我カク戦ヘリ/二十一世紀への冀望
――高野孟に聞く(構成・福島泰樹)
《1962年に早稲田大学第一文学部西洋哲学科と東洋哲学科に入学した同級生が卒業後40年近くを経て集まって、同人誌『西東』を刊行しようということにな
り、その04年4月創刊号の巻頭で福島泰樹(僧侶・絶叫歌人)がインタビュアーとなって私に波瀾万丈?の半生を語らせようという企画が持ち上がり、福島の
寺で一杯飲みながら言いたい放題しゃべったのが以下である。doc書類で50ページにも及ぶ分量なのでお暇なときにお読み下さい。たかの》
* *
私の説では、冷戦下で米ソを先頭に各国が核兵器をも含めて重武装して激しく利害を競ったのは、一つの目的に向かって国民を総動員する近代国民国家システ
ムの行き着く先だったのであり、冷戦が終わることによってその基礎にある近代国家もまた終わりに近づいていく。
そこでは、相変わらず冷戦時代の思考を引きずって“国益”の囚われ人であることを止められない人々と、平和、環境、人権、貧困の克服など地球普遍的な価
値の形成に重きを置いて、そのためには国家の枠組みを無視し、あるいはもしそれが邪魔なら壊してでも行動しようとする「地球的に考えて、地域から行動する
(Think Globally, Act
Locally)」ような人々との対立・抗争が時代の軸をなす。そして、その後者の人々の中心は、どうも「一九六八年世代」――西側世界ではその年に最も
高揚した「ベトナム反戦」の運動に何らかの形で関わりながらそれぞれに自国の戦後秩序の耐え難さに異議を申し立てようとした若者たちであり、東側世界では
その年に起きた「プラハの春」をソ連赤軍の戦車が踏みにじるのを見て「人間の顔をした社会主義」の到来の余りに遠いことに絶望しかかった若者たちではない
のだろうか、というのが私の問題意識だった。(高野孟『地球市民革命』より)
■俺たちが共有した時代■
福島 俺たちは一九六二年に大学に入った。どんな時代かというと、六〇年安保が二年前にあって、その敗北感みたいなものが学内に漂っていてね。入学したて
の五月ぐらいだったかな、天気のいい日で、文学部の例のスロープのぼっていったら、自治会=革マルの連中が、「米ソ核実験反対」のピケを張っていた。そう
したら、俺たち西哲の七原秀夫が、ピケ破りの大演説始めたんだよ。まだ、学ランの時代だよ。ワイシャツの腕振り上げて、なんとも恰好よかった。それから、
七原と連れ立って、穴八幡の丘の横にあった食堂に昼飯食いに行ったんだ。そしたら、あいつ、いきなり「悠々たる哉天壊、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て
此大をはからむとす。ホレーショの哲学、竟に何等のオーソリチィーに値するものぞ。萬有の真相は唯一言にして悉す。曰く『不可解』。我この恨を懐いて煩悶
終に死を決するに至る。既に巌頭に立つに及んで胸中何等の不安あるなし。始めて知る大なる悲観は大なる楽観に一致するを」って、一高生藤村操が入水前、華
厳瀧巖頭に彫りつけた「厳頭之感」を朗々として暗誦したんだよ。それ聞きながら、ああ俺は、哲学科に来たんだなって納得した。
でも結局、飯田義一や大上昌昭なんかとつるんで酒を飲んじゃあ、議論しあってたね。
高野 高校時代はどうしてたの。
福島 今日は、高野に話し聞くんだ。俺のことはどうでもいい…。でもまあ、一つだけ言わしてもらえば、一九六四年に俺にとっては一つの大きな事件が起き
て、それは後の早大一文闘争へと発展してゆく「西哲(西洋哲学科)三年不正選挙」事件だ。
西哲三年には、成岡庸治(後の革マル派全学連の委員長)と藤原隆義(革マル派政治局員の)の二人がいたから、自治会執行部としては、彼らを落とすわけに
はいかない。ところが、俺たちのクラスでは内田や橘内や今井なんかが、票読みして待ちかまえていたんだ。そしたら案の定、成岡と藤原が当選した。すぐさま
選管取り囲んで、票の公開を要求したんだよな。急を聞いて自治会室から応援が駆けつけ一発触発の状態になった。結局、彼らに代わって俺と酒井サヤカがクラ
ス委員に選出され、俺の生活が激変したんだよ。
これがなかったなら、俺の中の意識は少しも変わらなかったかもしれない。気が付いたら、まったく政治色のなかった奴が、西哲三年の声明文のタテカン書い
ていたんだよ。下宿から下宿を泊まり歩いては飲んだくれていた奴が、ビラ持ってクラスからクラスを駆けずり回り、演説してるんだよ。俺は、その頃、早稲田
短歌会に所属していて、萩原朔太郎の詩を真似したような感傷的短歌を書いてたんだけど、この闘争が契機となって、歌が変わり出したんだよ。同時に、それま
で頑なに拒否していた塚本邦雄をオピニオンとする「前衛短歌」が分かるようになった。つまり、目の前で行われた不正に対し、素朴に怒り、抗議してゆく過程
の中で、「歴史的社会的存在」というような自分に目が向くようになったんだよ。
それが一九六四年で、その年は高野にとっても非常に大きな意味を持っている年だったよな。夏の二ヶ月間、中国行ったんだよな、文革直前の…。あれから数
えて、今年でちょうど四十年。そんなことを含めて、この四十年間というのは何であったのか。
一つには、日本共産党の学生リーダーであった時代。一つには、それ以後、「インサイダー」創設から今日に至る国際ジャーナリストとしての高野。一つに
は、鴨川の「自然王国」の継承のことども。また一つには、幅広い趣味人である高野孟という男の実像、などなど。とにかく、高野にとって大きな意義をもった
一九六四年から数えて四十年目の今日、こうして元気で会えたことはなによりも嬉しい。はからずも、高野は、昭和十九年生まれだから、今年還暦を迎えた。戦
時中に生まれ、戦後の食糧難の時代から高度成長を経て二十世紀を生きてきて、いま二十一世紀を歩みだした俺たち還暦世代が、東哲(東洋哲学科)の諸君と共
に此処に再び集って、さて俺たちはこれからどんなふうに生きてゆくのか。俺たちが出来ることは何なのか。そんなことを含めて、「西東」事務局を買って出て
くれた西哲の桶本欣吾、東哲の上田保子ともども、超多忙のスケジュールの網の目を縫うように駆け付けてくれた高野に、聞いてみたい。とにかく高野孟は、国
際情報から国内政治までを広い視野に立って見下ろせる、日本の行く末を思うとき、なくてはならない日本のリーダーの一人だからね。
まあ、そのあたりの話は、おいおいしてもらうこととして、その出自から聞かせて下さい。
■アンビバレントな青春■
高野 なんで僕なんかの話がこの創刊号に相応しいのか、まだよく分からないんだけど、まあいいや。高校は早稲田の高等学院で、典型的な遊び上手のシティ
ボーイだった。その頃から、この年になるまで変わることなく、とっちらかしの人生だ。学院時代は、本職はブラスバンド。中学3年の時にルイ・マル監督の
『死刑台のエレベーター』を観てマイルス・デビスに憧れて、「トランペット買ってくれたら受験勉強してもいい」とかお袋を脅して、当時五千円くらいのヤマ
ハのトランペットを買って貰って押入に籠もって吹いた。それで学院に入って迷うことなくブラバンに入って、一年生でトランペット。そのうちソニー・ロリン
ズにかぶれて二年生でサックス。夜は新宿のキャバレーや厚木の米軍基地の将校クラブでジャズバンドのアルバイトをやって稼いでいた。初任給一万円という時
代で、一晩ラッパ吹くと千五百円くれたからね。それと、お袋が生活を支えるために自宅で英語塾を開いていて、その講師もやっていたから、その金を貯めて最
高級のセルマーっていうフランス製のアルトサックスを自分で買った。あの頃七〜八万円したのかな。
高校二年の年がちょうど六〇年安保の年だった。それで、昼間は高校ブンドの端くれで国会でデモをやって、夕方になると「ちょっとお先に失礼」と言って隊
列を離れて、新宿駅西口のドヤ街で一杯三十円の天丼掻き込んで、小荷物預り所で楽器を受け出して、迎えの米軍のカーキ色のバスで厚木基地に向かう。昼は反
安保、夜は親安保のアンビバレントな青春だったよね。それでブラバンのほうは三年生になってキャプテン兼指揮者に選ばれて、その時のマネージャー兼会計が
今角川書店社長の角川歴彦で彼はフルート、コンサートマスターがクラリネットの津田昭治で大学卒業後はクラシックギター奏者、トップ・トランペットが外山
喜雄で今ではデキシーランドジャズの第一人者、というのが幹部団だった。
福島 普通、高校三年というと受験勉強に埋没しているわけだけど、早稲田学院という学校の環境そのものが高野という男を育てたといえるかもしれないね。あ
の時代に一番遊んでるんだからからね。
高野 音楽とデモとバイトだけで十分忙しかったんだけど、あと三つ四つ、やっていたことがあって、一つは「禅研究会」に入って、文京区の白山に妙清寺と
いう曹洞宗の寺があって、毎日曜日朝五時に起きて、下北沢から新宿、水道橋経由で都電に乗って六時に着いて、掃除、読経、そして線香一本分、四十分間座禅
を組んで、それから青木鴻一師を囲んで人生論を闘わすということをやっていた。ポン女付属の女子高生も何人か来てたな。
もう一つは僕が主宰していた「ストリップ研究会」で、浅草、新宿、渋谷はもちろん船橋や鶴見まで、とにかく首都圏のすべてのストリップ劇場を撃破するこ
とを目指した。そ三つ目に、クラスでチームを作ってラグビーやアメラグをやったりして、それは今も、新宿ゴールデン街で二十一年前に結成された「ピンク・
エレファンツ」という草ラグビーチームの団長を務めているということに繋がっている。三月十九日が僕の誕生日で還暦。翌日にチームや対戦相手の仲間のチー
ムの連中が百人近く集まって、「高野団長還暦記念ラグビー大会」をやってくれて、僕も赤パンツをはいて試合に出た。四つ目には、小学校四年生から叔父に教
えられて始めた山歩きで、丹沢をホームグランドにして土日にかけて、大抵は一人で、尾根を縦走したり沢登りをしたりした。高校二年の時に一人で岸壁を上っ
ていて二十メートルぐらい滑落して、肋骨を折って失神して、死にそうになった。お袋に言うわけにいかないから、医者に行かずに直して、ラッパを吹くと痛ん
で困ったけど、それから山は余り行かなくなった。
まあいろいろだけど、その頃マルクス、レーニン、サルトルなんか読んで、どうも西洋思想だけではダメなんじゃないかとか生意気なことを考えて、鈴木大拙
も読んで、禅にも触れて、そんなことから、高等学院だから大学の学部は行こうと思えばどこでも行けるんだけど、あえて文学部の哲学科を選ぶことになるわけ
だ。
福島 しかし理工学部に行こうと思えば行けたわけだろ。
高野 まあ、頑張ればね。あの頃は理工学部の建築科が全盛で、理工に行くには二年から三年になる時に理工系クラスに入らなければならなかった。文科系では
政経学部が人気で、成績がちょっとマシな奴はみんな政経に行った。
福島 それがあえて一番易しい文学部へ行った。
高野 学院から上がるには、落第さえしなければ絶対に行けた。一学年に五百人いて、文学部志望は数人しかいないんだ。それだけで変わり者扱いだよ。なんで
お前がって、教師に言われてね。
福島 そのときからすでに高野という、多様性を含んだアイデンティティというのか、アイデンティティの多様性というのか、人間性の萌芽があった。
高野 とっちらかしだよ。
福島 よくわからないんだけど、そういう幅の広さが人間性そのものだよね。昼は反米・反安保、夜は親米・親安保というのが背中合わせで、それでいて心の中
では居直っている。分かっているんだろ。これはあくまでも稼ぐためであり、音楽のためである。音楽は芸術だから。芸術と政治と…ストリップは風俗だな。欲
望だな。あと宗教、哲学。それが一つの肉体の中に齟齬なく、対立なく、葛藤なく、当為のようにある。そう言えば、お前、目が禅坊主の目してるな。いまふと
気がついたよ。そういう目をしてるよ。目がね。
高野 それで西哲に入った。最初の一年か二年はまじめな学生だったんだよ。川原栄峰によくほめられたしね。黒板にドイツ語書いて、訳せる奴がいないと
「じゃあ高野君どうだ」と言われて答えられたりしたからね。
福島 ドイツ語教えてくれてたな。ニーチェ学者のあの川原栄峰だ。
高野 高等学院は三年間、第二外国語があって、僕はロシア語だった。そこからして変わり者だった。一学年十クラスあって七クラスがドイツ語、三クラスがフ
ランス語で、そのフランス語の三番目のクラスの端にロシア語が十数人だけいた。学園祭でゴーゴリの「検察官」の芝居をロシア語で演ったなあ。
福島 米兵と喋ってたから、英語とる必要なかったんだな。
高野 カタコトね。
福島 フランス語もやってたろ。
高野 そう、サルトルを原語で読みたくて、今で言うダブルスクールでアテネフランスにも行った。半年余りで挫折してモノにならなかったけど。毛沢東を読も
うと思って、日中学院の中国語講座にも行ったな。あれも半年だった。
福島 俺が出会ったのは戸塚一丁目にあった「あらえびす」というクラシック喫茶店でね。最初は、桶本に連れて行ってもらったんだけど、あすこはよかった。
中世の田舎の小さな教会っていう佇まいで、ゆっくり音楽聴けた。それに一人一人の席しかなかったから、喋る奴誰もいなかった。それで、高野がサルトルの
『自由への道』二巻を二日間で読んだのを覚えているんだ。つまり一日一冊を標榜して読んでたんだよ、あの頃。
高野 そうかなあ。二年の終わりか三年の初めまではそのくらいまじめだったかもしれないね。本を読むのが速いのは確かだ。
福島 俺が一ヶ月かかって読んだのを、たったの一日で読んでみせた。そういう読み方をしていたんだ、俺の前に立ち現れた高野という男は……。そうそう、
俺、塾やってたお母(高野静子)さんに一度会ったことがあるんだけど、あの人も立派な人だったよね。聞くところによると、日本橋の生まれで…。
高野 へえー、お袋に会ったのか。俺は記憶ないなあ。あれは大変な女だったよね。大正デモクラシーそのもののような人だった。僕のさっき言ったとっちらか
りシティボーイみたいなのはおふくろの影響だね。クラシック音楽が好きで、ソーシャルダンスができて、ロシア語やって、エスペラントもかじって、それで小
唄の師匠で、英語塾と並行して小唄のお弟子を四十人も持っていた…。
福島 大正モダニズムのそのままの自由な教養人だね。それが面白いんだね。
高野 戦前は中央公論の編集者だった。
福島 交友関係もすごかっただろうね。その時代に中央公論の編集者だったら。
高野 それで猪俣津南雄という早稲田の政経の花形教授で、戦前の労農派マルクス主義経済学の最高峰という人がいて、当時の中央公論とか改造とか、そういう
雑誌に切れば血が出るような文章を書きまくっていた。カナダ帰りでカナダ人の奥さん。それの担当編集者がお袋だった。よくあることで、原稿を取りに伺って
いるうちに出来ちゃって、そのカナダ人と離婚してうちのお袋と一緒になった。この人が昭和十六年だか十七年だかに亡くなっちゃうんですよ。その人がものす
ごくかっこいいハンサムで、知性に溢れたそれこそ大正デモクラシーを絵で描いたような左翼教授だったんだね。これが早稲田で、共産党結成のときに早稲田で
東京第一細胞が出来てそのキャップだった。そのすぐ下に理工学部応用化学科の学生だったうちの親父がいた。で、親父が書記長で、東大新人会で後に社会党代
議士になった黒田寿夫さんが委員長で、最初の「全学連」が出来る。その猪俣先生が亡くなって、その未亡人であるお袋と一番弟子である親父が一緒になって、
翌年俺が生まれた、こういう関係なんだよ。だから僕は、誰はばかることなく「左翼の名門」の家系と言ってるんだ。親父は高野実といって、戦後、労働運動の
総本山「総評」を結成して事務局長を務め、「昔陸軍、今総評」と言われた時代を築いた。
福島 偉い人を父親に持って、確執はなかったんかい。
高野 こういう親父というのは確かに、社会的に意義のあることをやってるに違いないけど、一体どうなんだろうと思うことはあった。親父はとにかく争議だ会
議だ何だで数ヶ月も家に帰ってこない。しかし子供好きではあって、今日は帰ってくるという時には、三軒くらい先から、「ほっほー」とか、インディアンみた
いな声を出して歩いてくる変な親父でさ。下北沢の近所でも有名で、「あら高野のお父さんが吼えてるから今日は帰ってきたのね」とか言われるくらいだった。
あるとき、おふくろが親父に向かって「あなたね、人様の賃上げのために走り回っているのは分かりますけどウチの賃上げはどうなってるんですか?」って言っ
たんだよ。これが、戦前派左翼の限界だね。俺はこれはあかんと、こういう親父の生き方は。立派なことをやっていて、家に帰ってこないときにニュースを見る
と、メーデーの集会とかにうちのお父さんが写ってるんですよ。そういえば久しく会ってないなみたいなね。それで帰ってくればおふくろがウチの賃上げは……
