外の生き方はないのではないか。

●水の連鎖と動物

 さて、生物相を観察している人たちは、もう少し広い意味で里山を捉える。(D)で田畑英雄=京都大学生態学研究センター助教授(里山研究会主宰)はこう言う。

「里山林は農業用水を涵養し、肥料を供給する形で農業と密接につながりをもっているので、里山林だけでなくそれに隣接する中山間地の水田や溜め池や用水路、茅場なども含めた景観を里山と呼ぶことにする」

「繰り返し伐採されて、樹幹だけでなく林床の落葉・落枝や低木まで林地から持ち去られる里山林は、明らかに自然林とはちがうが、どのように異なっているのか、また、どの程度類似した点があるのかといったことがまったくわかっていない。里山林は二次林と呼ばれて価値の低い自然のように考えられ、長い間生物学の研究対象にはならなかった。残り少なくなった原生的な樹林が貴重な林として保護されるのは当然として、里山林が保護区として指定されることはない。果たして、里山はそれほど価値のない自然なのだろうか」

「私たちにとって身近な生き物は里山に住んでいるものが多い。調べてみると、里山は絶滅危惧種も含めて実に豊かな生物相をもっている。植物の種類も多いが、里山にはイノシシ、シカ、ニホンザル、キツネ、タヌキなど哺乳類もたくさんみられる。鳥類も豊富で、私たちの調査区では1年間に100種をこえるだけでなく、日本のワシタカ類15種のうち12種が観察された」

「里山林に接する田んぼと林の間には高木がなく、低木やネザサや草本を刈り込んだ草地がある。これを放置すると、田んぼが陰になるので頻繁に刈り込んでいる。……水田でイネをつくることとこの草刈りはセットになっている。里山林の林縁からそれに隣接する水田の畦にかけて生活する生物は、イネの栽培技術とリンクした“管理”を受けることになる」

田んぼの畦は人為的に維持されてきた“草地”である。畦はつながっているので、日本には膨大な面積の草地があることになる。私たちの調査地では、里山林に囲まれた面積の30%が畦であった。この草地にキキョウ、ワレモコウ、リンドウが花咲き、コケリンドウ、クララ、オオバクサフジ、ツルフジバカマ、ネコハギ、キジムシロ、ツチグリ、ススキ、オケラ、ホタルブクロ、シラヤマギク、ヨモギなども似たようなところに生育する。これらの植物の分布域を調べてみると面白いことに気がつく。それは、朝鮮半島から中国東北部に同一種ないしは近縁種が分布しており、なかには、さらにダフリ地方やアムール地方にまで生育するものもある。……中国東北部から内蒙古の「草甸(そうでん=meadow)と呼ばれる植生が、氷期には日本でも広がっていたが、後氷期になくなって、その植物の一部が里山の草地、河原、湿地、里山林内などに生活の場を求め生き残ったことを物語っている。……畦にはそれ以外にも、熱帯・亜熱帯につながる植物や帰化植物などが共存していることもつけ加えておこう」

 田畑はさらに、畦や水田を含む里山が、たくさんの草本やキノコ、昆虫などの生活圏であることを明らかにしている。

 里山林が農業用水の涵養に欠かせないこと、また生物相から見ると林の外縁の草地や畦、水田そのものや溜め池など、森の植物だけでなく水の連鎖と動物も含めた全体を「里山」として捉えるべきであることは、(C)では言及されていない(D)の主張である。もっとも、農業用水の涵養は主として奥山の機能であり、下刈り・落葉集めをする里山はそれによってむしろ水源涵養機能を犠牲にさせられている。従って、農業用水の確保という観点からすれば里山の役目は副次的ということになろう。とはいえ。(D)が言うように、里山を水と植物と動物が一体になった環境として捉えなければならないという視点は重要である。

 それにしても、畦が草地であり、ユーラシアの植生と繋がっているというのは凄い。                

       

(2)遷移と里山

 その場所で、植物種が自然に交代して群落の構成が移り変わっていくことを遷移、正しくは生態遷移という。以下、主に(A)と(D)から要点を拾う。

●遷移の一般パターン

 溶岩流の上、新しく隆起した島、新しい海岸砂丘など、植物質が皆無の裸地から全く新しく始まる「一次遷移」の一般パターンは、《地衣・コケ類→一年生草本草原→多年生草本草原→陽性低木林→陽性高木林→陰性高木林》というものである。

