‘06年4月・5月ベラルーシ訪問

報告: 佐々木 真理


子ども基金ではウクライナ・ベラルーシの病院、救援団体、保養所への支援の他に、「日本の里親から病気の子どもへの支援」、「甲状腺手術後の学生への支援」、「甲状腺手術後の若い家族への支援」を行っています。その他に、現地団体からの要請があり緊急に支援が必要と判断した場合は、1年間の「緊急支援」を行っています。その後も状況がよくならなければ支援期間を延長し、日本の里親からの支援に切り替える場合もあります。今回の訪問で「チェルノブイリ20年の国際会議」での写真展開催後、いくつかの家族を訪問しました。そこでは新たに腫瘍が発見された子ども、再検査のため海外へ行く子どもなど、どの家族も差し迫った状況であることを感じました。また、ゴメリの救援団体「困難の中の子どもたち」が日本への支援要請を準備していた一人の女の子は2月20日12歳で亡くなった、という悲しい知らせを聞きました。

緊急支援の子どもたち

G・ナースチャ(女) 2001年生まれ ゴメリ州レチッツァ地区ボグダノフカ村

両親、祖父母、2歳年上の姉サーシャと6人暮らし。ナースチャは2歳の時、急性リンパ白血症と診断され化学療法を受けた。1年間ミンスクの病院で入院。入院中は母が付き添っていた。現在は月に一度ミンスクに、週に一度レチッツァに検査に通っている。肝臓、腎臓、心臓にも問題がある。カルシウム剤、ビタミン剤の他、薬草療法も行っている。姉サーシャも心臓に問題がある。父親も心臓の薬を飲んでいる。両親は以前レチッツァ市内で働きながら暮らしていたが、ナースチャが病気になったため祖父母のいる村に引っ越してきた。母親はナースチャが病気になってからは職に就いていない。母親自身も体調が悪い。祖父母は年金生活者。家族の住む村には水道とガスが通っていない。庭に菜園があり、豚・牛・馬・鶏を飼っている。野菜、肉、卵、牛乳、チーズなど、食べ物は自給自足。チェルノブイリ事故のことは5月1日か2日アメリカのラジオ放送で知り、自国のニュースは聞かなかったそうだ。ナースチャは詩を朗読したり歌を披露したりしてくれた。


V・サーシャ(男) 1999年生まれ ゴメリ州ロガチョフ地区ストレニキ村

家族は両親、祖父母、4歳と6ヶ月の2人の妹。祖母が面倒を見ている6人の孤児も一緒に暮らしている。肉や野菜等の食べ物は自給自足。

父親の家族は81年ロシアから移住。母親はゴメリ州ブダ・カシリョフスク地区の村で生まれた。チェルノブイリ事故当時、父親の家族は現在の村に、母親は自分の村にいた。

サーシャは昨年12月に手術をした。その1年半ほど前からひどい頭痛が始まり、歩行が困難になっていった。検査の結果脳腫瘍とわかりミンスクの病院で手術をした。2週間後、小児血液・腫瘍センターに移り、リハビリ治療を2ヶ月近く行った。脳腫瘍だけでなく他の多くの臓器にも問題があることがわかった。

今年3月に2度目の手術を同じ病院で受け入院していた。訪問した4/26の2週間前に病院から戻ってきたばかりだった。しかし一昨日の検査の結果、新たに腫瘍が発見されたとのことだった。父親「ミンスクの担当医師からの返事を待っているところです。また手術が必要になるかもしれません。サーシャはとても疲れやすく、食欲もあまりありません。ミンスクに検査に通うのは、経済的にも体力的にも大変です」祖母「こんなに早く支援をしてもらえるとは思いもよりませんでした。日本の皆さんに心から感謝します。私たちは25年前にロシアから移住してきました。ここは自然が美しく住みやすく気に入っています。でもまさかこのようなめに遭うとは・・・。嫌がるサーシャをミンスクの病院に連れて行く時「検査だけだから、手術なんかしないから」となだめました。でも結局は手術が必要で、「おばあちゃんはうそつきだ」と泣かれてとても辛かったです」