というようなことを言ってる。親父は「ウン」と言うだけで、それでお袋が英語と小唄を教えて生活を成り立たせていた。こういうのはまずいと。社会に向かっ
てやってることと、自分の行っていることがマッチしていないという違和感がずっとあった。
■文革前の中国で受けた衝撃■
福島 例の中国行きの話の続きだけどさ、中国の女たちは化粧をしていない。その美しさに打たれた、羽田へ帰ってきた途端に、化粧をする女の汚さに吐き気が
した、そんな話をしてくれたのを覚えているんだよ。
高野 よくそんなこと覚えてるな。その通りなんだよ。六〇年安保はいい加減だったけどやって、そのあと御多分に漏れず『されどわれらが日々』なんて読ん
で、一丁前に挫折気分に浸って、もう政治には関わらないで勉強だというのが大学の一、二年だよね。ところが三年の夏に中国に行くことになった。親父は労働
代表団ですでに何度も中国を訪れていた。しかしその頃は総評の役職も退いて、戦前に牢屋で虐待された時から始まった結核が悪化して、病院に出たり入ったり
の生活だった。それで周恩来首相、中国の労働組合の総本山である中華全国総工会の劉寧一主席から「中国で療養なさい。ご家族もご一緒にどうぞ」と、異例と
言っていいありがたいお招きを受けた。父と母は杭州の高級幹部用のリゾートホテルで静養し、僕と弟はそこにいてもしようがないから、通訳兼監視役の鄭さん
という人が付いて、北はハルピンから南は広州まで、もっぱら汽車に乗って全国を二カ月間旅行した。
福島 日中間にまだ国交がない頃だ。
高野 そう。だから、まず羽田から香港に行って一泊して、翌日汽車に乗って深セン[土偏に川]の手前まで行って、歩いて鉄橋を渡るわけです。これが国境と
いうものかと感動した。それでまた汽車に乗って広州市に着いて、そこの迎賓館でまた一泊。翌日に当時唯一の国内線の飛行機で北京に着く。北京まで三日がか
りという時代だった。それでその化粧の話なんだけど、羽田から生まれて初めて乗った飛行機がJALで、当時はスチュワーデスというのが女性なら誰もが憧れ
る花形の職業で、あの頃の言葉で「八頭身美人」そのものの女がバシッと化粧して、うっとりするほど美しい。ところが、中国に入って、広東からソ連製の軍用
機を改造したオンボロ旅客機に乗ると、軍服を着て髪をお下げに編んで、もちろん化粧なんかしていないすっぴんの服務員の少女が、JALの八頭身美人なんぞ
の十倍くらい綺麗だった。外国から来ていただいたお客様に尽くすんだという真っ直ぐな気持ちを全身で表して、目が活き活きしてきらきらしている。それ見た
だけで、「ほう、こういうことなら社会主義というのも悪くないな」と思ったんですよ。商売で巧みに作り笑いを浮かべるJALの女の資本主義、純真にお客に
尽くそうとするお下げ髪の少女の社会主義――というコントラスト。それが、再び、そして本格的に政治に回帰することになるきっかけだった。
福島 文革でグチャグチャになる前の中国に触れて、やっぱり社会主義だと。
高野 若い通訳はまじめで、弟と三人で汽車で移動するあいだじゅう、「あなたは日本でなぜ共産党に入って革命運動に加わらないんですか」と言う。僕は高校
のときブンドの末端だったから、知識としては共産党の悪口いっぱい知ってるわけ。ありったけの理由を並べて「あんな党じゃ駄目なんだ」と言い張る。彼は
「じゃあ、どうするんですか」と。「あなたの言うとおりに日本共産党が駄目だとしたら、中に入って日本共産党を変えるしかないじゃないですか。それとも社
会党ですか革マルですかブンドですか」と言うんだよ。そんなのみんな駄目だと言うと、「じゃあ、どうするんですか。革命はやらなくていいというわけです
か」と…。毎晩その繰り返しだ。
福島 驚いたね。そのくらい日本事情についての情報は持ってるんだ。
高野 そういう言い方は卑怯なんだよね。答えようがない。「じゃ、どうするんですか、何もしないんですか」と畳み掛けられると、これ逃げ場がないんだね。
福島 魚、追い込むようなもんだよな。理論闘争、つまりオルグだったわけだな。
高野 何日もずいぶん頑張ったわけ。しかし最終的に「あなたは革命に関わって生きるのか生きないのか」と言われちゃあ、後に引けないじゃないじゃないです
か。最後の日に「分かりました。じゃあ、帰ったらすぐ共産党に入ります」と言って帰ってきた。
福島 二十歳か。高野は十九年三月生まれだから、俺よりも若いんだよな。
高野 それが大きな転機ですね。もう一つ衝撃的だったのは、その旅の途上で上海の人民公社の村を訪ねた時のこと。案内に出てきた老いた農夫が片腕のない人
で、僕は何の気なしに、後で考えたら無神経極まりないことだったけれども、「その腕は、失礼ですけど、事故か何かで?」と聞いた。彼はニコニコしながら淡
々と「ああ、これですか」という感じで、恐ろしいことを口にした。「かつて日本軍がこの村にやって来て、私の妻も娘も目の前で犯されて殺されました。私が
抵抗すると、刀で斬りつけられて腕が付け根からなくなりました」と。僕は立っていられないほどショックを受けて、「ど、どうもすいません。それは日本人と
して恥ずかしいことで…」というふうなしどろもどろのことを言うのがやっとだった。すると、彼はまたニコニコして、「いや、日本の人民もまた、日本帝国主
義の被害者です。再びこういうことが起こらないように日本と中国の人民は連帯してアジアの平和のために闘わなければなりません」と。
それは、用意された模範解答だったのかもしれない。しかし僕にはそれがなおさらショックだった。普通に考えたら、日本人憎しで凝り固まるはずじゃないで
すか。民族対民族、中国人対日本人という感情的な対立図式に填り込んで不思議はない。ところが彼は、いわば理性の高みに立って、その日本人という中にまた
軍部、政府、軍国主義者という侵略戦争を推進した権力側と、それに熱狂したり騙されたり、いやいや従ったりして戦争に駆り出された国民側とがあって、そこ
にも矛盾があって、その限りでは日本国民も戦争の被害者であると認識する。そうすることで、彼は単なる憎しみの次元を乗り越えているわけだ。これはまさに
毛沢東の『矛盾論』の世界だ。矛盾こそ物事の発展の原動力である。矛盾には主要な矛盾と副次的な矛盾がある。あるいは一つの矛盾にその矛盾の主要な側面と
副次的な側面がある。あるいは矛盾には和解可能な内部矛盾と和解不能な敵対的矛盾がある。そしてそれらはその時々の局面に応じて相互に転化する…等々。日
本人総体は中国人に対して加害者である。しかし日本人の中を見れば権力側が加害者であり国民側が被害者であるという関係がある。だから日中両国人民は連帯
が可能だし、それを通じて二度とこういうことが起きないアジアを作っていくのである、と…。
凄いよね、これ。革命前は字も読めなかったであろう貧農のおじさんが、日本人への憎しみで狂い死んでもおかしくないのに、政治を学び、歴史を学び、哲学
を学んで、今こうして日本人のガキの前でニコニコと立っている。こういう人間を何億人も育ててきた中国共産党は凄い。この国では哲学が政治を動かし大衆の
心を掴んでいる。俺が教室で学んだ哲学なんてただの屁理屈だ、子供の戯れ言だ、と思った。
福島 それからもう一つ覚えているのは、戦争中に日本人兵士の中に良心を貫いて自国を裏切り中国側に協力した勇気ある者たちがいた、という話をしてくれ
た。君は、感情を余り外に表さない人なんだけど、その話をした時に涙を浮かべていた。
高野 それは覚えていないなあ。話は違うけど、僕は二年前から早稲田大学客員教授とかいって――僕が早稲田の先生ってのも笑うよね――「大隈塾」の授業と
その修了者から選抜した「インテリジェンスの技法」というゼミをやっていて、まあ情報の分析の仕方、戦略の立て方を教えているんだけど、その教科書に毛沢
東の『矛盾論』を使っている。学生が目を白黒させてるよ(笑)。そうかと思うと、「お前ら、頭でなく身体で考えろ」とか言って、鴨川に連れて行って稲刈り
をやらせたり。去年のゼミ一期生なんかみんな人生観がおかしくなっちゃった。
■熱き時代への胎動■
福島 一、二年生の頃は政治的な活動はしてなかった。それが六四年の中国行きが転機になって日共へ飛び込んだわけだ。
高野 帰国した翌日に文学部の日共の親玉らしきやつを捕まえて、「共産党へ入りたい」って言ったら、びっくらこいて。
福島 何者だと思うよね。
高野 何者かは、親父のことを含めて向こうも知っていたんだ。ただ、共産党に入るにはまず民青に入って、最低六カ月活動して、そこで試されたものが党に入
るというのが決まりだというわけだ。俺は悪いけど民青は嫌だと。当時、民青は歌って踊ってなんて言われていたじゃない。民青は飛ばして共産党に入りたい
と。入りたい動機は、中国でこういうことがあって、と。でも民青に入らなければ駄目だというんじゃあ止めたと言ったら、ちょっと待って、上部と相談するか
らということになって、結局、特例で、入党申込書と同時に一応民青の加盟書も書いてくれればいいいうことになった。入ってみたら、文学部の細胞なんて元気
がないし、アクティブなメンバーも少ない。じきに、あの頃「クラス・サークル協議会」というアンチ革マルの自治会民主化のための組織があったろう、革マル
から「クサル狂」とか言われて。あれの議長になって、またすぐに細胞の指導部に入って、一年くらい経ったら全学の指導部――早稲田大学学生総細胞委員会だ
な、そこへ行けと言われて、異例の“出世”ぶりだった。
福島 俺らの学年に相原だとかいたよな。
高野 いたな。ちょっと労働者的な、いい感じの男だったよね。あれは年もちょっと上で、学生としては古参党員だったんだよ。
福島 彼なんか非常に優しい目をしていた。俺をね、みんなでオルグるんだよ。それで君は六〇年代の後半期の動乱期を日共党員として頑張るわけだ。
高野 そう、ずっと最前線だった。
福島 矛盾はぜんぜん感じなかったか。つまり俺なんかは六五年秋の日韓闘争で両方のデモに行くと、日共のデモは嘘だってわかるわけ。そのうちに、六六年に
入って早大学費闘争が始まったときには完全に民青は駄目だと思ってたね。卒業後、六七年10・8の第一次羽田闘争。あの日は、講義が休みの日で、枚方の修
行先の寮でごろごろしてたんだ。汚れた硝子戸から、秋の陽が溢れるように射し込んでいた。いまでも、六七年というと、きまつてその情景を思い出すんだよ。
橋の上での攻防で、学生の死者(山崎博昭)が出たという報に、いたたまれなくなって、夜になるのを待って、塀を乗り越えて梅田へ飛んで行ったんだよ。曾根
崎署のあたり、激しく荒れていた。そのまま東京へ飛んで行きたかったが、とにかく情報が欲しかったので新聞を買ったりとかした。そんなことしかできなかっ
たけど。ついに、ゲバルトの地平が開かれたんだ、という実感はあった。
思い起こして、一地方の修行先の坊主までもが、震えるような想いで、時代を体験していた。六〇年代後半は、日本の戦後史で、最も突出していたと、俺は今
になって改めて思う。その状況に日共は応えられなかった。
高野 それはしょうがないよ。駄目を承知で、中国との約束で選んだから、俺だって不満がある。だけど、ものすごい文句の多い幹部だったよ、俺は。早稲田の
直接の上部組織は新宿地区委員会で、そこから無理難題を言ってくる。「今月の赤旗日曜版の拡大目標が達成できそうもないから、早稲田の学生細胞で明後日ま
でに百部やれ」とか。いつも文句を言いに行くのは俺だ。ふざけんな、と。お前ら末端党官僚の面子のために俺らを将棋の駒のように使うのは止めてくれ、と。
すると最後は決まり文句で「これは決定だ」と言って押しつける。「決定だというならやりますよ。だけどこんなことを続けていたら運動も組織もめちゃくちゃ
になる。地区のやり方はおかしいと中央委員会に上申書を書きますよ」とケツまくって。何度そんなことがあったか。中央でも有名だったからね、また高野が文
句言ってきたって。
全学指導部に行って、あの当時全学に党員が三百人いて、それほとんどダブルわけだけど民青同盟が七百人の組織の天辺に立った。そのとき以降、こんな大き
な組織は率いたことがないよ。今のうちの会社なんて社員二人だからね。二十歳かそこらで、これは大変な体験だった。若さゆえの傲慢で、自分は頭もよくて、
要領もいいし、世の中のことも何でも分かっているというつもりで、みんなを動かそうとするんだけど、思い通りにはならない。どうしてだ、俺がこんなに正し
いことを言ってるのに…と悩んだ末に、世の中、理屈じゃ動かないと思い知って、それから少しオトナになって行ったかもしれないな。人を動かすのは愛だと
知った。
福島 あの六九年安田講堂を頂点とする六〇年代後半というのは、日共が本当に革命党としての自覚に立って、歴史をよく理解し、時代や情勢を的確に見定める
目をもっていたら、つまり革命を本当に志向していたら、取れたかもわからないよね。きちっとした指導方針を立て、学生、青年労働者たちと連携してやってい
れば…。
高野 いや、だからそこで鬩ぎ合いがあったんだ。赤旗拡大と選挙の票読みをやって議会で多数を取って「民主連合政府」とやらを作るんだという、不破哲三が
後に七一年になって定式化する“人民的議会主義”路線をとる主流派に対して、我々を含めて日共系全学連や民青を率いる青年将校たちは、まず学生運動、労働
運動だ、大衆のエネルギーの爆発に身を委ねることなくして、何が選挙だ赤旗拡大だという、非主流の大衆運動派があった。
福島 宮崎学なんて出てきたよね。
高野 『突破者』ね。あれは俺のすぐ下で、法学部の細胞委員会にいた。今も仲良くしているよ。
福島 日共が武闘に切り替えたじゃないか。あれは高野なんかの指導か。
高野 いや、みんなそうだったのよ。早稲田の共産党っていうのは伝統的に武装共産党みたいなところがあってね。僕が最後まで共産党を忌み嫌ったのは、武装
闘争をやらないで、議会オンリーでやっていくという話だったから。それは違うんじゃないかと。革命なんだもん、最後は武力だよ、武闘だよと。それで中国か
ら帰ってきて早稲田の共産党幹部と話したら、それは一応、建前では世間の皆さんに向かってそう言っておかなきゃ、怖い共産党という戦前のイメージが蘇る、
本音は最後は武力に決まっているんだと説明を受けた。あ、そうだったんだ、じゃあ、というわけで入党した。だから共産党というのは全部そうだとずっと思っ
ていた。だいぶ後になって、どうもそうじゃなくて、それは綱領についての早稲田独自の解釈だということが判った。そういう下地があったから、武闘路線に切
り替えるのは早稲田が一番早かったし、徹底的にやった。その尖兵となって鬼の中隊長みたいにどこへでも突っ込んでいったのが宮崎だった。あいつは京都の会
津小鉄一家のやくざの親分の息子だから、腹の据わり方が違う。
日共中央は、他党派を「一部暴力学生」「トロツキスト」「反党分子」「反革命集団」などと呼ばわって、彼らを“敵”とみなす態度を変えない。僕らは違っ
ていて、さすがに革マルとは一緒にやる気はなかったが、三派の連中とは一緒にやるべきだと思っていたし、事実、俺なんかが連中と裏の接触パイプを持ってい
て、大事な局面では方針の摺り合わせをやっていた。というのも、まさに福島がその典型だけれども、この間までノンポリだった奴らが棒を持ってでも闘おうと
している。完全無党派の「全共闘」も台頭して、日共はもとより新左翼諸党派さえもが爆発的な大衆的エネルギーに乗り越えられそうになっている。党中央みた
いなことを言っていると、そういう大衆をみんな“敵”に回すことになって、俺たちは置いてけぼりになる。そうじゃなくて、この大衆的エネルギーの爆発の先
頭に革命党が立たなくて、どうやって責任を取るんだ、と。しかも、もうすでに軽い内ゲバは始まっていて、例えば大隈銅像前を集会場として確保していると、
他党派が棒で殴りかかってくる。どうするんだと言うと、党中央は「こっちが棒を持ったら暴力学生と同じになっちゃうから非暴力で耐えろ」と。冗談じゃない
よ、今日も前歯七本折られた党員がいるんだ、釘の付いた棒で殴られて頬に穴が開いた奴もいるんだと。あの頃はまだ鉄パイプはなかったな。そういうことも
あって、結局、党中央全体の合意でなく、当時中央の学生部長だった広谷さんという人の首を賭けた決断で「正当防衛」を理由に棒を持つことになった。ひとた
び棒を持ったら、たちまち「過剰防衛」になって、他党派に怖がられたけどね。
■バリケードの中の半年間■
福島 なるほど。それで、早稲田の日共は学費値上げ反対のストライキにはどういう立場をとってたんだ。
高野 一番初めにストライキに突っ込んだのが法学部だから。
福島 そうか、あの頃は民青の拠点が法学部だったもんな。高野の指導か?
