いざウクライナへ! 外務省NGOの支援を受けて「子ども基金」が建設中の「南(ユージャンカ)」の<子どもの家>を視察しました。ドイツの救援団体は子どもの宿泊棟を建設する方向で検討中です。建物の内装に関しては、日本でパッチワーク・日本の絵画など募集して、壁に飾るなど日本から送った建物をアピールとしたい。<チェルノブイリの家族の救援>では現在6500家族の会員がいるが、そのうち会費を支払っている会員はその30%にすぎません。会費は24グリブナ/年(約500円)ほどだが、それさえ支払えない状況にある。特に甲状腺手術後の子どもの会員で会費を払える家族はないという。この会費を子ども基金が支援してもいいのではないかと思う。<子どもたちの生存>という現地の救援団体にこれまで送っていたの保養費は、来年には「南」に保養する子どもの分を支援したいと考えています。 ナターシャとの再会 今回の訪問の大きな楽しみの一つに、ナターシャとの再会がありました。彼女は昨年の保養交流会で私の教室に熱心に通ってくれた少女で、縁あって彼女の里親になることが出来ました。ロシア語圏の国々では同じ名前の子がたくさんいて混乱するので、ボランティア仲間内では“天才シーマ”や“マッチ棒君”などの愛称の方が通じやすくなっていたので、いつも牡丹色のTシャツを着ているナターシャは“ピンクのナターシャ”と呼ばれるようになりました。 彼女の家から一番近い駅まで歩いて20km、キエフから車をとばしても片道5、6時間はかかるといっていましたから、かなり田舎なのは事実です。彼女は片言の英語も話せず私のロシア語も??という状態ですから、手紙や小さなプレゼントを送っても返事が来ることは稀でした。実際彼女の病気は大変重く、家庭も非常に困窮しています。でも、失望や不安を感じることはありませんでした。“彼女のことをいつも思っている人”という私の存在を身近に感じてもらえばそれで満足と思っていたのです。そんな訳で、すでに「南」にナターシャが保養に来ていると知った時は一年分の思いを早く伝えたいという気持でいっぱいでした。「南」での彼女との再会は、表面上は実にクールなものでした。あまりの嬉しさ、懐かしさ、そして照れ臭さで双方何を話していいかわからないという状態だったようです。ラリサやカズロバさん(現地団体スタッフ)の「彼女はとても恥ずかしがり屋。でもすごく喜んでいるわ」という言葉と彼女の様子からも彼女の気持が痛いほど伝わってきました。手術で声帯を痛めているので相変わらず大きな声は出せませんが、訓練のおかげで昨年よりは良い方に行っている気がしました。ビーズのブレスレットやちょっぴり大人びた洋服を身につけている彼女は思春期の少女らしくて微笑ましかったです。 私と菊ちゃんの二人は“子ども棟”といわれる長屋の一室をもらいました。朝から晩まで子供たちの近くにいることは生の姿を垣間見ることができて嬉しかったです。 そんなある日、ナターシャに伝えたいことがあって廊下にいる少女の一人に英語で通訳を頼んだところ、ナターシャは予想外に不機嫌になりました。彼女は思った以上にプライドが高いのではと気付きました。私たち二人の関係に他人が入る(英語の通訳を介する)ことを拒否したのだと悟りました。憶測に過ぎませんが“里親と里子”という関係が仲間に知られるという事は、裏を返せば自分は病気が重くて家も貧しいのだということを公言するようなものです。そのことがあってからは他の子ども達と同じように接していこうと自分に言い聞かせました。 ここに来ている子ども達は自分の病気や将来に対して想像する以上の不安を抱き、ある意味で愛情(心のよりどころ)に飢えているといえます。だからこそ同じ境遇の仲間という連帯感が強い反面、誰からも好かれ声をかけられる子の存在にも非常に敏感になっているようでした。滞在している子ども達、特に少女達は考えもしっかりしていて、年上の私より遥かに大人だと感じました。自分の将来や物事を真剣に考えている分、子共の時間を駆け足で過ぎていかざるを得ないのだと思いました。 食堂や折り染め教室、中庭などでよくナターシャと目が合いました。どちらからともなくニッコリするだけでしたが、「うん、わかってる」というような微笑みを見ると心が通じ合っていることを十分感じることができました。 第一班で来ていたナターシャ達が「南」を離れる日の前日のことです。太陽が西に傾き日差しが弱まってきた夕方の海で、偶然彼女に会いました。一人で打ち寄せる大波に乗って遊んでいましたが、声をかけるとパッと笑顔になり手招きしてくれました。覚えたてのロシア語「バリショエブァルナ(大きな波だ)!」と叫んでは覆いかぶさる高波を必死でジャンプするしかない私でしたが、ナターシャはずっと手をつないでくれました。近くで遊んでいる悪戯坊主達がちょっかいを出してきても「邪魔しないで!」と追い払っていました。風がつめたくなったことに気づくまで、私たちはただ笑いながら波乗りをしていました。彼女の体が心配で「もう帰ろう。風邪をひくよ」と何度言っても海からあがろうとしません。目に見えない何か大きなものに挑むかのようにひたすら大波に向かっていく彼女の姿が今でも目に焼き付いて離れません。 お別れの日、ナターシャは精一杯のおしゃれをし真っ赤なスーツを着ていました。お別れ会では野外ステージに並んだ日本人に対して感謝の言葉やプレゼントを贈る場面がありました。その時ナターシャは、素早く駆け寄ってきて小さな素焼きの壷と木彫りのスプーンを手渡すと強く抱きついて来ました。「また来年の夏会いましょう」と伝えてもらうと彼女は少しの間考え込み「冬に会いたい」と言いました。私は、その理由をあえて尋ねることはしませんでした。「南」で再会できた子ども達、そして新たに出会えた子ども達に感謝の言葉を述べ別れを告げたもののバスはなかなか出発しません。菊ちゃんと私はお互いに顔を見合わせニヤッとしました。二人とも同じことを考えていたようで、すぐさま門の所に走って行き、出て行くバスをとおせんぼするように立ちました。バスの中の子ども達のびっくりした顔がだんだん大きな笑顔になり、みんな立ち上がって手を振っていました。お互い「また来年必ず」と手を振り続けました。 我が教室の実状は? 教えてあげるというよりも一緒に楽しもうという気持ちが一番です。昨年マスターした子ども達はもちろんのこと、初挑戦者たちも“折り染め”の楽しさ、美しさを十分満喫したようです。染めた和紙を貼った団扇をオデッサ遠足に持っていった少女もいました。一単位時間が短かく子ども達の折り紙経験、技術水準を過信しすぎたこともあって千代紙の薬玉作りなどは急きょ変更となりました。“刺し子”の花ふきんも諸事情でちょっと延期。日本フェステバルではミニおにぎり三種、駄菓子の詰め合わせ、フルーツ寒天の売れ行きが良く胸を撫で下ろしました。カリカリ梅はダメ。割り箸で練る水飴やベビースターラーメン、笛ガム、パチパチキャンディは大好評でした。食堂のおばさん達も皆研究熱心で、寒天パウダーや海苔、かき氷シロップ、アルファ米、ふりかけなどを見るたびに質問攻めで嬉しい悲鳴でした。 |