E・サーシャ(男) 1993年生まれ ゴメリ市

両親、年金生活者の祖父母、25歳の長男とその妻の7人暮らし。チェルノブイリ障害者と避難民のために建てられたアパートに5年前から住んでいる。父親は1年前に解雇され現在無職。マッチ工場に勤める母親の月給は110ドル。両親もサーシャもゴメリ市で生まれた。

サーシャは98年に脳腫瘍の手術をした。(頭の後ろ首の上あたりに手術の跡がある部分を母親は示した)その後ミンスクの小児血液・腫瘍センターで放射線治療を受けた。現在は1年に一度ミンスクに検査に行く。訪問した4/27の夜も検査に行くところだった。「手術後1年間は全く歩けませんでした。もう歩行は無理だと診断されていた為、歩き始めた時医師たちは驚きました。今も脳の腫瘍はとても奥深くにあり全てを取り除くことができません。定期検査が必要です」と母親。サーシャは本来7年生だが、入院していた為2年遅れで5年生に通っている。数学とロシア語が好きだという。ゆっくり歩くことはできるが、少し小走りになるとよろけてしまう。階段は介助が必要。両手、特に右手の震えがあり字を書くのが困難。学校ではいじめられることが多いという。「それでも将来ちゃんと働いて生きていくために勉強しないと。リハビリもしないと」と母。今のサーシャの夢は自転車に乗ることと、友だちとサッカーをすることだという。

おとなしくて聞き分けのよさそうなサーシャ。いつかリハビリの効果がでて、書くことも走ることも、自転車もサッカーもできるようになってほしい、いじめられてもくじけないで、ゆっくりでも自分の道を歩んでいってほしい、と心から願う。


若い家族

M・イーラ 85年生まれ 娘クリスチーナ 03年生まれ ゴメリ市

訪問した4/25の前日、3歳の娘クリスチーナの検査のためミンスクから戻ってきたばかりだった。予約していた担当の医師が不在だったそうだ。専門医はミンスクにしかいないので通わなければならない。「クリスチーナは病院で注射をされると、恐る恐る「ありがとう」と言います。白衣の人を怖がります。いつも病院に行っているので、普通小さな子どもが知らない「点滴」「注射」などの言葉を知っています」とイーラは話した。

幼稚園に通っているクリスチーナは同年齢の子どもよりも体が小さい。「医師からはもっと食べさせるように言われるが、あまり食べたがらない。もしかしたら普通の子どもより胃も小さいのかもしれない」と祖母。クリスチーナは最近耳があまり聞こえないようなので検査をしないといけないそうだ。また、いつも鼻がつまっていて口で呼吸をしている。クリスチーナは染色体が45本しかない。生まれてから6ヶ月間入院し、今までに4回入院した。イーラは出産した時「あなたはまだ若いのだから、この子はここに置いていきなさい」と言われたそうだ。また、生まれた時は爪がなかったそうだ。写真では指の先が赤く写っていた。その後爪はだんだん生えてきた。「クリスチーナがこうなったのは、もしかしたらイーラに甲状腺がないせいかもしれないし、たまたま運悪くそうなったのかも」とイーラの母は目線をひざに落とした。

イーラの夫は農業用トラクターの会社に勤務している。住んでいるアパートは家賃だけで70ドルだが夫の月給は150ドル。イーラの両親と兄と同居している。イーラは現在美容師の専門学校に通っている。チロキシン(ホルモン剤)とカルシウム剤を服用。大変疲れやすく、学校から帰ってくるとぐったりしている。「母がいなかったら、一人では子どもの世話や家事は大変だと思う」
イーラは96年に甲状腺を全部摘出する手術を受け、放射性ヨード治療を6回受けた。「昨晩(4/24)ロシアのテレビ局でチェルノブイリ事故の特集番組がありました。子どもたちが甲状腺の病気になったことなど、詳しく説明していたので、自分がどうして甲状腺の病気になったかがよくわかりました」また、「学校の検診で、すぐにミンスクで手術をしないといけないと言われた時、どうしていいかわからなかった」とイーラの母。