高野 いや俺ということではなくて、学生総細胞の方針として、法学部を先頭にストライキのための全学部投票を提起して突っ込むことを決めた。それで他党派
が牛耳る他学部も、民青に負けるなということで競い合ってストライキを提起した。だから先鞭をつけたのは俺たちだった。
福島 惜しいね。日共がそこまで出たのに、逆につぶす立場に回っているような印象を与えていたね。
高野 泥沼状態になって、他党派の中には破れかぶれの玉砕路線に突き進もうとするところもあったが、僕らは勝ち取るものは勝ち取って収拾しなければ無責任
だという考えだったからね。
福島 その後に続く学園闘争の最前線にいたわけだな。大変なことじゃないか。全国に燎原の火のごとく、以後五年間、一九七二年くらいまで続いた学園闘争の
さきがけを法学部がやったわけだ。高野の指導のもとに。
高野 俺というわけじゃあないけど…。六六年一月二日に世田谷某所で長時間の総細胞委員会を開いて、ストライキ方針を決めた。その時点で俺は「これは一世
一代の大仕事だ」と覚悟してスッパリ卒業を諦めて、以後半年間、法学部のバリケードの中で暮らして、全学部を回って火を着けて歩いた。自宅の英語塾のバイ
トだけは続けていたから、その日だけ一週間に一度、家に帰って着替えて、ちゃんとした飯を食わして貰って。
福島 早大学費学館闘争は、六五年の第二学館問題に端を発し、十二月、冬休みを迎えると同時に、抜き打ち的に学費値上げが、大学当局から発表された。俺た
ちは四年生で、みんな卒論と卒業試験かかえていた。思い起こしていい時代だったよ。各学部のクラスや、サークルで、実に真摯な討論がおこなわれ、その結
果、クラスやサークルから、値上げ反対の決議が、次々となされてゆき、声明文が、タテカンや、ステッカー、ビラとなり、やがて各学部のバリケード無期限ス
トへと発展して行ったんだった。あれがなければ、そのまま卒義して企業や学校に就職する四年生が、卒業を抱えながら学習し、値上げ反対の呼び声は、教育や
大学の在り方などから、「産学協同粉砕」というテーゼに高まりをみせていったんだった。窓という窓には、ステッカーやビラが貼られ、万余の学生がクラス旗
やサークル旗をかかげ、あのシベリア寒波の風吹き荒ぶキャンパスで集会したり、デモを繰り広げたりしていたんだよな。俺に関して言えば、束の間ではあった
けど「連帯」を体験したよ。
高野 俺は全学指導部に行ってしまって、その時クラスでの活動には全く参加していないんだけど。
福島 だってそうだろ、いままで、口をきいたこともなかった連中と、連日、会議したり、アジビラ切ったり刷ったり、大学側と団交したり、バリケード補強し
たり、カンパ訴えて街頭に立ったり、教室に泊まり込んだり、レポート管理したり、すべてが初めてする体験だった。俺たちが、その後の学園闘争に引き継がれ
てゆく戦術を考え出したんだ。そして激しい政治的動乱の六〇年後半を迎えるんだよな。「産学協同粉砕」が「大学解体」へとエスカレートしていく。まあ、よ
くよく考えると、あんな矛盾ないよな。自らが学んで、月謝を払っている大学を解体させていくというさ。まさに、「自己否定」の論理だよな。ところが結局
は、解体しきれなかった。高橋和巳なんていう人は、自らを解体して若くして死んでいってしまった。
そして、俺が、惜しいと思うのは、その後の世代に対して、あの闘争を伝えることが出来なかったこと。高校生や中学生までもが蜂起し、燎原の火のように国
中にひろがっていった大学闘争で、逆に多くを学んだのは、大学当局や官憲、行政機関、国家権力の方であったという事実だ。俺、この十数年ほど、幾つかの大
学に非常勤講師で通ってるけど、いまや大学の管理体制は万全といっていい。クラスは撤廃に等しいし、学生の自治権は完全に消滅している。俺たちは、タテカ
ン乱立し、ボリューム一杯に上げたアジテーションの中で、学生生活送ったから、タテカン一つない大学は淋しすぎる。個々に話してみるとまた印象もちがうん
だけど、学生も危機感持ってないんだよな。
高野たちの戦いは、本当に惜しいことした。日共が若者のエネルギーを集めて政権を取る作戦にもっていけたら、日本はこんなふうになっていなかった。第
一、小泉なんか生まれて来ないしね。イラク派兵なんか断じてなかったろうし。日本共産党に身をおいての闘争、もう少し聞かせてくれる。
高野 学費闘争で他党派同様ボロボロになって、その後半年間は後始末だった。半年間の一日も休むことなく緊張を強いられる闘争、異常と言っていい過酷なバ
リケード生活に耐えられなくて頭がおかしくなった奴、党の金を持ったまま行方不明になった奴、公安に通じているスパイではないかと疑わざるを得ない奴、
セックスに逃避して子供が出来て堕ろす金もなくてどうしようというカップル、等々、地獄のような有様で、それを総細胞の組織担当サブキャップの俺が一つ一
つ淡々と黙々と処理した。人間の弱さをナイフでえぐりだすような、辛い仕事だった。一人一人に、限界状況の中でそうならざるを得なかった悲しい物語があ
る。しかし同情してばかりはいられないから、氷の冷徹さで処理する。なんか、普通の人の一生分くらいの人生体験をした感じだった。六七年の夏に総細胞の任
を解いて貰って、それから残りの単位いくつかを取るのと卒論を書くことに専念して、二年遅れで六八年三月に卒業した。だから六九年安田講堂の時にはもう学
生運動の現場からは離れていた。
福島 民生のあの黄色いヘルメットは誰が考えたんだ。
高野 あれは東大だろうなあ。
福島 みっともねえ。工事現場みたいでな(笑い)。
高野 どうして黄色だったのかね。後からだから、他党派に色を取られてしまって選択の余地がなかったんじゃないか。あれは評判悪かったよ、確かに。俺は一
度も被らなかったけどね。俺は、後ろでレインコートのポケットに手を突っ込んで「行け!」って言って見てるっていう立場だからさ。そうやって後ろで見てて
も、機動隊のジープの上に櫓を組んだ指揮官車ってのがあるじゃない。そこからスピーカーで「タカノー、タカノー、こんなことしていいと思ってんのかー」っ
て名指しで怒鳴られたことも何度かあった。
福島 パクられたことは一度もないの。
高野 ない。
福島 それはすごいことだね。六九年の一月だな。俺は、坊主の修行途上だったが休暇中で、吹っ切れないもの抱えたまま、連日東大通ってたよ。集会、すごい
盛り上がりだった。安田講堂前での、万余のヘルメット部隊。これから確実になにかが起こるという予感に充ちていた。渡された鉄パイプ初めて握ったよ。民青
が占拠している何号館かに、突っ込んだんだよ。
高野 その時向こう側に宮崎学がいたよ。
福島 忘れられないのは、「帝大解体」「造反有理」が門柱にでかでかと書かれた正門くぐった時だった。革マルの藤原が例の、汚れたチャコールグレーのレイ
ンコート着て歩いて来たんだよ。俺の顔見て、一瞬訝しそうに、なんでお前がこんなところにいるんだっていうふうな表情したんだよ。でもあいつ微笑していた
よ。それで静かに会釈を交わしてね。それが最後だったな、藤原とは。
高野 トラックで焼き殺された。死んだの何年かな。
福島 一九七七年四月だ。浦和で、機関誌運ぶ他の三人の仲間たちと車の中に閉じ込められて焼き殺されている。俺より三歳上だった。学生時代のイメージは、
ゲバの強い怖い男っていう感じだったけど、杜学というペンネームで政治論文ずいぶん書き捲っていたことを、彼が死んだ後に、知った。『現代日本労働運動』
二巻、なんていう分厚い著作もあるよ。なんか分からないけど俺はあいつにシンパシーを感じていたらしく、彼の死後「柘榴盃の歌」という短歌つくって、献じ
た。とにかく、彼の死は、俺にはショックだったよ。同じ学舎(まなびや)で学び、クラスから追放し、以後も戦い続けてきたのかと…。
高野 成岡は一年生の頃は岩波の雑誌『世界』なんか小脇に抱えた普通の奴で、革マルになってからも時折、話をしたが、藤原は暗めで、根っからの革マルとい
う雰囲気だった。
福島 ごめんごめん、話をもとに戻そう。それで高野は、大学はちゃんと卒業したんだ。
■ジャーナリストとしての最初の修業■
高野 ちゃんとじゃあないが、二年余計に行って、卒論は、戦前の戦闘的唯物論哲学者である戸坂潤を題材にして史的唯物論の方法論について書いた。大学院に
行ってアカデミズムの道もあるかなと思ったが、早稲田じゃロクな教授はいないし、やっぱりジャーナリズムかな、などと考えてながら戸坂潤全集を全巻読み通
した中に、アカデミズムとジャーナリズムの弁証法的関係を論じた一文があって、「哲学はジャーナリズムのものである」という一句があった。研究室に籠もっ
て頭を捻っていても何の意味もなく、哲学はジャーナル(日々の日常性)を通じて大衆のものとならなければならない、ということだ。それで、さっき言った、
毛沢東の哲学が何億という大衆の心を捉えている中国の現実が改めて頭に浮かんで、ジャーナリストの道を選んだんだ。
福島 卒業してからも党員だったのか。
高野 もちろん党員だったし、それも公然たる幹部だったから、普通の就職は出来っこない。そこで、ジャパンプレスサービスという、なかなか面白い共産党系
の通信社があって、そこに親父のツテを辿って入れて貰って、ジャーナリストとしての最初の修業をした。ジャパンプレスサービスというのは、一九五〇年代に
共同通信社もまたレッドパージの嵐に見舞われて、活動家が全部、放っぽり出された。その中の大記者連中が集まって作った梁山泊のような三十人ほどの会社
で、全員党員で中央の直轄下に置かれていた。そのすごい人たちに鍛えられて、文章を書くことを覚えたんだ。最初は、テーマを与えられて、二日も三日も徹夜
してようやく二百字詰め十枚とかの原稿を書いて、フラフラになって、部長に提出する。そうすると、サーッと読んで、何も言わないで横のゴミ箱にバサッと捨
てるんだよ。
福島 見てる前でかよ。
高野 そう。涙ジワーッだよね。それで部長が自分で原稿用紙を出して、流し読みしている間に僕が拾っているデータを頭に入れているんだろうねえ、一筆書き
みたいに、十五分くらいで書き直して、翻訳セクションに回す。ジャパンプレスは、日本のニュース、日本から見たアジアのニュースや分析を英語で出すのが主
な仕事だった。キューバのプレンサラティーナ通信社、北朝鮮の朝鮮中央通信社、北京の新華社通信社、プラハのチェコ国営通信社、ベトナム中央通信社、ジャ
ングルの中にあった南ベトナム解放通信社とかと提携があって、そこに英語で報道するわけだ。そういう仕事が最初の俺の仕事だったんだが、捨てられちゃうん
だよね、原稿が。自分でさっと書いて、何も言ってくれないんだよ。
福島 データだけ取るわけだな。
高野 それで、昼休みになって、翻訳の人のところに行って、部長の書いた原稿を借りてきて、捨てられた自分の原稿をゴミ箱から拾って、「どこが違うんか
なー」と比べるわけよ。そういう職人の徒弟制度みたいな中で、書くということの根本を叩き込まれた。だから、俺、ニュースでも日本語的なのと英語に翻訳し
やすいのと、書き分けられるし、ルポ風でも学術論文風でもエッセイ風でも短編小説風でも書ける。根本原理が分かれば後は全部応用問題だからね。そういう丁
稚奉公的な訓練の仕方は、当時はきっと共同通信社でも朝日新聞社でもやっていたんだろうが、今は全然やらないらしい。だから、てにをはもおかしいような若
い記者がけっこういるよね。
福島 その部長というのはどういう人なんだ。
高野 その会社には内信部と外信部と写真部があって、僕は日本のニュースを外に伝える内信部。部員が四〜五人、後になると六〜七人いたかな、その部長が山
田昭という人で、彼は共同通信出身ではなく国会議員秘書の時代から川端治というペンネームで日共系ジャーナリズムで活躍して、とりわけ若い党員たちにはそ
のシャ−プな情勢分析が大人気だった。僕ももちろん、節目節目に出てくる川端論文は欠かさず読んでいたけれど、ジャパンプレスに入社するについて面接して
小論文を誉めてくれた山田さんが川端さんとは露知らず、後で知って「えっ、まさか!」と驚いた。その人に原稿を捨てられながら、教わった。
福島 年齢でいうといくつぐらいでした。
高野 俺より二十歳近く上かな。
福島 それじゃあ、向こうはまだ四十歳前後だな。
高野 不破哲三や上田耕一郎なんかと同世代の人ですよ。同じ頃に東大細胞にいた。西武の堤清二もそうだ。俺の人生で本当に「師匠」と呼べるのはこの人だけ
だ。
福島 それで高野は、日共系ジャーナリズムで活躍したわけか。
高野 そう。原稿を棄てられて鍛えられて、翌年くらいから『赤旗』はじめ全学連や民青の機関紙誌、それから新日本出版社が出していた月刊誌『経済』といっ
たメディアに盛んに書きまくった。またジャパンプレスで出していた「ジャパンプレス・ウィークリー・ブレティン」という週刊ニュースレターもけっこう人気
があって、全国の青年幹部から講演の依頼もたくさんきた。二年後には共産党の理論機関誌『前衛』の巻頭論文を書いたりしてたからね。これまた異例の出世
だったと言えるな。香月徹というペンネームで、次第に師匠とセットで「川端・香月」と呼ばれて、もてはやされていた。
そのころ日共中央は不破哲三の天下で、彼は七一年に「人民的議会主義」という路線を打ち出して、その時だったかそのもうちょっと前だったか、「細胞」と
いう言い方をやめて「支部」と言い換えさせたりした。僕らはこういう方向には反対だった。人民的と形容詞が付こうが議会主義は議会主義で、つまりは大衆運
動軽視ということだ。細胞というのはそれ自体が生命力・増殖力を持つが、支部というのは上から言われたことをこなすだけで、組織論として全然違う。それ
を、「昔ながらの呼び名で、何だか恐そうに聞こえるから」という詰まらない理由で棄ててしまう。馬鹿なことだと。
一応党員としての規律というものがあるから、節度は守って、そういう中央批判は公には口にしなかったが、同じような思いのたくさん青年幹部がますます
「川端・香月」を慕うような状況が深まってきて、中央も「これは危ない」という判断を持った。「危ない」というくらいならいいんだが、宮本顕治は猜疑心の
強い独裁者タイプの男だから、「川端・香月が理論的支柱となって、全学連、民青の中央・地方の幹部が一大反党集団を形成して中央の転覆を策している」とい
う誇大妄想に陥るんだな。で、七二年七月のある日、全国一斉に数千人の青年幹部と我々いわゆる知識人が召還されて、召還じゃなくて拉致同然に連れて行かれ
たケースもあったらしいが、監禁、査問されるという、飛んでもない大事件に発展した。「新日和見主義事件」という、変な名前の事件さ。日和見主義っての
は、あそこ独特の業界用語で、右か左かどちらかへの偏向ということなんだけど、まあ左ってことなんだろうな。