 これに対して、火災、風倒、伐採など環境の急変で遷移の進行が止まったり後退した時に、残された植物質から改めて始まる遷移が「二次遷移」で、それで生まれるのが森林である場合に「二次林」と呼ぶ。この点で(D)が「原生的森林が破壊されると、土壌が浅く乾燥する立地にはアカマツ林が、土壌が深く湿潤な立地にはコナラ林が成立するので、ともに二次林といわれる」と書いているのは不正確だろう。原生林すなわち極相の陰性高木林が破壊されることだけが二次林の発生理由ではないし、原生林が破壊されると必ず二次林が発生するわけでもない。

●極相

 遷移が終着となるのが極相である。日本のように十分な降水量があれば、極相は、暖温帯の場合は照葉樹林、冷温帯の場合は落葉広葉樹林、亜寒帯の場合は常緑針葉樹林などの陰性高木林になる。極相林では、老木の枯死や風倒で森林に穴があくと、そこから陽光が地表まで差し込んで地表の稚樹や低木が伸び出し、その場所だけ二次遷移が起きて部分的に補修されるが、全体としては同じ外観を保つ。

 降水量が少なかったり、その他環境条件が悪いところでは、遷移が陰性林まで進まずに、草原や低木林のままに止まることがあり、それがその場所での極相である。

●農林牧業と遷移

 水田耕作はじめ狭義の農業は、大体において、遷移を一年生草本の段階から進まないよう管理することを意味する

 畜産業は、家畜飼料として多年生草本を確保するため、放牧、刈り取り、火入れなどで圧力をかけて、遷移をその段階で止める。日本の草原の多くは、人が圧力をかけて遷移を止めることで維持されており、人の手が入らなくなるとすぐに遷移が進行して低木、やがて高木に覆われる。

 林業は、主に高木林から木材を得る。いま熱帯雨林で起きているように、極相もしくはそれに近い森林から大木を過度に伐採すると、土壌の流失など環境が回復不能な打撃を受け、二次遷移が起こらなくなって森林が荒廃する。人工林とは、採取目的の樹木の苗や種を遷移の初期段階(皆伐したり焼き払ったりして何もない状態)にいきなり持ち込み、短期間で生育させるものである。そのような人為的なやり方は当然、自然から強い抵抗を受けるので、苗木が負けないよう草や低木を取り除く「下刈り」、目的樹木以外の樹木を取り除く「除伐」、目的樹木同士の競争を緩和するための「間伐」などの保育手入れが必要となる。

 農林牧業それ自体が「自然破壊」であるというのは、つまりそれが遷移の人為的操作にほかならないからである。

●遷移との関連での里山

 かつて日本全土は、それぞれの気候帯に応じた手つかずの極相原生林に覆われていた。弥生時代になって水田耕作が始まり集落が形成されると、周辺の森林は木材の伐採、肥料源としての落葉や下草の採取、薪や粗朶の採取など有機物の収奪が行われるようになり、その結果、暗くじめじめした猥雑な陰性高木の照葉樹林は、陽性高木の明るい雑木林や松林に変わる。つまり、極相の陰性高木林が遷移の1つ前の段階である陽性高木林に退行するのである。

 その後も収奪が繰り返されると、松林や雑木林は遷移を進めることが出来ないまま、数百年ないし千数百年間も足踏みする。雑木林は、ある一定面積をほぼ20年に1度皆伐し、その切り株から新しい芽が出て回復する。松の場合は地面から実生して回復する。それが安定した里山の二次林である。

 ところが、さらに収奪が激しいか、土地条件が悪いところでは、遷移はさらに退行して、藪になり、さらには禿げ山になる。逆に石油時代になって里山林に手が入らなくなり収奪が行われなくなると、土地の肥沃化が進み、陰性の極相樹木が入り込みやすくなって、松など陽性樹木は競争に負け、遷移が極相に向かって進み始める。京都・嵐山はじめ各地の名勝地の松林が衰弱し始めたのはそのためで、マツクイムシの被害が広がる以前からのことである。嵐山では大正時代から「風致地区」に指定して手を加えることを禁止して松林の景観を守ろうとしたが、これはむしろ逆で、守ろうとするなら以前のように松林を適度に収奪して、遷移の進行を止め、ないし退行させるのでなければならない。

●三次元の遷移コントロール

 江戸時代までの稲作地域は、(1)集落・水田、(2)里山、(3)奥山を区分し、(1)は生活と食糧生産のための集積地、(2)は肥料・飼料や生活資材の生産圏として機能させ、(3)は水系の治山治水など流域保全と水源涵養機能維持を主な目的として収奪の対象から外され、必要な限りの木材の切り出しや山菜・キノコの採取にとどめられてきた。