両親はブラーギン(汚染のひどい地域)出身で、夏はいつも家族でそこへ遊びに行っていたという。86年5月1日(チェルノブイリ事故が起きたのは86年4月26日)もブラーギンの祖父母のところにいたそうだ。「多分そこでたくさんの放射能を浴びたから私はこうなったのだと思います」とイーラ。その後、ブラーギンの親類は一人の叔母を除いて全員亡くなった。最近も2週間クリスチーナを連れてそこへ行ってきたと言うので、少し驚いて「放射能のことは心配していないの?」と聞くと、一瞬黙った後「町は空気が悪いし、他に休暇に行くところがないから仕方がないのです。ブラーギンの村は自然があって空気もいいです・・・」(ベラルーシの大統領は、今まで放射線汚染地域とされていた場所を「もう人が暮らしても大丈夫、安全」と、作物の植え付けや移住を勧める宣伝をしている。私が話を聞いた人の中でそれを信用している人はいなかった)

イーラがクリスチーナをトイレに連れて行った後、母親が私の耳元で「実はイーラは肺にもガンが転移していたのです」と小声で話した。最初の甲状腺ガンの手術の時にすでに肺に転移していたのだという。「彼女や夫は知っているのですか?」と聞くと、「いいえ、話していません」と目に涙を浮かべた。肺への転移は大変危険だとされている。イーラとクリスチーナが笑いながら部屋に戻ってくると、母親は何もなかったようにお茶を入れ始めた。私は何だかそれまでとは違う世界を見ているような気がした。そこにある風景が遠ざかっていくような感覚だった。その時はイーラの母のように、何事もなかったかのように振舞っていたが、その後はイーラのことが頭から離れない。

Y・ヴィーカ 83年生まれ  娘アリーナ 04年生まれ ゴメリ市

「日本の支援のおかげでマッサージ治療を受けることができ、娘は歩けるようになりました。本当にうれしい。でもマッサージは今後も必要なようです。おむつで締めつけている時はまだ普通に見えますが、はずすと「しゃん」としません。アリーナは脳に嚢腫があります。片方の目は斜視です。今後どうなっていくかは医師もわからないと言います。今のところは大丈夫ですが、視力が落ちたら手術が必要だとも。3歳以降、詳しい検査をする予定です」ヴィーカは子どものころに甲状腺の手術を受けた。チロキシンを服用。背骨が痛いことが多く、特に朝起きる時はひどい痛みで辛い。「放射能の影響だと思う」と本人は話した。

里 子

D・マーシャ(女) 1992年生まれ ゴメリ市

祖父母、叔母と4人暮らし。父親は別居。母親は死亡。母親は放射線汚染地域であるレチッツァ地区ロービンスカヤ・スロボダ村の出身。マーシャはそこで生まれ、母親が亡くなる2001年まで暮らしていた。頭痛が頻繁に起こるようになり、ミンスクの病院に行ったところ「脳下垂体腺種」と診断された。05年7月検査と保養のためにアメリカに行ったが、検査の結果「脳腫瘍」とわかり、1週間以内に手術をしないと両目の視力が失われる恐れがあると言い渡された。胃等の他の臓器にも問題があることがわかった。渡航時には手術の約束はしていなかったが、ゴメリの救援団体と協力関係にあるアメリカの団体が手術費用を支払った。同年10月ベラルーシに帰国。現在は甲状腺にも問題がある。祖母「私と夫の年金だけで生活しています。野菜はすべて自分たちの菜園で作っています。マーシャがこれから大きくなったら学費等いろいろとお金がかかるでしょう。里親の方のご支援に心から感謝します」