■党中央に一網打尽、監禁・査問■
福島 大勢で寄ってたかって連れてったの。
高野 会社で緊急の細胞総会が開かれて、中央からわざわざ上田耕一郎がお出ましになった。そこで川端、香月は党の路線に忠実ではないと。まあ半分は事実な
んだけど、あることないこと言われて吊し上げだ。そりゃあ何から何まで中央と一致しているわけじゃあないけれど、そんなことはあって当たり前で、問題は中
央を誹謗するようなことを言って回ったとか党規に違反する言動があったかなかったかということでしょうに、というようなやりとりが何時間も続いた。それが
終わって、上田が川端氏と僕を物陰に呼んで、「この文書を受け取り次第、直ちに党本部に出頭せよ」という召喚状を示して、今から一緒に代々木に行くからと
言う。それで、会社は有楽町だったんだけど、国電に乗って、三人で黙って吊革に掴まって、代々木の党本部まで行って、そのまま一週間、監禁だ。
福島 そういうとこだけは、ちゃんと戦前の遺産を蓄積してるんだ
高野 そうそう、宮本顕治がリンチ殺人事件を引き起こしたあの体質がちゃんと残っている。今になれば面白い体験だったと言えるけど、その時は殺されるかな
と思ったね。それで、部屋から連れ出されて、最初の尋問で、まず身体検査。持ってた鞄、住所録、ノート、日記帳、読書ノートなどすべて没収されて、トイレ
に行くのも、大きいほうをするのもドアを開けたままやれと。便秘になっちゃうよ。風呂も一週間に二回入れてもらったけど、それも監視役と一緒に入る。寝る
のも隣にそいつがいる。
福島 そりゃそうだ。首でも括られたら大ごとだ。党がつぶれちゃうもんな。しかし大変な目に遭ったな。まだ二十五、六才じゃねえか。
高野 二十八歳かな。で、最初に言われたのは、「川端は昨年ピョンヤンに行ったろう」と。ええ、行きましたよ、朝鮮中央通信社との契約の交渉がありました
からと。「その時ピョンヤンから金を持って帰ってきただろう」。そりゃあ契約に行ったんだからそういうこともあったかもしれませんが、私のようなペーペー
はそういう経営問題にはタッチしていないので…。何を問題にしているのか最初は分からなかったんだが、査問官が言っていること繋ぎ合わせると、結局、「川
端は北朝鮮から資金提供を受けて、日共中央転覆のための分派組織を作っているのではないか」という嫌疑が降りかかっているらしい。何を言っているんです
か。そんなの荒唐無稽としか言いようがないじゃないですか。そりゃあ川端さんも私も、中央とは意見の違う部分もあるけれども、だからと言って中央を公然と
批判したことなどないし、節度をもって発言したり執筆したりしているじゃないですかと。すると向こうは、いや、お前は何月何日、民青の誰某と新橋でシャブ
シャブを食って酒を飲んで、その時に中央の誰某は警察のスパイではないかという話をしただろうとかいう話が持ち出される。ああ、シャブシャブは食いました
がそんな話が出たかどうかは記憶にありません。「とぼけるな!」と机を叩いて、「相手の誰某はもう白状しているんだ。お前だけ白を切ったって駄目なんだ」
と怒鳴りつけられる。内心、あ〜あ、彼奴は何でそんなことしゃべっちゃんだ、口実に使われるに決まっているじゃないかと思いつつ、神経的にどんどん磨り
減っていく。そういうことが毎日、朝から夜中まで、断続的に続けられるわけ。
そりゃあ俺は入党した時から、いや入党する前からだけど、党の路線や体質に批判はあるけれども、それでも本当に命がけで革命をやろうと思って、節度を守
りつつぎりぎりの線で発言を続けて、それは少しでもこの党をまともな革命党に変えることが自分の使命だし中国との約束だと思って、全身全霊、二十四時間、
革命のために捧げてきたわけじゃない。それをさ、「北朝鮮から金貰ってやってるんじゃないか」みたいなこと言われて、しかもお前の友達はもう吐いたぞとか
言われて、犯罪者扱いだ。人間不信、絶望の極に落とし込められて、人格的にぐじゃぐじゃにされてしまう。俺は経験ないけど、検察の取調べというのがこうい
うふうなものらしい。よくエリートほど取り調べに弱いと言うじゃない。人間としての基本的なプライドを叩き潰していくのね。そうすると、もうどうでもい
い。全部私がやったことにしてくださいってことになっちゃう。冤罪というのはそうやって起こる。ああこういうことなんだなと思った。
でも俺は立ち直りが早いからね。最初の一日で、まあ殺されることはなさそうだと判ったし、掛けられている嫌疑が余りに荒唐無稽なので「こりゃあ向こうの
負けだな」という見通しが立ったので、腹が据わった。それで、監禁されていた部屋の隣に小さな図書室があって、白土三平の『カムイ伝』の単行本が全巻揃っ
ていたので、持ち出して枕元に置いて、査問の間の時間はそれを読んで過ごした。
福島 それで結局どうなったんだ。
高野 結局、北朝鮮から金貰ってどうしたという話は二日くらいで消えた。さすがに錯覚だったと判ったんでしょう。誤認逮捕だよ。で、次には、僕が過去数年
間に日共系メディアで書いたものを全部コピーして山ほど持ってきて、一行一行、お前、ここでこういうこと書いている、こっちではこういうことも書いてい
て、これは中央の路線とは違うとか言う。違うかもしれないが、中央が間違っているとか批判がましいことは一言も言っていないでしょうにと。それは一人一
人、人間なのだから、考えが違うということはあるし、まして僕はジャーナリストなのだから表現の手法や言葉遣いに個性があって当然でしょう。違う考えを
持ったら反革命だというなら、スターリン時代の恐怖政治と同じでしょう、と。
あのね、とそこでもまた毛沢東を持ち出した。あなたがた党中央が学習文献として読むように勧めた中に毛沢東の『実践論・矛盾論』がありますが、それによ
ると、矛盾こそ物事の発展の原動力ですよね。矛盾を恐れたら党の発展はないのですよ。私と中央との間に矛盾が存在するのは認めましょう。しかしそれは内部
矛盾として処理すべきことであって、つまり建設的な議論を通じて解決可能な性格の矛盾であるという共通認識に立って発展的に解消していくべきことでしょ
う。ちょっとでも意見が違ったら反革命だというのでは、本来は内部矛盾として対処すべきことをいきなり敵対矛盾に押しやることになってしまう。大体、一行
一句、中央と同じでないといけないなら、中央の公式文書しか要らないということになって、それではソ連と一緒じゃないですか――みたいなことを言ってさ。
あなた、本当に私が反革命だと思うなら私を除名してくださいって言ったら、向こうは困って、最後は「いや、除名に足る理由はない」と。「しかしこういう事
件を起こしたのだから自己批判文を提出しなさい」と言う。俺は事件なんか起こしていないよ、あんたたちが荒唐無稽な幻覚に囚われて大事にしちゃったんじゃ
ないか。でも、自己批判を書かないと出さないと言うから、「誤解を与えるような言動があったことは反省している。しかし中央のこういうやりかたはおかし
い」というような、全然自己批判になっていないような文章を書いた。
向こうはまた困って、出来れば自発的に離党して欲しいようなニュアンスのことを匂わせる。俺はもう、こんな党は駄目だ、まかり間違ってこんな奴らに権力
を持たせたら日本は闇だと、その数日間に確信を持つに至っていたが、こうなったら意地だからね、私は党を辞めませんと宣言した。それで一週間目に釈放され
た。
その頃親父が生きていて、親父は戦前の共産党を知ってるから、息子が殺されるかもしれないと本気で心配したらしい。収監されて三日くらいして代々木に電
話して「何をやっているんだ。息子を返せ。人権擁護委員会に提訴するぞ」と怒鳴りつけたという話を後から聞いた。それも多少は効いたのかもしれないが、基
本的には容疑不十分で不起訴ということだった。
でも、本当のことを言うと、宮本顕治の判断は正しかったんだ。あのまま放っておいたら、俺たちは共産党を乗っ取っていたかもしれないんだ。それがうまく
行っていれば、今頃俺は委員長か何かに収まっていたかもしれない(笑)。
福島 ちょっと惜しかったな。君らが日共を取っていたら、日本はこんなふうになっていなかったかもしれない。世界の情勢も変わっていたかもしれない。結
局、六〇年代のあの青年たちが命を賭して世の中を変えようとしたエネルギーを吸収することに、日共はそうやって失敗したわけだ。
高野 だから、僕が入党した時から潜在していた矛盾が、六〇年代後半の盛り上がりの中で武闘か否かという形で拡大し顕在化して、七〇年代に入ってこういう
悲劇的な結末に達したということだよね。そしてそこから共産党の長期衰弱というか堕落の一途だな、それが始まったんだ。
福島 六四年に中国に行ったことで始まった嵐のような八年間の革命家人生がそこで一段落したわけだ。でも、釈放されてからもまだ党員を続けたのか。
高野 ジャパンプレスの会社を首になって、失業保険を貰う手続きをして、中央直属のジャパンプレス細胞の籍も失うわけだから、居住地の池袋の地域の細胞に
転籍届を出した。ところがこの書類がいつまで経っても豊島地区委員会に届かない。行方不明になるわけよ。豊島に何度聞いても「まだ届かない。調べてみま
す」と言うけれどもなしのつぶて。中央委員会に聞くと「こちらではちゃんと手続きしているはずだが」と言う。汚いんだよ、やることが。それで何年か過ぎ
て、党費未納につき除籍だな。卑怯なやり方だ。
福島 荒れただろう。
高野 荒れるということはなかったな。八年間、全力を挙げてやって、いいところまで行って、これで中国の工作員の鄭さんとの約束も果たしたな、とサバサバ
した気分だった。うちの女房も「こんな仕打ちを受けて何で平気でいられるの?」とびっくりしてたけど。その鄭さんとは後に、八三年だったかな、北京で再会
した。彼は中国の労働組合の総本山である総工会本部の紅衛兵の隊長となって「造反有理」を叫んで文革を闘ってボロボロになって、しかし何とか生き残って、
総工会の国際部の大幹部に収まっていた。さすが日本通だからね、俺が日共にどんな目に遭わされたかも知っていた。「あれから二十年、お互いに大変でした
ね」と手を握り合ったよ。
福島 文革では二千万人くらい殺されてるからな。
高野 生き残るだけでも大変だったろう。
福島 俺、去年、京都であった日中の作家や研究者によるシンポジウムに出たんだけど、向こうから来た作家が、二千万人とも三千万人とも言われていると言っ
ていた。
高野 すごいよね。俺たちなんか軽いもんだよ。
福島 日共を出て、新党を作るという気持はなかったの。
高野 その前例はその前にたくさんあるわけだよ。ソ連派あり、中国派あり、何とか派あり。みんな悲惨なことになっていったのを見てるからね。新日和見主義
事件の数千人の幹部はほとんど党に残ったんだよ。後からやっぱり駄目と絶望して辞める人はいっぱいいたけど。
福島 惜しかったね。七〇年代を称して誰かが「零からの遺産」ていったけど、六〇年代後半の潰滅戦で、それこそ戦前からの遺産をすべて食いつぶしちゃった
んだな。一方で日共はその有様で、他方では新左翼諸党派による内ゲバが始まった。肉親兄弟間の争いが根が深いのと同じで、あれはもったいないよ。あんな損
失はないよ。学園闘争も下火になって、それでも何かがまだ燻り続けていた。俺は、あの頃、沼津の郊外、愛鷹山麓の村の無住の寺にいて、小学校の産休補助教
員をやっていた。だけど、なんかまだいたたまれない気持があって、よく学校抜け出して上京した。沖縄奪還の集会出て、デモに添って歩道を歩くんだよ。そし
て、ばっと飛び出してゆく。「坊さん」って、よく、私服に声かけられたよ。日本の公安はたいしたものだ。デモに出るぐらいで、なにも運動していない、田舎
の寺の坊さんまで調べあげてるのかな、って。
高野 いや頭が坊主でそんなところウロウロしたら目立つよ。
福島 新宿の酒場なんかに行くと、教室が新宿へ移動してきたっていう感じで、まだまだ時代は興奮してたよね。でもそれが、七二年二月の連合赤軍浅間山荘事
件で、一気に何もかも終わって行くんだな…。
■コピーライター、そして再びジャーナリストへ■
福島 それで飯はどうやって食っていたんだ。
高野 学生運動時代の同志がたまたま広告・編集プロダクションの会社をやっていて、気の毒がって「俺んとこで暫く草鞋を脱げや」と拾ってくれた。昨日まで
共産党の機関誌に論文書いていたのが、今日からは食品会社のPR誌の編集だよ。石油会社の地域コミュニティー戦略の立案とか、自民党の参議院全国区候補の
選挙キャンペーン計画とかのプランナー兼コピーライターもやって、高給をはんだ。
福島 しかしそんなの簡単だったでしょう。
高野 はっきり言って簡単だった。さっきも言ったように、文章を書くということの根本を叩き込まれていたから、PR誌編集者でもコピーライターでも何で
も、酒を飲みながら出来ちゃうんだ。単なる職人としてね。
福島 そうやって高野孟という男は培われてきたんだ。日共相手に闘って追い払われて、それで今度はモノ売るための資本主義経済の下請けみたいな広告。全然
違うことだよね、やってることがね。桶本はその頃何やってたんだ。
高野 電通でしょう。
桶本 誰かが書いてくれたものを自分で書いたふりをして、広告にしていた。
福島 上田さんは何をしてたんだ。
上田 何もしてない。セールスプロモーション。
高野 電通とは仕事の上ですいぶん競合していたからね。漁業会社の缶詰とレトルト食品のセールスプロモーション計画を作ったときは、競合相手は電通だった
な。
福島 話変わるけど、結婚はいつしたんだ。
高野 六八年、僕が二年遅れで卒業し、彼女が同じ昭和十九年の遅生まれで一浪して入ってノーマルに卒業しているから、結果的に一緒に卒業で、その秋には結
婚しちゃった。彼女は教育学部の共産党員だった。
福島 いままだ続いてる。
高野 続いてるさ。もう三十六年だ。
福島 彼女は日共ではどういう立場の人だったの。
高野 お父さんが福島県の四倉という町の名家の出の医者で、共産党のシンパだった。後に東京に出てきて、そのお嬢様である彼女はお茶の水の高校から早稲田
に入って、恐らく親父の影響があったんだろう、民青に入った。僕は全学指導部で、教育学部にもよく指導に入っていて、そのうち親しくなったというわけだ。
福島 子供はいるのか。
高野 娘が二人ね。ジャパンプレスを放り出された時は、娘が一歳と二歳だ。それで失業だから、まあ女房は泣いたよね。普通だったら逃げられているよ。
福島 だけど、広告会社に入っていい給料取るようになった。
高野 うん、急にいい給料取るようになった。コピーライター然として、それまで何万だったのが、十何万だからね。でも三年くらいやったら飽きちゃって、
やっぱりジャーナリズムに戻ろうかなと考えていた時に、一緒にジャパンプレスから追い出された師匠の川端治が。その頃は山川暁夫というペンネームで雑誌な
