こんにちはグジー・ミハイル ロマノビッチです。私は、1983年からチェルノブ イリ原子力電所で働き始めました。職場は第4原子炉からおよそ250メートルのころにありました。仕事は通常、さまざまなケーブル類の接続、機械類の設置や組み 立てを行なっていました。当時はおよそ400人が働いていましたが、原子炉の稼動 前にはソビエト連邦中のすべての原子力発電所からの出張者がさらに250〜300 人は働いていました。
チェルノブイリ原子力発電所は、従業員が居住していたプリピャチの町から約2.キロメートルのところにありました。 町の人口は約6万人のまだ若い町で、旧ソビエト連邦の多くの共和国からの人びとが働き、より良い将来を夢見て子どもを育てていました。
しかし、私たち家族と子ども達の将来を決定付ける悲劇が訪れました。チェルノブイリ原子力発電所の事故は皆が眠っている1986年4月26日の夜に訪れました。の日付は永く人類の記憶に残ることになりました。チェルノブイリ原発の事故は原x力エネルギー利用の歴史の転換点となり、制御を超える原子力がどれだけ危険であるか、そして原子力と共存して行く事がいかに困難であるかを示しました。
4月26日は普通の土曜日でした。私たちの子どもたちは学校に行き、放課後はキエフからきた人形劇を見に行くことになっていました。朝になって、原発で事故が起こり、爆発があったことを知りました。高い建物のバルコニーからは火災が見えたそうです。町はいつもと変わらない1日を送っていました。人々は人生を、春の暖かい太陽を喜び、5月の祝日を楽しみにしていました。子ども達は公園で遊び、母親達は小さな赤ちゃんを乳母車に乗せて散歩を楽しんでいました。カーチャは3月28日に生まれたばかりで、まだひと月にもなっていませんでした。
町には装甲車が走り、石鹸の泡で歩道や車道を洗浄していました。口の中には苦味が 残りました。事故が起こったことが明らかになってから、私たちは学校から子xども達 を連れ出しました。私たちは、この事故が健康にとって恐ろしいものであることを知 り、友人達と車で町を出ることにしました。しかし、警察が全ての道路を封鎖しx町 を脱出することはできませんでした。
そうして、私達は事故の後、1日を町で過ごしました。私達の家のそばでも、昼も夜も警察官が誰も町を抜け出さないように見張っていました。後に、このときすでに大量の放射能を浴びて被曝していたということを知りました。4月28日の朝、地元のラジオでプリピャチの町からの緊急退去が伝えられました住民が怖がらないように、何も恐ろしいことは起こっていないと伝えていました。避難する期間は3〜5日間だけで、すべて正常化してからまた町に戻れると伝えていました。必要なことは、重要書類と現金を持ち出すことでした。一軒一軒の家の玄関にバスが止まりました。一説では、プリピャチの町からキエフの方向へバスの車列が20キロも続いたと言われています。
プリピャチの町のはずれにある鉄道の駅には、一度に大勢の住民を運び出すために何両もの列車が送りこまれました。人々にパニックは起きませんでした。ただ、自分たちが住み働いた、若く美しい町の駅から約2キロ先にある第4原子炉が、まるで火山のように煙を上げているのを見ると心が痛みました。町に戻れると希望をもつ者は、ほんのわずかでした。翌朝、私たちは親戚のところへ向かう列車に乗っていました。
(つづく)
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