 その区分に応じた遷移段階を管理することで、自然の治癒力を活かして全体としての環境をコントロールする巧みなやり方だったと言える。

(3)里山保全の実例

 (D)は里山保全への取り組みをいくつか紹介している。(B)には立木トラストの実例の紹介があるが、これは抵抗運動としての都会人の参加スタイルなのでここでは省く。

●高槻市当局および森林組合の「森林銀行制度」

 バブル期の地価高騰で森林所有者が相続税負担に耐えられず森林を開発業者に売却するケースが出てきたことから、高槻市は「森林保全基金」6億円を積んで、下刈り・枝打ち・間伐など森林保全作業に通常の補助金とは別に奨励金を出す「森林保全協定制度」と、その保全協定林の所有者がどうしても手放さなければならない事情が生じた場合に市が買い取るか、善良な買い手を斡旋するという「森林銀行制度」を創設した。

 森林組合はこれに積極的に協力し、創設から10年で保全協定林は600haに達し、基金を利用して適切に管理されている。  森林を管理する林業経営資金は、従来は農林家が主に投資し、一部を行政が補助してきた。しかし林業の低迷で官民とも負担の限界が明らかになる中で、高槻市の林業組合は、(1)公園の草刈りや緑化樹の育成など、本業以外の業務を行う、(2)森林レクリエーションのための「森林観光センター」を運営し、山菜・キノコの販売、バーベキューやキャンプ、木工クラフトなどのサービスを提供する、(3)「市民参加の森づくり事業」で住民や労働団体が参加して植林や下草刈りをする――など、都市住民に森林保全への理解を求め、またお金も使って貰い、それを森林の保全に役立てている。またそのような森林と市民のつながりを背景に、都市に求人を呼びかけて森林林業士の若返りにも成功している。

●宮津地方森林組合の信託管理制度

 京都府・丹後半島の伊根町では、過疎化のため山林が荒れ放題で、山の境界さえ分からなくなるほどだった。そこで森林組合が遠く離れた不在地主に対して「将来、町に戻ってくる見込みのない森林所有者と期間を定めて信託契約を結び、組合が山を管理する」ことを提案、36人分78haについて契約が成り立ち、分収造林や森林レクリエーション予定地として有効活用が始まっている。

●たかもく(株)の「緑のオーナー制度」

 福島県・只見町では、木材加工協同組合を母体として生まれた「たかもく株式会社」が、最初は民家の再生や民家風住宅の建築に取り組んでそれが軌道に乗ったあと、一歩進んで、入会林となっていた雑木林が放置されているのを、春は山菜採り、秋はキノコ刈り・木の実拾いなど山遊びをしたい都会人に出資を求めて会社で買収、整備した。入会権の分譲のようなもので、8年を過ぎて株主520人、出資金1億4000万円以上、買収山林約40万坪となった。

 所有地が増えると株主だけでは使い切れず、手入れコストもかかるので、次に「ナチュラル・トラスト」と名付けて、300坪単位の土地所有権と20年分の管理料、それにたかもく所有地への入会権をセットにして50万円で販売した。

 さらに、現在力を入れているのは古本業で、読み終わった本を一律定価の1割で引き取り、その代金1670円ごとに1坪の森(もしくは同額の別の古本)と交換するという仕組み。3年を経て、毎日1000冊を超える本が全国から送られてきて、累積80万冊以上、3万坪以上の土地と交換した。

●高知県梼原町の「千枚田オーナー制度」

 四万十川源流の美しい千枚田が働き手がいなくなって放棄され始め、町と農協が都会人たちに年間4万円の負担でオーナーになって貰い、日常は農家との間で管理委託契約を結んで作業を委託し、田植えや刈り入れの時などには家族連れでやってきて自ら作業に加わるという仕組みを作ったところ、高知、大阪など関西圏から東京までたちまち応募があった。

●奈良県明日香村の「棚田オーナー制度」

 飛鳥の景観を守るために奈良県が買い上げた棚田の一部が、村人の高齢化で耕作できなくなったことから、民地を加えた5反歩を単位としてオーナーを募集したところ、全国から280人の応募があり、その中から32家族を選んで耕作委託契約した。棚田の保存だけでなく、農業インストラクターの養成、野外コンサートなど地域全体の活性化のための「棚田ルネッサンス」が進んでいる。