どに評論を書く一方、七四年春からは、手書き原稿をコピーした全く個人的なニュースレター『MAPP(軍事・政治展望)』を不定期に出していたんだが、七
五年夏の暑い日に赤坂の喫茶店で会った時に、それをもっと本格的なニュースレターとして刊行したいと思ってるんだと言う。僕は「分かりました」と。「明
日、会社を辞めて馳せ参じます」と。それで再び失業保険生活をしながらニュースレター創刊の準備を手伝うと同時に、フリーランス・ジャーナリストとして活
動を始めた。
福島 その思い切りがすごいね。
高野 また無一文で、失業保険だ。
福島 やっぱり親父の血を引いてるね。
高野 それで『インサイダー』という会員制ニュースレターを七五年十月に創刊した。師匠が借りていた赤坂の裏手の小さなアパートでね。始まるわけです。師
匠が原稿を書いて、僕も一部書いて、それを僕が広告プロダクションにいて身につけた技術でレイアウトして写植に出して印刷して、それを二人で、浪人の傘張
りという風情で、折りたたんで封筒に入れて、赤坂郵便局まで運んで発送した。最初は二百部くらいだったかな。月二回刊で一部年間二万円、アパートの家賃と
印刷・郵送代がやっと賄えるくらいで、飯は食えない。それで、雑誌に原稿を書いて糊口を凌いで、インサイダーを支えた。
あの頃、総会屋雑誌というものがいろいろあって、『現代の眼』とか『状況』とか『月刊日本』とか、総会屋が雑誌を持ってる。編集部はみんな学生運動崩れ
で、けっこう勇ましいことを書いていて、僕らみたいなのも使ってくれるわけ。原稿料は安いけれど、それでも駆け出しのフリーの書き手にとっては有り難かっ
たし、そういうところで真面目に書いていると、僕の場合だと『週刊エコノミスト』とか『朝日ジャーナル』とか、メジャーなところからお声がかかるきっかけ
になった。そこが貧しいフリーライターにとって登竜門だったわけだ。
福島 『構造』っていうのもあった。あとは『伝統と現代』、『流動』、『新評』というのもあった。俺なんかも、あの頃、ずいぶん原稿の依頼があって助かっ
たもんだよ。あれみんな総会屋の雑誌だったね、考えてみれば。
高野 総会屋にとっては、企業から広告を頂く媒体を持っていることだけが大事なんで、編集の中身はどうでもいいわけ。と言うか、むしろハードな方が脅しに
なる。銀行に行って、「うちの編集部は元左翼の大物がごろごろしていて元気がいいものですから、どうしてもこの件を記事にすると言い張って、まあ今は私が
抑えているんですがね」みたいなことを言うと、また広告料が増えるという仕掛けだ。後に商法改正で、広告料名目で総会屋に金を渡すことも禁止になって、十
も二十もあったその手の雑誌がいっぺんに潰れた。
福島 僕らは学生時代、コーリン・ウイルソンの『アウトサイダー』はよく読んだけど、『インサイダー』というのはどういうの。
高野 アウトサイダーの逆よ。アウトサイダーと称したら、現実そのままで何も面白くないから、逆を取って、内部者、もしくは内部情報に詳しい者という意味
で『インサイダー』でいこうと。実際、政治でも経済でも内部情報を集めるコネクションは一杯持っていたからね。それを始める前に、俺は研究したんだ。アメ
リカではニュースレターというものが一つの産業として成り立っている。相場を当てるので有名な証券アナリストがウォール街のビルに小さな事務所を持って秘
書を一人だけ置いて、「ジョンズ・レポート」といった個人的な週刊レターを顧客の投資家に送って年間百万円取るとか、国防総省を退官した元高官が「ディ
フェンス・アナリシス」というレターを出して、アメリカ製の武器を買うサウジアラビアの王様とかが年に三百万円で購読するとか、当時で一兆円とも言われる
ニュースレター・ビジネス市場が存在していた。そういうものを日本でも作ろうじゃないかと。雑誌を創刊するのは大変だけれど、ニュースレターならコピー機
一台あれば出来るというコストの問題ももちろんある。そうやって、金はなく組織もないが志だけはあるというジャーナリストが、自分たちで自前のメディアを
持って発信を始める、それは一つのささやかな実験だった。
福島 くどいようだけど、日共も惜しい人材をなくしたものだね。これだけの能力のある人材を使い切れないというのは愚かだな。
■田原総一朗との出会い■
高野 七五年十月にナンバー・ゼロを出して始めて、年が明けて二月にアメリカ議会で「ロッキード事件」が爆発した。田中角栄、児玉誉士夫、小佐野賢治、
CIA、秘密代理人、アラブの武器商人、日銀ダイヤモンド、M資金、…戦後史の謎のすべてがさらけ出されていくような大事件となって日本が揺れた。創刊間
もないインサイダーは、この手のことがまさに得意分野だったから、嵐のように書きまくり、そのためインサイダーの存在はあまねく知れ渡り、そしてその赤坂
の小さな事務所の四畳半の座敷には、夜な夜なマスコミ各社の第一線記者や週刊誌の編集者やフリーライターが集まって情報を交換し分析を闘わせて、会社や立
場の違いを超えた一大共同戦線が形成されたんだ。日本のジャーナリズム史でも空前絶後かもしれない画期的な状況が生まれ、間違いなくそのセンターの一つは
インサイダーだった。そうやって周辺に集った人の輪の中に、東京12チャンネルの腕っこきディレクターだった田原総一朗もいたんだ。
福島 充実したジャーナリスト生活だったんだな。
高野 充実した、躍動するような毎日だったけれど、生活的には大変だった。今月は何とか凌いだが来月はどうしよう、というような。そういう時、ロッキード
事件が田中角栄逮捕で一段落した七六年の夏の暑い日、ある会合が終わった後に田原さんが僕を誘って喫茶店に行き、「実は、12チャンネルを辞めて、これか
らは活字一本でやっていきたい。ついては、文藝春秋や週刊ポストなどの雑誌で大型の取材企画の話がいくつかあるので、君が誰か若い人を二人ほど連れて“取
材班”を作ってくれないか」と言う。
田原さんは、昭和九年生まれ、僕より丁度十歳上の早稲田の国文科出身で、文学青年で同人誌に書いたりしていたが、その頃に大江健三郎がデビューして、
「あ、これはかなわないや」と思って文学を諦めて、映像に行こうと思って岩波映画に入って、「微生物の話」とか、昔よく小学校の校庭で夜、上映会があっ
て、見ただろう、そういう映画作ってたんだよ。
福島 元々、映像屋さんなんだね。
高野 そう。そのうち12チャンネルが設立されて、テレビのディレクター募集に応募して入った。それで六〇年代後半は『ドキュメンタリー青春』シリーズで
若者群像を描いて一世風靡した。当時、全国の全共闘で引っ張りだこだった日活ロマンポルノの白川和子を追いかけたり、立松和平たちが大隈小講堂からピアノ
を盗み出して、山下洋輔を連れてきての気の狂ったようなジャズ・コンサートをやらせて撮ったり、まあ血が出るような鮮やかさで時代の空気を抉っていた。し
かし七〇年代に入って時代が沈潜し始めるとともに、彼も社内で浮いて、仕事がしにくくなって、仕方なく原発問題の現場を描いたドキュメンタリー小説『原子
力戦争』を書いて、評判になったりしていた。それで思い切って活字世界に転身しようという話だった。僕は食うや食わずの頃だから、一も二もなく有り難くお
受けして、第一期田原取材チームを結成したんだ。
福島 田原総一朗ってそういう男なのか。
高野 あ、そうだ、ピアノ盗み出しの張本人は、福島も知っている彦由常弘だよ。俺は党派が違うから喧嘩相手だったけど、その後もずっと、彼が死ぬまで付き
合った。
福島 あいつもテレビの世界に行って自分で会社作って頑張っていたけど、死んじゃったな。頭脳明晰で、行動力あって素晴らしい奴だった。
高野 剣道の達人で、熱い男だった。田原さんも彼をかわいがっていたよ。それで、田原取材班が出来て、『文藝春秋』その他で次々に大型企画を飛ばした。例
えば「国際通貨マフィア」というテーマで三カ月間、海外も含めて取材して、文春の中に「田原部屋」が出来てそこに寝泊まりしたりしながら仕事をして、何よ
り有り難かったのはその三カ月なら三カ月の間、ギャラが保証されて食う心配がないことだった。取材費も前払いで出してくれてから、一杯飲むくらいには事欠
かなくなって、田原様々だった。
取材チームは三人で、一人は元東大教養全共闘の議長で、ほら「昭和史の記録」とかいう本を見ると、大衆団交で総長を取り囲んで、総長の鼻先に人差し指突
きつけて糾弾している写真があるだろう、あいつだ。佐世保エンプラ闘争で捕まって、その頃まだ裁判を抱えながら週刊ポストの下請け記者をやっていた。もう
一人は横浜国大の中核派にいて三里塚で暴れて十九歳なのに府中刑務所にブチ込まれた凶悪犯で、こいつもやっぱり週刊ポストで禄を食んでいた。これは田原さ
んが自分で言ったり書いたりしているから言ってもかまわないと思うけど、田原さんはさっぱり分からないわけよ、国際通貨とか言っても。取材班のほうが良く
分かっていたり、分かりが早かったりするわけよ。それで、田原さん、こうですよとか言いながら…三年くらいやったかな。田原さんが仕事のし過ぎで、突然、
漢字が読めなくなる、あれは何なのか、一種の失語症に陥って、僕が二カ月間ほど代筆を務めたこともあった。
福島 要するに情報を集めて取材をして、それをデータ原稿に纏めて田原さんに渡すと、彼はそれをうまく拾いながら自分の感性でこなして自分の調子で書いて
いくわけだな。
高野 そうそう。当時、隣は「立花隆部屋」で、そこでも同じような方式でやっていた。文藝春秋という雑誌が百万部近くまで伸びて全盛の時代だったから、そ
うやって生きのいい書き手を取材班ごと囲い込んで、好きなように仕事をさせていた良き時代だった。今の雑誌界の状況では考えられないけどね。月刊誌はみな
赤字、週刊誌はもっと刺激的なヌード写真を出すことに血眼だ。
そうやって田原さんの手助けを何年かやっていく中で、文春はじめあちこちの編集者から「高野君、そろそろ一本立ちで書いてみるか」と声をかけて頂くこと
になるのは自然の流れだ。それで段々自分の名前で書くようになって…だから田原さんには足を向けて寝られないんだ。
福島 テレビに出るのも田原さんの関わりからだろう。
高野 レギュラーで出して貰うようになったのは、十六、七年前からで、田原さんのお声掛かりだった。それ以前も、例えば僕の“出世作”とも言える『入門・
世界地図の読み方』(日本実業出版社――その新版が今は講談社現代新書から出ている)が八三年に出てその後十年近くにわたって十数万部売れるロングセラー
になったんだが、それを中村敦夫、木枯紋次郎だ、今は参議院議員だ、彼が当時TBSで『地球発22時』という週一回一時間の硬派の情報番組をやっていて、
そこで二回続きで取り上げてくれたり、散発的にはけっこう出ていた。八七年ころから田原さんが再びテレビに興味を持ち始めて、十六年前から『朝まで生テレ
ビ』、十五年前から『サンデー・プロジェクト』が始まるんだが、それらの企画や取材を手伝う一方、レギュラーもしくは準レギュラーとして画面にも出るよう
になった。
福島 それで『インサイダー』はどうなったのよ。
高野 『インサイダー』は、その間も、今も、ひたすら地味にやってる。七五年秋に始まって、四年経った七九年の暮れに師匠の山川暁夫こと川端治が「もう
疲れた。もう止める」と。そりゃあそうだ。持ち出しでいつまで続くわけがない。それで、田原さん、後に経済評論家として有名になる長谷川慶太郎、共同通信
の大記者だった斎藤茂男、社会党の大物で親父の親友だった岡田春夫といった支援者が一同に会して、どうしようかということになり、結局、高野が引き継ぐけ
れども、ボランティアじゃあ長続きしないから、その人たちがみんな出資して株式会社を作って、僕が社長をやって、ビジネスとして成り立つよう頑張るという
ことになった。僕も銀行で二百万円借りて最大株主になった。山川さんは、自分が引くと同時にインサイダーそのものを終わらせたかったようで、僕に「君はこ
んなしんどいものを引き受けなくとも、文春その他で書きまくって、田原や立花のような花形ライターになって稼いでいく道がもう開かれているんだから、そっ
ちに進めばいいじゃないか」と言う。それはそうなんだけど、僕には、短い経験から、メディアというものの残酷さが見えていた。いくら花形とか言ったって所
詮は下請け臨時工だからね。書き手がこういうテーマで書きたい、このテーマで書くならここまで書きたいと言っても、それはやっぱり文春には文春の、中公に
は中公のカラーも、編集の都合も、編集長や担当者の趣味も、あるわけじゃない。そういう中では結局のところ巨大メディアというものの都合の範囲でしか自己
表現できない。それは当たり前の話だけど、そういうことを身に迫って何度も繰り返すうちに、問題意識のある奴ほど悩んで、終いには壊れてしまう。さっき
言った第一期取材班の東大全共闘の奴も、後に書きたいことと、飯を食って妻子を養うためにくだらない記事を書き殴らなければならないこととの狭間でついに
切れちゃって、突然失踪した。俺たち仲間が探して探して、その間、奥さんと子供を支援して、三年経ってようやく見つかって、どうしたんだと言うと、「歌舞
伎町のサウナでボイラーマンやってた」と。別の週刊誌のフリー記者でインサイダーの事務所に机を置かしてやっていた奴は、やはり悩んで、お茶の水の眼鏡橋
から飛び込み自殺をした。警察が来て「お前らがいじめたんじゃないか」と尋問されて大変な目に遭った。死屍累々なんだ。
そうすると、文春やテレビやその他の大メディアに出て自分の主張を何万人か何百万人かに伝えることは大事だけれども、それはメディアの都合と妥協したり
しながら、隙間を縫ってゲリラ戦としてやることであって、そのためには、そこから出撃してそこへと撤退してくることの出来る自分の場所を持っていること
が、心身のバランスを保って壊れちゃわないようにするためにどうしても必要だと。だから、「山川さん、僕のようなものが引き継ぐのはご不満でしょうが、あ
くまでインサイダーを続けながら、そこからたまに打って出て、また帰って来るというスタイルでやっていきたい」と言って許しを得たんだ。
福島 今は電子メール配信だそうだね。俺、一回も読んだことないんだけど、枚数にするとどのくらいなの。
高野 二〇〇〇年末までは月二回の印刷版で標準がA4変形八ページ、原稿の量にすると一回が四百字詰めで三十五枚くらいかな。年に五十回で千七百五十枚、
僕が引き受けた八〇年二月から今日まで二十四年間で四万枚というところか。ほとんど一人で書いた。今は電子メールになって、不定期。長さも頻度も何も僕の
気分次第だが、分量的には前と同じようなものだろう。
福島 本一冊は、三百枚あれば仕上がるから、本に換算すると、百四十冊っていうことか。それは凄いや。