訪問した4/22の夜、マーシャはアメリカに検査に行くことになっていて、部屋には大きなトランクが用意されていた(アメリカで手術を受けた子どもは、その後も検査のために受け入れてもらえることになっているとのこと)。翌日はパスハ(復活祭)という祝日。各家庭では染めた卵に絵の着いたシールを貼り、お祝いのパンを焼く。マーシャが家族とそのお祝いを過ごせるのは今日の夜だけだ。
今回、ゴメリの救援団体「困難の中の子どもたち」の家族を訪問した際、自らも甲状腺の手術を受けた22歳の女性がボランティアとして同行した。初め団体の代表は、他の家族の悲劇を目の当たりにするこの仕事は彼女にとって辛いのではないかと考えたが、本人がぜひやりたいと引き受けたのだそうだ。彼女は最後にこんな感想をもらした。「自分もいつかは子どもがほしいけれど、周りで生まれた子どもはみんなどこか病気を持っていることを知っているから、それを思うと恐ろしいです。今回色々な家族を訪問して、病気や生活の苦しさを見聞きするのは辛かったです。でもこれが現実だということはわかっています。今の自分の気持ちをうまく説明することはできませんが、一緒に仕事をさせてもらってよかったことだけは確かです」

 

甲状腺手術後の若者の結婚

子ども基金は9年前から、ベラルーシの保養所「希望21」で「甲状腺手術後の子どものための特別保養」を行ってきました。初めは9〜13歳の「子ども」だった参加者たちは、現在は18歳〜21歳の「若者」です。

この保養で知り合った二人が4月28日に結婚式を挙げました。二人は、ベラルーシの救援団体「チェルノブイリのサイン」の会員で、男性のイワンは特別保養の第1回目から毎年参加、女性のガリーナは2002年に甲状腺の手術を受けた後、保養に参加しました。「サイン」では甲状腺手術後の若者同士の結婚はこれが初めてで、喜びと共に少し心配も入り混じっているとのことです。子ども基金にとっても特別保養で知り合った者同士の結婚は初めてのことですので、本当にうれしい知らせでした。4月に私がベラルーシに滞在していることを知った彼らは、結婚式に招待してくれました。「サイン」のスタッフ3人と一緒にイワンの故郷ザスラブリ市へお祝いに駆けつけました。イワンのことを子ども頃からよく知っているため、こんなに大人になりガリーナのような素敵な女性と結婚することを、心からうれしく思いました。祝宴の挨拶の中でイワンの母親は、二人が日本の支援による保養で知り合ったことを、また「サイン」の代表はチェルノブイリ子ども基金への感謝を祝辞の中で述べました。私からは、チェルノブイリ子ども基金、広河隆一、そして日本の多くの友人たちからのお祝いを伝えました。

クラスノ・スロボダ慢性呼吸病の子どもの寄宿学校

子ども基金のマークが壁に大きく描かれている部屋でアロマセラピーが始まっていました。一度に10人の子どもが30分間治療を受けられ、終了後20分間換気装置を作動させ、その後また次のグループの治療が行えるようになっています。アロマセラピー専門家の指導を受けた学校の医療担当者が器具を取り扱っています。治療の専門書も購入しました。この治療後は、呼吸が楽になる、鼻、のどの症状がよくなる、心の落ち着きを得られる、などの効果が出ています。何種類かのアロマオイルを試し、各々の子どもに合ったものを選ぶようにしています。治療後は各々の子どもの様子をチェックし、次回の治療に役立てています。皆様からお寄せいただきました刺しゅう糸、折り紙、文房具などのおみやげを渡しました。また広河隆一のカレンダーの写真を使って学校内で写真展をしよう、というアイデアも出ていました。現在この学校ではパソコンの老朽化のため、子どもたちの授業や放課後のクラブ活動が行えないという問題が起きています。

校長先生からのメッセージ:日本の皆さんのおかげで子どもたちはアロマセラピーを受けることができるようになりました。子どもたちは皆喜んでいます。職員一同、募金者の方にお礼を申し上げます。


ゴメリ脊柱側湾症の子どものための寄宿学校

子ども基金ではこの学校に対して、子どもの治療に必要な医薬品購入のための資金を支援しました。この学校が外国からの支援金を受け取るのは初めてのことで、新たに銀行口座を開設し、政府の許可を取るなどの手続きが必要でしたが、5月中旬に当局からの許可がでたという連絡が入りました。

校長先生からのメッセージ:手続きに時間がかかり心配されたと思いますが、やっと購入できることになりました。本当にありがとうございます。また折り紙や文房具、カレンダーをいただき皆喜んでいます。


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