●長野県「田毎の月」の保存運動

 鈴木英幸さんから届いた資料によると、長野県更埴市の「田毎の月」で知られる棚田では、県職労の有志7人が94年に始めた米づくり参加による保全運動が、今では県外を含む会員34人と農業体験協力者5人の「田毎の月保存農業体験同好会」に発展し、棚田40枚=43アールを耕作している。それに励まされて市当局も「棚田保全推進会議」を設置し、さらに「棚田貸します制度」を創設して、広く募集を開始した(現在、地元小学校や商店街、県外の人など40組がオーナーに)。97年には第3回「棚田サミット」の開催地となり全国から1200人が訪れた。これらの努力の結果、98年4月にはこの一帯が国の文化財保護審議会から「名勝」に指定する答申が出た。田畑など耕作地が名勝に指定されたのは初めてのことである。

 同好会は、地元民や農業改善普及センター員の指導を得て、耕耘、畦の整備、肥料散布、手植えによる田植え、土手の草刈り、稲刈り、脱穀などの作業に取り組んでおり、98年の作業日程は次のようである。また水の管理については、これとは別に年間を通じた当番制をしいている。

  4月19日(日)         苗を依頼した農家でもみ撒きの手伝い

    25日(土)26日(日)    田の耕耘作業、畦シートの取り付け

  5月16日(土)17日(日)    代かき作業、土手の草刈り、肥料の散布

    23日(土)24日(日)    田植え

  6月20日(土)         土手の草刈り

  7月25日(土)         土手の草刈り

  8月22日(土)         土手の草刈り、地域の人々を招いて焼肉大会

  9月26日(土)27日(日)    稲刈り

  10月11日(土)         脱穀

  11月上旬            地域の人々を招いて収穫祭

  12月5日(土)6日(日)    来年の準備のための田の耕耘

(4)どうするのか?

 (D)は最後の章で「里山をどうする――私たちの提案」と題して、里山保全への取り組みの方策をまとめている。「里山林」も「田んぼ」も、適度な利用をするならば、持続的利用可能な自然であり、それが日本の自然の保全に大きく貢献する。しかもそのノウハウは今ならまだ継承可能であるが、10年後では間に合わないかもしれない――というのが彼らのスタンスである。

●誰が守るのか?

 林業経営が困難で、後継者がおらず、離村者も増えているという中で、当面、里山林を守れるのはプロの森林労働者を持つ森林組合ではないか(高槻市の例)。宮津地方はじめ天竜市、静岡県龍山村など多くの森林組合が長期施業受託事業に取り組み、また愛媛県久万町や三重県宮川村では第3セクターによる森林の維持管理が行われている。こういう手法を造林地だけでなく里山林にも拡大する仕組みが出来れば展望が開ける。それには、経済的視点だけでなく、生物相・環境・景観の保全といった森林の公益的機能を社会の共有財産(コモンズ)と評価して国民がその維持のために経済的負担をするという新しい「入会」の概念の確立が必要である。

●「里山植民」のアイディア

 10〜20戸の小規模単位で里山に希望家族を募って里山に定住を図り、優遇した借地権付きの住宅を提供する代わりに、年20〜30日の里山作業への「出役」義務を課すものである。各地で新住民と地域住民による里山共同作業を始められる簡単な手法である。

●技術的側面

 里山の手入れを復活する1つの手段は、炭焼きであり、炭の新しい利用法を模索した。その結果、燃料としてでなく、水質浄化など環境浄化や吸湿剤・脱臭剤、土壌改良剤などの用途のために、移動式の窯による安い炭を生産する方法を考えていたところ、高槻市森林組合がすでにその研究に着手していることを知った。  それは、炭材を細かいオガクズ状態にして特殊な粘土鉱物で覆い、加熱・自燃させて700度で焼成して、炭をセラミックが覆った「燃えない炭」をつくるというもの。高槻市で77年度からテストプラントが始動する。

●小規模発電

 もう1つは、島根大学の小池浩一郎発案の「小規模熱電併給システム」で、スウェーデンがすでに取り組んでいる木材によるガスを燃料にしてジャンボジェットのエンジンを改良したガスタービンを回して熱と電力を供給するというもの。木材は1kg燃やすと4800kcalのエネルギーを出す。これは重油の1万kcalの半分弱。里山の広葉樹林は活発に利用されていれば1ha当たり1年に7tの薪を生産し、これは重油3.4t=ドラム缶21本分に相当する。

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