高野 現代史の同時進行ドキュメントだ。自分でもよく書いたものだと感心するよ。
福島 そういう情報源を得るためにはどうしているんだ。つまり田原さんのような人でも高野を必要にしたというのは、情報力のためだろう。
高野 それは一言でいって人脈ネットワークだ。長年やってきて、金はまったく残らない。貯金ってないからね。けれども残ったものは人脈という大変な資産
だ。役所の係長クラスの時に知り合った奴が事務次官を経て退官して、どこぞの総裁に収まっていたりするという付き合いだからね。
福島 もう三十年になるんだね。その間に培ってきたものが生きていて、たとえばイラクで何かが起こったとなると…。
高野 その場合、あいつとあいつに聞けば、この分野に関して最高レベルの情報と判断が得られるということだ。それは長年に亘って試された個人的な信頼関係
に裏付けられているから、極端な場合、電話で「今日の『サンケイ』見た?」「ああ、あれはガセだよ」「そうだろうな」で済んでしまう。他人が聞けば禅問答
のようだろうけど、それで十分なんだ。そういう関係が内外に何百人となくある。インターネットで便利になったのは確かだが、会って話して酒飲んで、喧嘩も
して、ということがないと本当の人の繋がりは出来ない。今の若い人はそこが心配だね。何でもインターネットと携帯メールで事が済むと思っているようなとこ
ろがあるよね。
福島 まだメールなんかない頃に『インサイダー』は始めたわけだろう。そういうときの苦労と比べたら、今はすいぶん楽になった。
高野 始めた頃はファックスもそう普及していなかったんじゃないか。でもワープロ、パソコンは二十年以上前から導入して、ジャーナリストの世界ではたぶん
一番早かったろう。未だに原理はよく知らないが、大抵の故障は自分で直すからね。それで、八〇年代半ばに日本で初めてパソコン通信というものが登場した時
も、真っ先にそれをメディアとして使えないか、アスキーネットと提携して実験もしてみたし、同じ頃には英語版を出して、しかしこれは二千万円くらい赤字を
残して撤退した。九〇年代半ばにインターネットが一般解禁になった時も、NHKの会長を辞めてブラブラしていた島桂次さんと二人で会社を設立して、日本で
最初の硬派のインターネット週刊誌『東京万華鏡』を英語と日本語で創刊したりもした。それもすべて、金も組織もない個人がいかにして“発信者”となりうる
かという試行錯誤だった。
■社会を動かす根本は哲学だ■
福島 ところで六〇年代というのは、西暦でしか語れない。一つには、六〇年安保に引き続き、七〇年安保が軸としてあったからだと思う。七〇年代も西暦で頭
の中で整理して一つのイメージが出来ている。ところが、ソ連邦の崩壊、ベルリンの壁と、世界史的規模で時代は激しくうねってゆくのに、八〇年代以降には、
なんら感慨がない。自己の個人史にまつわることでさえ、西暦では整理できなくなにってしまっている。何がなんだかわからなくなってしまって、そのうちに昭
和が終わり、平成になった。二十世紀という時代も幕を降ろし、なにやらきな臭い二十一世紀の幕が切って降ろされた。
いま俺、『正論』という雑誌に「祖国よ!」という連載を持ってるんだよ。人気があるらしくて、もう四十回以上続いている。産経新聞の雑誌に書いてるもん
だから、福島は右翼になったなんて言う人いるみたいだけど、まあ、そんなことはともかく、いましみじみ思うのは、戦前の人たち、日本人というのはとても善
きもの、麗しきものをもっていたじゃないか。礼節ということ一つとったにしてもだ。お天道様や、世間の人々といった他者をつねに念頭にもって、自身を磨い
たと思うんだよ。損得じゃあなくって。たとえば職人だけどね。職人は金になるからではなくって、職人であることの誇りにかけて腕を磨くことに専念するんだ
よ。だから、俺たちの親爺なんかもみんな頑固一徹だったよ。明治維新だとか、近代だとか、そんな時代の動きとは別に、縦に繋がった日本人の歴史があったと
思うんだよ。だからこそ、鎖国時代の江戸期に、西欧も真似できないような都市文化が生まれ育っている。父親から息子へ、母親から娘へ、親方から徒弟へと
いった縦文化が昭和二十年八月までは、存在していたのではないのか。
それを全部、アメリカの戦後政策のながで、美事にやられてしまった。民主主義の名のもとに、すべてやられてしまった。第一、肝心の人間が、駄目になって
しまった。今の若い奴見ると、どうしたんだと思うわけね。俺たち学生の頃、電車に乗ったって絶対に年寄りがいたら立ったよね。今はシルバーシートに座って
るのは若い奴しかいない。年寄りが羨ましそうな顔して、じっとシルバーシートに坐ってる若造を眺めてる。こんな人間たち作るために、戦後の五十九年があっ
たのかと思うと、本当に口惜しい。
少なくとも、歴代の宰相みたって、小泉のような奴はいなかった。こんなに言葉を汚した男はいない。レトリックなら、まだ許してやろう。彼の使う言葉は、
権力を笠にした陳腐なトリックにしかすぎない。小泉のペテンが、白昼堂々と罷り通る日本というのは、どういう国になってしまったのか。なんのための戦争で
あり、なんのための経済成長であり、なんのための戦後五十九年であったのか。あの日本中を席巻した全共闘運動というのは何であったのか。当事者であり、
リーダーである高野に、是非、そのあたりのことを話してもらいたい。
高野 八〇年代から九〇年代というのは、「失われた十年」という言い方もあるように、一種、喪失の時代だ。僕の言い方では、日本は明治から百年余り、「欧
米に追いつき追い越せ」ということで、ひたすら経済規模を膨らますことで取り敢えず貧しさから脱却することを目標に、打って一丸、走り抜いてきた。その発
展途上国の百年が七〇年代半ばから八〇年代初めで終わったんだな。イギリスもフランスもドイツも経済規模では抜き去って、前に見えるのはアメリカの背中だ
けということになって、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」とか言われて得意の絶頂に立った。しかしその過程で、日本人何千年の暮らしぶりとか情感とか人間
関係のあり方とか、そういうものをすべて「遅れているもの」「封建的なもの」として棄てよう棄てようとして、すべてをお金に換算して、手っ取り早く効率的
に金儲けをすることが一番尊いことなんだという価値観に染め上げられていった。そうしなければ、これだけのいわゆる近代化を短期間に成し遂げて、世界第二
の経済大国にのし上がることは出来なかったに違いないのだけれど、しかしそれによって失ったもの、間違って棄ててしまったものが余りに多すぎた。
だから六〇年代後半のあの若者反乱の時代というのは、今になって振り返れば、近代化の結果としての近代産業国家の重苦しさ、あるいは経済成長のための方
便としての官僚主導の中央集権国家の耐え難さへの、何もかもがお金に換算されるしかない世の中(その表象として授業料値上げがあった)のくだらなさへの、
感性レベルの反逆だったんじゃないか。このへんは別稿でもちょっと触れさせて貰ったので重複は避けるけれども、俺たちはそのことがよく分からないまま決起
して、世の中を変えようとしたのは確かだが、何をどう変えるのか、この激しい怒りを誰に向けるのか、さっぱりわからないまま、機動隊といった権力末端に石
をぶつけることで取り敢えず感情の高ぶりを吐き出していたのだろう。そこに明らかな限界があって、それが解けないままに内ゲバ、連合赤軍という袋小路に
填ってしまった。
それにはグローバルな文脈があって、そのことを僕は九三年に『地球市民革命』という本で書いたんだけど、全世界的にベトナム反戦を分母とし、各国ごとの
体制の非人間性への反逆を分子とする若者たちの騒乱があって、日本の状況もまたその一部ではあったのだけど、日本と比べて欧米、そして旧ソ連・東欧さえも
が決定的に違ったのは、いわゆる「六八年世代」が学園を離れて社会に散っていきながらも、決して諦めることなく世の中を変えようとする努力を続けて、例え
ばドイツのSDS(社会主義学生同盟)の連中はこぞって社民党に入っていって、その党を古臭い労働組合依存の党から、市民社会の多様な価値観を吸収して、
例えば環境とか、ジェンダーとか、市民参加とかということだが、現実に世の中を変えていく主体に作り変えていくために行動した。フランス社会党もカルチエ
ラタンの世代がドッと入って作り直して、それでミッテラン政権が出来て、俺たちと同じ世代の連中が環境大臣をやったりした。イタリアでも同じ世代が共産党
を内部から解体して、マルクス主義を放棄して左翼共同戦線の党に衣替えして、「オリーブの木」戦術を用いて一度は政権を握った。イギリスの労働党でもブレ
アたちの世代が台頭し、アメリカの民主党でさえある意味では、ベトナム反戦デモの経験者であるクリントンが出てきて、軍事国家からの脱却を目指した。今の
ブッシュが出てきて元の木阿弥みたいになったけれど。ところが日本では、これはまったく俺たちの世代的責任だと思うけれども、六〇年代を後に引き継ぐこと
が出来なかった。そのためにこの国は、発展途上国的ゼニゲバ主義から世界第一級の独特の成熟市民社会を作り上げていく条件はあるのに、その百年目の曲がり
角を曲がり損ねて、ゼニゲバの延長でバブルに突っ込んで、もう何が何だか分からなくなって、ヘアピン・カーブの壁に頭をぶつけて、ほとんど気を失ってい
る。それが現状だろう。
福島 受け皿を作れなかった日本の不幸だね。いまでも腹立たしいのは、村山富市という男だ。
高野 旧左翼の醜悪な末路の姿だね。
福島 あのあたりから、日本の政党政治も曲がり始めたね。論理の辻褄も合わないし。富市という男にかぎって言えば、あいつはただ総理大臣になりたかっただ
けだったんだよ。たとえば昭和初期の普通選挙法を勝ち取るために、どれだけ多くの血が流されてきたことか。彼らは、何のために治安維持法の弾圧に耐えてき
たのか。それを売り払ってしまった。右翼少年に刺殺された浅沼稲次郎委員長は、どんな思いでその後の衰勢をみつめていることか。たかだか、昭和のついこの
間のことだよ。しみじみ無念でならない。そんな歴史のツケが、いまの子供たちに全部押しつけられているんだよ。若い連中、どうしていいいか分からないんだ
よ。希望なんて持てやしない。だから、男の連中までもが髪染めたり、漠然とした不安を感受してる少女たちは、ピアスの穴を体中に開けたりして、抵抗するし
かないわけ。自損行為だよね。あとは身近な者への苛めや、家庭内暴力。みんな政治からきてるんだ。
高野 そこで、それを果てしもない荒廃、堕落と捉えると「一体どうなっちゃたんだ」ということになって救いがない。僕はそうではなくて、発展途上国を卒業
したばかりのこの国が、未だ成熟経済に相応しい市民社会原理に適合し得ていない過渡期の矛盾と捉えたいんだ。
福島 それでは、民主党はどうなんだ、聞かしてくれよ。
高野 これも正直言って、現状は困ったものでね。いま言ったように、ヨーロッパで出現したような、成熟市民社会に向かって穏やかではあるが根源的な変革を
担えるような政治的主体を、日本でも六八年世代が主導して作れないものかと、ずうーっと考えていた。そもそもから言うと、社民党がまだ社会党と言っていた
八九年から九〇年、土井たか子委員長の頃に、「おたかさんブーム」というちょっとした盛り上がりがあって、その時に、それこそ六八年世代の、既存の労組幹
部OBとかとは全然違う種類の、弁護士、市民運動家、学者、マスコミ人といった感じの人たちが、どっと政界に入ってきた。僕はそれまで社会党という政党に
ほとんど興味がなかったんだけど、早稲田の共産党で一緒だった秀才弁護士の筒井信隆とか、東大全共闘裁判の弁護人で今度民主党の政調会長になった仙谷由人
とか、一つの塊となって入ってきて、その一年生議員だけで「ニューウェーブの会」を結成して、社会党の大会議案書に修正案を出すなど、めざましい活動を始
めていて、彼らの勉強会に僕が呼ばれたりした。さらに九二年には、そのニューウェーブと、それ以前から代議士になって社民連という小会派にいた市民運動出
身の菅直人とが連携して「シリウス」という政策研究集団が出来て、非議員では僕だけがメンバーに加わって、社会党の乗っ取りを策したのだが、これは巧くい
かなかった。
その頃政界はリクルート事件や金丸金塊事件や何かでドロドロで、九三年七月、ついに自民党長期単独政権が壊れて細川政権が誕生した。さあこれで日本の政
治も大きく変革に踏み出したと思いきや、細川政権はわずか八カ月で行き詰まり、羽田孜が引き継いだものの、二カ月で立ち往生して投げ出してしまった。その
時僕は、細川の時の改革派連立政権の枠組みを復元して第二次羽田政権を作って、自民党を引き続き野党の立場に塩漬けにする以外にないと考えて、裏でさんざ
ん立ち回ったのだが、その時自民党は、社会党の村山委員長をかついで与党に復帰するという奇策を用いて自民・社会・さきがけ三党連立政権を作って、細川改
革を潰した。僕はこの時もまた『矛盾論』を持ち出して、こう説いた。
「主要な敵は誰かを見誤ってはならない。いまの局面で日本政治をめぐる主要な矛盾は、腐敗が治っていない自民党と細川政権与党の改革派連合との間にある。
社会党とさきがけが自民党の政権復帰に手を貸すなど飛んでもない誤りで、細川の日本新党、小沢一郎の新生党、公明党、民社党などと改革派連合を復元して改
革を継続することだ」と。
ところが社会党の爺さんたちは、「もう小沢にはうんざりだ。自民党の河野洋平総裁と社会党の村山委員長でハト派連合を作って、小沢ファシズムと闘うの
だ」と言う。馬鹿なことを言うな、と。小沢は横暴かもしれないがファシストではない。小沢が主要な敵で自民党は味方だなどと言うのは戦略的錯乱だ、と。し
かし、福島の言うとおり、村山はタナボタで総理になりたい一心、まわりの爺さんたちは自民党から「村山が総理になればお前も大臣だ」とか囁かれて目が吊り
上がって、もう恍惚状態になっていた。
それで、小沢たち野党に落ちた各党はその年の暮れに合流して「新進党」を作り、マスコミはこれを「保守2大政党制の時代」と呼んだ。冗談じゃないよ、
と。旧保守と新保守というのでは国民は選択のしようもないじゃないか。リベラルな第三極を立てて、やがて新保守も引きつけ、あるいは吸収して、旧保守とリ
ベラル改革派の座標軸に持ち込まなければ話にならないよということを考えて、最初は、さきがけにいて官房副長官をやっていながら村山政権に疑問を持ってい
た鳩山由紀夫、北海道知事を間もなく辞めて中央政界に復帰しようとしていた横路孝弘、日本新党に属していたが新進党に合流するのを嫌って一人になっていた
海江田万里、社会党で落選中だった仙谷由人、そして非議員では僕が加わって、九五年三月に新党結成のための「リベラル・フォーラム」を秘密裏に立ち上げ
た。赤坂プリンスホテルの最上階のスイートルームを取って、夜な夜な十時とか十一時に集まって――先生方は記者を巻かなければならなかったので、一度家に
帰って記者を返して、それから家を抜け出して来たんだ――協議を重ねた。菅直人にはもちろん最初から声はかけていたが、橋本内閣の厚生大臣なので普段は余
り来なかった。それから一年半かかって、九六年九月に民主党というのができるんだ。
福島 民主党にそんなに深く関わっていたのか。コーディネーターだね。
高野 そう。はっきり言って僕がいなければあの党は生まれなかったろう。一年半のプロセスの中では、「もう彼奴とは一緒にやれない」とか言い合って壊れか
けたことが何度もあった。政治家同士が口もききたくない、電話もしないというようなことになって、僕が間に入って「そんな小さなことでフラフラしちゃあ駄
目だ。大義は何なのかもう一度考えろ」と大物議員を怒鳴りつけたりした。何とか結成に漕ぎ着けて、最初の結党宣言は俺が書いたんだ。「私たちがいまここに
結集を呼びかけるのは、従来の意味における“党”ではない。二十世紀の残り四年間と二十一世紀の最初の十年間をつうじて、この国の社会構造を根本的に変革
していくことをめざして行動することを決意した、戦後生まれ・戦後育ちの世代を中心とした、未来志向の政治的ネットワークである」という書き出しで、一年
半の議論を踏まえて一晩で書いた。それを最終的に鳩山と菅のトップ会談で確認したんだが、菅が一個所だけ、その書き出し部分の「戦後生まれ・戦後育ちの世
代を中心とした」ところを「…中心として老壮青のバランスに配慮した」と詰まらない訂正をした。本当は「六八年世代の党である」と書きたかったところを、
ちょっと上品な表現にしながらもその意味を滲ませているのに、余計なことしやがって、と思ったけど、まあいいやと。
鳩山と菅の「二人代表制」にするとか、二〇一〇年までに日本の脱発展途上国の国家改造の筋道を立てたら、みんな六十〜六十五歳になるから、その時点で党
を解散する「時限政党」にしようとか、面白いことがいろいろ盛り込んであるが、みんな僕の提案だった。
福島 それは凄い。坂本竜馬みたいだ。驚いたな。高野が一番時代の本流を来たな。
高野 究極の政治ボランティアだな。一世一代だ。一つの政党を作るというのはなかなか出来ない体験だからね。結成前夜に、鳩山が冗談で「高野さん、党首
やってよ」なんて言って、菅からも「(党の決定機関である)幹事会に入ってくれ」と言われたが、そんなことしたらテレビも出られないし講演も原稿も注文が
来なくなって、結局は議員になるしかなくなってしまう。議員だけは嫌だからね。なにせ反議会主義者だから。
結成してすぐ十月に総選挙があって、五十議席ほど確保してスタートして、それから一年半して、新進党から離脱した羽田孜さんらのグループ、さきがけ系や
民社党系の人たちが合流して再結成という形をとり、その時点で僕の書いた結党宣言もお蔵入りにされて、最初に思い描いたのとは違う党になってしまって、そ
の時から僕は距離を置くようになった。最終的に、去年の夏に小沢の自由党も民主党に合流して、当初考えた通り、新進党を吸収して「保守二大政党制」の幻想
を壊して「保守vsリベラル」の構図に持ち込むということには成功したんだが、中身がねえ…。こんなんで政権取れるのか、取って意味があるのかと思ってし
まう現状だけれど、しかしとにかく一度は取って、「政権交代可能な政治風土」を培っていかなければならないだろう。
■鴨川自然王国への夢■
福島 千葉に建設中の「鴨川王国」の話してくれない。
高野 それは別稿で書いたから…。今日の話の文脈で言えば、これも俺個人の脱発展途上国、脱近代の模索なんだ。世の中丸ごと変えようと思って学生時代に暴
れ、これじゃいかんと思って民主党も作ったけど大したことはなくて、結局、俺一人でも違う生き方をしようと。脱発展途上国の成熟市民社会というと、ヨー
ロッパのような、とりわけ北欧のような大人っぽい落ち着いた社会のありようをモデルと考える人が多いけど、僕のイメージは違って、江戸時代までの暮らしの
原理を再生することなんだ。日本型市民社会のモデルは江戸だよ。都市としての江戸は当時、世界最大の人口を抱えた大都市だ。衛生とかエコロジーという面で
も世界最先端で、ヨーロッパじゃあ貴族も袖口で鼻水拭ってるような時代に、江戸人は庶民でもちり紙を懐に入れていたし、屎尿を川舟で農村に運んで肥やしと
して活用するシステムも完備していた。町人は豊かで、ヨーロッパでは音楽も芝居も王侯貴族の慰みものでしかなかった時代に、日本では庶民が自分で木戸銭を
払って歌舞伎を観たり相撲を観たりして遊んだ。そして誰もが土に馴染み農と関わって、ご近所とも助け合って、簡素な、身の丈に合った暮らしをしていた。子
供はみんな元気で腕白で、大人たちから大事にされていた。
『逝きし世の面影』という本があるんだ。熊本在住で、長年予備校の講師をしながら歴史と文明を語り続けてきた偉大な思想家と言っていいだろう、渡辺京二
という人が著者で、福岡の葦書房から出ている。江戸後期から明治初期に日本を訪れた外国人たちの旅行記や日記や報告書を片端から読んで、偏見や誤解も含め
てのことだが、彼らの目を通して近代化以前の日本がどんなふうだったかを描き上げた。五百ページに及ぶ大冊だが、読んでいる間中、涙が止まらないよ、余り
に懐かしくて。引用したい語句は百カ所でもあるが、一カ所だけに止めよう。一八八六年に来日した米人画家アーノルドの観察だ。
「日本には、礼節によって生活をたのしいものにするという、普遍的な社会契約が存在する。…気持ちよく過ごすためのこんな共同謀議、人生のつらいことども
を環境の許すかぎり、受け入れやすく品のよいものたらしめようとするこんなにも広汎な合意、洗練された振舞いを万人に定着させ受け入れさせるこんなにもみ
ごとな訓令、言葉と行いの粗野な衝動のかくのごとき普遍的な抑制、毎日の生活のこんな絵のような美しさ、生活を飾るものとしての自然へのかくも生き生きと
した愛、美しい工芸品へのこのような心からのよろこび、楽しいことを楽しむ上でのかくのごとき率直さ、子供へのこんなやさしさ、両親と老人に対するこのよ
うな尊重、洗練された趣味と習慣のかくのごとき普及、異邦人に対するかくも丁寧な態度、自分も楽しみひとも楽しませようとする上でのこのような熱心――こ
の国以外のどこにこのようなものが存在するというのか」
これを受けて渡辺さんは書く。「ひと言でいって、それは情愛の深い社会であった。真率な感情を無邪気に、しかも礼節とデリカシーを保ちながら伝えあうこ
とのできる社会だった。当時の人びとに幸福と満足の表情が表れていたのは、故なきことではなかったのである」と。これは、僕がここ数年間に読んだ中で一番
感銘を受けた本だ。みんなにも是非読んで欲しい。我々が失ったものの大きさを知って叩きのめされるだろう。
そしてここでアーノルドが言う「自然へのかくも生き生きとした愛」というのが、土の上に踏ん張った暮らしに根ざしていたということが、僕にとっては重要
だ。武士なんて役立たずだったが、それでも関東武士というのは本質的に武装開拓農民だった。駄馬のケツ叩いて畑を開墾して、いざとなれば刀を引っさげ駄馬
にまたがって戦に散じたが、それだって本当は殿様への忠誠のためよりも自分の家族と農地を守るためだった。坊主だって寺の台所の裏には畑があって、畑に相
談しながら酒の肴を工夫することを小僧に教えた。それが日本料理の原基を作ったんだ。漁師だって魚ばかり獲っていたのではなくて、裏に畑を持ち、親類の田
植えを手伝った。村の鍛冶屋というけれど、それは農家の中の器用な奴が村中の鋤や鍬の製造と修理をアルバイトで請け負っているようなものだった。誰もが兼
業農家と言えるほど、土を愛し農に携わって生きた。「百姓」という言葉は専業農家を指すという誤解があるけれども、網野善彦が言うように、様々な仕事に生
きる庶民というのが元の意味で、しかもその様々な人々がそれぞれなりに土に関わって生きているという有様を表していたのだ。その基礎の上に、人にも自然に
も優しい社会のあり方があった。
そんなものは遅れていて、金にもならず、くだらないもんだと言い聞かせるような百年間があって、それはそれで進歩の一過程だったと言えるのかもしれない
が、退歩だった部分のほうが大きくて、だから二十一世紀、もう一度、新たな次元で、土と農に生きる美しき日本の数千年の伝統に回帰するのだ。僕にとってそ
の場所が鴨川ということだ。
福島 俺ら子供の頃農業国家と教わったよ。俺たちが生まれ育った頃は、日本の全人口の六割までが農民だった。それが減反減反で荒れちゃってさ。
高野 金にならないなら米なんかやめちゃえというのが国の政策なんだから。それが、いつも土に足を踏ん張って生きてきた数千年の歴史を棄てることなんだと
いうことに、政治家も官僚も気が付かないんだ。
福島 農業の担い手がいないわけなんだよな。この間、菅原文太と対談したときに、ラジオで菅原さんの番組に出してもらった。そしたら福島さん、今は農業の
跡継ぎはどの位いると思いますか、って言うから、俺は、危機感煽ろうと思って三万人って言ったら、五百人しかいないという返事が返ってきた。
高野 しかし「定年帰農」という言葉が出てきたのは五年ほど前で、実際、我々の鴨川自然王国に集う人たちも、定年間近や定年過ぎの田舎暮らし願望者がほと
んどだった。ところがここ一,二年、若い人の中に農志向が増えてきて、鴨川自然王国にも、この間まで横浜で化粧品のセールスをやっていた三十歳の男がいき
なり住み着いて、畑をやって、将来どうしたいんだというと、何とか麻の栽培許可を取って食品や繊維品の加工をやりたいという夢を語るんだ。その友達で、
ブックオフという古本屋チェーンの店長をやっていた奴は、「ピースボート」(あの辻元清美がやっていた旅行NPOだ)に乗ってキューバに行った時に、
キューバは貧乏で石油もない化学肥料も農薬もないから、やむを得ず有機農業でやっていて、いまや有機農法のメッカとなっているんだが、それを体験するオプ
ションツァーに参加して、すっかり感動して、店長辞めて「これからは農だ」と言って鴨川に来ている。マクドナルドの成績優秀な店長だった奴もいる。ある日
突然、「ファストフードはいかん。スローフードでいかなくちゃ」と啓示を得て、長野県のある町の東京広報センターの事務長をやりながら鴨川の活動家になっ
ている。
僕の大隈塾ゼミは「インテリジェンスの技法」を教えているが、合宿は鴨川で稲刈りだ。「お前ら、頭でっかちじゃ駄目だ。身体で考えろ」と。去年、二十人
連れて行って、そのうち四〜五人は完全に填って、その後も通ってきている。一人は、僕が「これから大企業なんか駄目だ」と言うのを信じちゃって、金沢の
ローカル電子企業に就職を決めたんだが、将来は和歌山で祖父が守っている山と畑を継ごうという気になっている。
去年の大隈塾授業の学生にも面白い奴がいて、鴨川にも何度も来ているんだが、去年の秋に「高野さん、早稲田なのに田んぼがないのはおかしいですよね」と
言う。そう言えばそうだなあ、名折れだな。「六本木ヒルズだって田んぼがあるんだから、大隈庭園に一坪でも二坪でもいいから田んぼを作ろうと思って」と言
う。それで本当に総長に直談判してこの春に田んぼを作っちゃったんだ。今度行ったら見てやってよ。田植えには総長も参加してさ。凄い行動力がある学生がい
るんだよ。こいつは将来は山形県の小さな町に戻って町長を目指すと言っている。そういうのをたくさん見ていて、そういう奴らがみんな僕がやろうとしている
ことに共感しながら、自分の人生を考えてくれている。だから、政治の方は見通しがなかなか立たないけど、僕は日本の将来に楽観的でいられるんだ。
福島 しかし六〇年代、七〇年代には、自分が農に関わるなどまったく思いも及ばなかったことでしょう。
高野 やっぱり藤本敏夫の影響だよね。彼は牢屋で粗食を食ってたせいかどうかは知らないけど、出てきていきなり「これからは農と食だ。そこから日本を変え
る」と宣言して「大地を守る会」という日本のもっとも先駆的な有機無農薬もしくは低農薬食品のネットワークを作った。しかしあいつは、人をアジって動員し
て組織が出来てしまうともう飽きちゃって、何か別のことを仕掛けるという風だったんだ、昔から。それに、有機食品を苦労して見つけて生産者とさんざんやり
合いながらお客に提供しても、そういう苦労も知らない、農家の実情にも疎いわがままな消費者が生意気なことばかり言う。そういう消費者エゴがほとほと嫌に
なったということもあって、大地の会を人に渡して自分は辞めた。都会のおばさんが、「これ、ほんとに地飼いの鶏の卵なの?」みたいなことを言って、何の手
間もかけずにそれをやっぱり金で買おうとしている。うんざりだと。どうして自分で鶏を飼わないんだと。ところが、考えてみたら自分も田も畑もやっていない
し、鶏も飼っていない。これじゃ駄目だというわけで、彼は八〇年かそこらに、成田とか南房総とかほっつき回って、今の鴨川の地に山の中にわずかな土地を持
ち、近隣の農家と一緒に農事組合法人として鴨川自然王国を作った。
藤本が死ぬ前に帰っていったのは、石原完爾だった。石原の「平和三原則」、つまり「都市解体」「農工一体」「簡素生活」を通じての農的共同体づくりの夢
をこそ我々も追うべきだと、いつも言っていた。
日大全共闘の書記長だった田村正敏は北海道へ行って牧場をやろうとした。僕も金貸したけど、返ってこないうちに死んだ。全共闘運動の持っていた一面とい
うのは、文明批判であったわけで、そのある部分を捉えて農に向かうという流れは端緒的には七〇年代後半からあったんだ。早稲田でいえば新島淳良、あれは共
産党で教員細胞の指導部にいたけど、彼は共産主義より共同体主義を求めてヤマギシ会に入って、挫折しボロボロになった。みんな、そこに、明治から百年の近
代が何を見失ったのかという一つの答えを見つけようとしたんだな。
■死ぬまでやりたいことをやろう■
福島 桶本は電通という資本主義の権化のようなところにいたわけだが、今の時代をどう見ているんだ。
桶本 今はバブルが弾けて、モノが売れない。企業側から言えば売るものがない。消費者側から言えば欲しいものがない。そういう時代になってきた。一時的に
不況だから売れなくなったわけではなくて、構造的に売れない。資本主義というものがこういうふうに沈んでいって、次の新しいものが出てくる芽が吹いてきて
いるということを、電通にいた最後の頃に感じていた。消費者の消費の欲望を刺激する商品というのはだんだん駄目になる。そうではなくて、人間が人間らしく
なるための、それは欲望というのかどうかわからないけど、そういうものが新しい商品として出てくるならば、資本主義もあるいは立ち直るかもしれない。そう
でない限りはモノが売れないし売るモノがない。高度成長で走ってきた路線は資本主義の路線としてはあったけれど、それは一定のところまで行ったものの、こ
れからは沈んでいくと。だから盛んになるのは常に後進国で、ヨーロッパもすでに転換点にもっと前に入っている。日本もそう。そういう時代なので、みんなが
自分の欲望のありかたというもの、例えば自然、それが農というものかもしれないし、樹木であったり川であったり、ほんとうに欲しているものを欲するように
なっている。非常に見事に話してくれた話が腑に落ちるんだよね。今の時代のわれわれの意識の中でね。
高野 資本主義の終わりかどうかわからないので、あえて発展途上国という言い方をしてますけど、明治から百年の発展途上国ニッポンは、ひたすらGDPに表
される経済規模を大きくすることだけを願って、そういう意味で右肩上がりの量的拡大を追い求めてきた。その時代を通じて、幸せとは結局お金であり、もっと
収入が増えてもっと消費が増えることだった。ところがいま日本はGDP五兆ドル。全世界百九十カ国のGDP総合計三十兆ドルの六分の一を常時生み出してい
る化け物みたいな国になった。アメリカは九兆ドルで、アメリカと日本で世界の半分ですよ。消費はGDPの約六割で、三兆ドルの消費が続いている。一人当た
りではアメリカとどっこいの世界最高レベルの贅沢国ですよ。
だから桶本が言うとおりで、不況でモノが売れないんじゃないんだ。しかも消費の中身も量より質になって、例えばお米にしても、ついこの間までは「腹一杯
食いたい」という量の欲求以外になかったのに、今時は「有機無農薬じゃないと」とか「魚沼産こしひかりが味が一番だ」とか言って、スーパーなら十キロ三千
円でもブレンド米を買えるものを、産直で一万円払って取り寄せたりする。自分や家族の価値観、問題関心、ライフスタイル、あるいはこだわりといったものに
とって「ここは大事だ」というモノは、高い金を払ってでも買う。ところが何でもかんでも贅沢して高いモノを買い漁るかというとそんなことはなくて、百円
ショップで済ませられるモノは割り切ってそれで済ませる。だから消費の総額は一進一退で伸びないが、質ということを基準にして合理的でメリハリのある金の
使い方をするわけだ。
ところが政府もマスコミもエコノミストも、相変わらず消費総額が伸びているか伸びていないかだけを問題にして、伸びていれば「消費が上向き」と喜んで、
〇・五%でも減ると「消費がマイナスへ」と一大事みたいに言う。発展途上国時代の量の思想のままなんですよ。GDP全体も消費も、昔みたいに何%も伸び続
けていないから「不況」だと。嘘付けって僕は言っているんだ。「経済の見通しが不透明で、年金の行方も不安だから、消費者は財布のヒモを固く締めて貯蓄に
ばかり回している」という説明を何百回聞かされたことか。大体、ヒモの付いた財布なんか持っている人はいないよ。そこですでに過去の経済学だということを
告白しているようなものだ。横這いとはいえ三兆ドル、一人当たりでアメリカとどっこいの世界一の贅沢消費が続いているんだよ。その中で、消費者はどういう
モノなら高くても買って、どういうモノは百円ショップで済ませているか、その質の面を見なければ、いまモノやサービスを提供する側は商売が出来ない。逆
に、そこに気が付かないで、発展途上国時代と同じ商売を惰性で続けているからお客が来ないのに、それを「不況」のせいだと錯覚する。百年間の発展途上国根
性が染みついているために、今の事態を何が何だか分からなくてオタオタしている。「五兆ドルだぞ、世界の富の六分の一だぞ、オロオロするな、日本人!」
と、僕は講演して歩いている。みんな「言われてみればそうだ」と驚きつつ納得してくれるよ。「『日本経済新聞』を読み過ぎると日本経済が分からなくなりま
すよ」ってね。
金儲けが近代化なんだという、幻覚とは言わないが、一時の血迷いごとから醒めないと。今から二十五年以上前にフィリピンのミンドロ島に行ったんだ。それ
こそ田原プロジェクトで、アジアの農業の取材で、ルソン島でロックフェラー財閥が作った「国際稲研究所」に行って、それからミンドロ島に飛んだ。小野田さ
んが出てきた島だよ。その大騒ぎの中でそこの州知事が日本に来た時に、「実はうちの島にアメリカの平和部隊が入って広大な農地を開墾しかけたんだけど、灌
漑がうまくいかなくて放棄して行ったもったいない土地がある。何とかならないか」という話を持ちかけた。オイスカという民間の海外農業援助団体があっ
て、そこが手を挙げて、海外生活四十年という測量と土木のプロのおじさんと、青森県の農家の次男坊でこの間までポルシェで畦道走っていて、突然自分自身に
疑問を感じて志願して来たという若い衆がいて、そこに州知事のお声がかりで島中から集められた優秀な高校生五人が合宿して開墾やってるわけ。そこを訪れ
た。測量をやりながら、とりあえず試験田五畝ほどに日本流のやり方で田んぼを作って、綺麗に田植えをしてやったら、近所のフィリピンの農民の十倍も収量が
ある。フィリピンの農民は、米を作ると言ったって、夏前に雨が降ったときに種籾をパーッと撒いて、雑草みたいに生えてくるのを刈り入れるだけだから、年に
二日しか働かないんだ。日本流に丹精込めてやれば十倍獲れる。州知事以下、みなさん「やっぱり日本はすごい」と大感動してくれたが、農民は誰もそうやろう
としない。どうしてなんだと。
「だってそんなにたくさん獲ってもウチじゃあ食べきれないもの」
「余ったら売れば現金が手にはいるじゃないか」
「それでどうするんだ」
「お金があればテレビも買えるじゃないか」
「うちは電気が来てないから」
「いやしかし、台風が来て米が獲れないことだってあるだろう」
「その時はバナナがいくらでもなっているから心配ない」
それで、おじさんは参っちゃって、俺たちは何をしているんだろうか、幸せって何なのかと、ニッパーハウスで酒を飲みながら哲学的になっちゃって。もしか
したらフィリピンの農民のほうが進んでるのかもしれないと思えてきて…。日本は今その問題に突き当たっているということだと思う。
桶本 例えば女の子でいうと、ブランド物、そのものに価値があるんじゃなくて、見えないものに価値がある。車なんかでも一番金を使うのはマシンそのものよ
りデザインだったりする。ソフトだ。ソフトというのは人間の文化だ、今まで資本主義がそれによって金を儲けてきたと考えていたものと違ったものなんだ。そ
れが、ある日突然、自然とか農になる可能性がある。
高野 一昨年の夏にルイヴィトンの銀座の店がオープンして、その日しか売らない特製バッグを売り出した。普通のヴィトンのバッグなんか誰でも持っているか
ら、その日しか売らないバッグだというと、まず同じものを持っている人とすれ違って気まずい思いをすることはないから、欲しいわけだ。それで開店前から奥
様、お嬢様が列をなして、たった一日で二億五千万円売り上げて、その写真や映像が新聞やテレビにも出た。それが半分くらいはユニクロみたい恰好をしている
のよ。ややもして読売新聞だったかの川柳の欄に「ユニクロを着て列をなすルイヴィトン」と。他の人が持っていないバッグは何十万円出しても欲しい。しかし
銀座の歩道に並ぶには上下合わせて千円か二千円のTシャツとパンツでいいわけよ。成熟経済ってこういうことなんだ。そのことが資本主義の側がよく分かって
いないんだ。その人の人生にとってここは節目だとかここは価値があるとか、俺はこれはこだわるとか、ライフスタイルに関わることだというと、ドンと金を使
うことは全然気にしない。世界一の金持ちなんだから。
福島 だから革命も起きない暴動も起きないんだよ。みんな持ってるんだよ。それで馬鹿な餓鬼たちを支えているんだよ。ほんと。
上田 中国に行って、飛行機から川を見ると、これは資本主義で絶対犯してはならない自然だなと思った。いま中国は大変貌を遂げつつあるんだけど、あのまま
行くとどうなるんでしょうねえ。
高野 中国はいま発展途上国の真っ盛り。ゼニゲバ社会みたいになって爆走中。元々商人社会だから、ひとたび解き放たれてしまったらトコトン行く。このまま
じゃあいずれ弾けてパンクでしょう。結局、ここでもやはり近代化とは何かということになるんだけども、ヤミ人口を入れて十五億、地球人口の四分の一を抱え
る国が、近代化を遂げるという時に、日本がそうしてきたように農村を破壊して都市に人を集めて工業を盛んにするという筋道はあり得ない。そんなことができ
るわけないですよ。日本のような比率でいったら十三億か十四億が都市に出てきて、一億か二億が農村に残っているという話じゃない。今でさえ中国は世界の耕
地面積の七%しか持っておらず、しかも、農村を棄てて大都会に出て稼ごうとする国内流民が膨らみ、地方政府が目先の利益のために好き勝手に不動産乱開発を
進める中で、さらに農地が減りつつある。人口は増え続けて二十一世紀半ばには二十億人でしょう。中国は世界中から何十億トンという食糧を輸入して呑み込ん
でいく巨大なブラックホールのような存在になる。石油も同じで、その二十億人が日本並みに自動車に乗ったら、世界中の石油をすべて吸い尽くしてなお足りな
い。中国だけでなく世界が破滅だね。
だからお前ら近代化なんてやめろ、車なんか乗らないで自転車乗ってろ、とは言えないわけだから、そうすると近代化と言っても西欧型でもその変形の日本型
でもない、あくまで農業に基礎を置いて、まず農業自体が内からゆっくりと近代化していく超スローな近代化の独自パターンを編み出さなければならないが、中
国の指導部にその問題意識があるのかどうか。少なくとも十年ほど前に北京でシンクタンクの学者たちと議論した時には、彼らは「日本に追いつき追い越せ」一
本槍で、先のことは何も考えていなかった。恐ろしいですよ。
上田 今はむしろ正反対ですね。プロセスがなくて結果だけを諸外国から急いで取り込むから、余計にハイテンポですね。
高野 例えば、日本のように百年かけて山奥の一軒家にまで遍く電話線を張り巡らせるというプロセスがなくて、ないからこそいきなり携帯電話が普及する。い
ま中国の携帯電話は三億台ですよ。世界最大。上海あたりでは、アルマーニ来てBMW乗り回す青年実業家だか虚業家だかが首に四つも五つも携帯ぶら下げて闊
歩している。いくつも下げていると「お、あの人は会社をいくつも経営するニューリッチだな」と思われるって言うんだな。香港では純金製の携帯電話がネット
オークションにかけられて飛んでもない金額で落札された。先日、中国人の学者とその話になって、日本で言う「中の上」以上のリッチなファミリー人口はどの
くらいいるんですかと聞くと、「まあ八千万人でしょう」と。だから、一時は例えば中国製の安物のメガネがドッと入ってきて、福井県武生の産地がピンチに
なって「中国の脅威」と言われたけれども、今はもう日本製の五万円も十万円もする高級なメガネフレームが北京、上海、広東では飛ぶように売れる。
上田 この状況をわたしは憂慮してます。
高野 金、金、金の暴走状態です。こんなことが続くわけがない。
福島 ところで、俺たちもすでに還暦を迎え、遠くない将来、死を迎えることになるだろう。ここらで、高野孟の死生観を聞かしてくれないか。というのは、六
十になって馬に乗ったりラグビーをやったり、まだまだ馬鹿なことをやりそうな気配がする。高野には、俺は死なないという幻想があるような気がしてならな
い。
高野 死なないとは思っていないけど、死を意識して何かを恐れるということはない。僕は早稲田の共産党時代に、死ぬ気でやっていた。死ぬ気というのは「そ
のくらいのつもりで」全力を投入したという形容句ではなくて、本当に革命戦争を起こして華々しく死のうと思っていたんだ。今にして思えば子供じみている
が。だから例えば、いま流行の年金未納ということで言えば、国民年金は未納じゃなくて未加入だよ。「老後」という観念そのものがなかったし、仮に生きなが
らえて老人になったとしても、打倒の対象であるこの国家のお世話になっておしめを替えて貰ったりしている自分の姿など想像もできなかった。鶴田浩二じゃな
いが、特攻隊の生き残りが「死にそこねた」っていう思いを一生引きずるっていうのがよく分かる。俺はもうここで死のうと思ったんだよ、その時代、ほんとう
に。そこまで党を思い精神と肉体のすべてを捧げた挙げ句、その党から「お前、北朝鮮から金貰って破壊工作をしているんだろう」みたいなこと言われて、全人
格的な侮辱を受けて、それでは今度は死んでも死にきれない気分だよね。なーんだ、この馬鹿野郎どものために俺は命なんか賭けちゃったのかという虚脱感だ。
二十代にそうやって生と死の出入口を行ったり来たりしてしまったから、何も怖いものはない。
福島 死ぬまで思い切り暴れていればいいわけだね。死なんて考える必要ないわけ。
高野 死なないように気を付けるということはない。二十八歳からあとが全部余生だから。好きなことだけやって楽しく生きることだけを心がけてきた。文藝春
秋社から『私の死亡記事』という本が出ていて、百二人のいわゆる有名人が自分で自分の死亡記事あるいは弔辞を書くというおかしい企画の本だが、そこで僕
は、「馬に乗って出たまま、それっきり」という一文を書いた。
「あいつ(僕のことだ)は五十歳を過ぎた頃から、一杯飲むとよく『俺は野垂れ死に願望でね』と言ってました。冗談かと思っていたら、本当にその通りになっ
てしまいましたね。『ちょっとトルコまで行ってくる』とか言って、モンゴルから一人で馬に乗って出ていって、それっきりでした。…あいつが偉かったのは、
好きなことだけやって生きて、そして死ぬということをおおむね貫いたことでしょう。誰もがそうしたいと思っても、いろんなしがらみもあってなかなかできる
ことではないですが、あいつは、仕事と暮らしの本拠を安房鴨川のとんでもない山の中の過疎村に移して農業や林業の真似事を始めたり、十勝の牧場に小屋を建
てて原野や雪原を馬で走り回ったり、毎年のようにモンゴルを旅したり…。今にして思えば、それもみんな“最後の一人旅”のための準備であって、周りの者の
多くが誤解したように、単なる息抜きや遊びではなかったのでしょう」と。
娘に「なーにこれ、恰好付けすぎだよ」と笑われたけどね。でも、年金貰って生き延びるより、中央アジアの山中で狼に食われて死ぬ方が嬉しいよね。
福島 高野を見てると、どこまでも大らかで、しかもとことん人間を信じ、絶望することなく人間を愛している。あの帝政ロシア時代を生きたトルストイという
男を感じるよ。いや、今日は、忙しい中を、本当に有難う。桶本、上田さん有難う。さあ、これから飲み直しだ。(完)