‘06年4月・5月ベラルーシ訪問 (後編)

報告: 佐々木 真理


【若い家族】

P・オーリャ

1978年生まれ。92年に甲状腺ガンの手術を受けた。93年、ゴメリ州コルマ村からミンスクに家族全員が強制移住させられた。ミンスク市内に家族4人で住んでいた。ミンスクに移り住んだ当初は都会の暮らしに慣れなくて大変だったという。その後、大学を卒業し銀行に勤務。職場の同僚と04年に結婚。05年9月に娘カーチャを出産。現在は夫の実家ミンスク州クリニツァ村で夫と娘、姑と2DKのアパートで暮らしている。

「今は村の静かな暮らしに慣れました。もうミンスクの暮らしには戻りたくない。妊娠中も菜園でちょっと作業をしたり、近くの森できのこを採ったりして、体を動かしていたおかげで楽に出産できたのかもしれません。妊娠中は初め順調でしたが、医師から流産の危険があると告げられ3週間近く入院。退院して仕事に復帰しましたが、また入院。全部で3回入院しました。しかし幸い無事に出産し、子どもは健康に生まれました。子どもは1カ月ごとに検査を受けています。私は母乳を与えているため、今はチロキシン(*1)を飲んでいません。自分の検査は妊娠中に受けただけなので、また検査を受けに行かなければなりません。日本から支援をしてもらえて本当にうれしいです。ありがとうございます」夫ジェーニャ「日本からの支援金は子どものためにだけ使っています。子どもの服などは「チェルノブイリのサイン」(*2)からもらっているので買わずにすんでいますが、その他にもいろいろとお金がかかるのでとても助かっています」

 

P・アーニャ

1983年生まれ。93年に甲状腺ガンの手術。放射線ヨード治療(*3)を受けた。05年9月に息子アルチョムを出産。アーニャはルニニェツ市近くのコジャン・ゴロドク村出身。両親は今もそこに住んでいる。そこは本来移住しなければならない放射線汚染地域だが、住人(ほとんどが老人)は誰も引っ越したがらないそうだ。アーニャはその村の生まれなのでチェルノブイリ障害者として年金やアパートが与えられた(甲状腺の手術をした子どもでも、ルニニェツ市内で生まれた場合は障害者としての特典はないそうだ)。

現在ルニニェツ市内のアパートで子どもと2人で暮らしている。住宅ローン+家賃+公共料金で月に約42ドルかかり、暖房代がかかる冬には約98ドルかかる。国からの子どもの養育手当は約79ドル。妊娠中は入院していたが出産は順調だった。その後だんだん子どもの頭は大きくなり、水頭症と診断された。アーニャはチロキシン、カルシウム、AT-10(*4)を服用。チロキシンは無料。カルシウムは「サイン」からもらっている(*5)。AT-10は以前地元の病院で無料だったが、今はミンスクにしかなくて自分で買わなければならない高い薬だ。

98年に一度だけ「希望21」の「甲状腺手術後の子どものための特別保養」(*6)に参加した。その時の「日本週間」(*7)の冊子を今でも持っていて、時々見ては思い出すそうだ。この日アーニャは、ちょうど支援金を受け取りにミンスクの「サイン」のオフィスに来ていた。大きな荷物(サインの団体からもらった子どもの服やおもちゃ、お菓子等。ドイツからの支援物資)を二つ抱え、ミンスクから6時間かかる家へ帰っていった。アーニャは初め、私の顔を見たら泣き出してしまった。あとで「サイン」のスタッフは、「たぶん、夫もいなくて病気の子どもが生まれたという、心細さと悲しさと恥ずかしさで泣いてしまったのだと思う」と話した。

*1:甲状腺を摘出した人や、甲状腺に異常のある人に必要なホルモン剤
*2:ベラルーシの救援団体。甲状腺手術をした人たちを会員にもつ。ドイツから人道支援物資が届くことがある
*3:放射腺を出す放射性ヨードのカプセルを飲むことで甲状腺の腫瘍を局所的に被曝させる放射線治療
*4:カルシウムの吸収をよくする薬

S・ミーシャ

1979年ミンスク市生まれ。95年5月甲状腺結節切除。同年7月甲状腺全摘出。第3級チェルノブイリ障害者と認定されている。

妻クリスチーナ、息子マキシムとミンスク市内で3人暮らし。チェルノブイリ障害者の特典としてアパートを与えられた。ミーシャの母はミンスク市内の別のアパートで暮らしている。ミーシャの実の父親はチェルノブイリ事故後、原発20km圏内で働いていた。その父親は甲状腺の病気になり手術しなければならなかったが、その前に酒が原因で亡くなったという。

ミーシャ現在は靴職人として働いている。職場では障害者であることを隠している。「誰も障害者を雇いたがらないし、障害に応じて労働時間が短くなるため給料が減らされる。“労働能力何%喪失”と認定され、少ない給料と手当でどうやって暮らしていけというのか」とミーシャの母。本来なら障害者の特典として与えられる保養クーポンなども利用していない。

「息子は食が細いわけではないのですが痩せています。体が弱っているせいなのか、それともホルモンの影響ですぐに疲労してしまうせいなのか、子どもの時からよく眠ります。見ての通り、息子は青白い顔色をしています。職場ではいろいろな塗料を使うのでそれが体に良くないことはわかっています。でも他の仕事に就くことはできないのでどうにもならないのです」ミーシャは手術で甲状腺を全部摘出し、放射性ヨード治療を7回受けた。最後にその治療を受けたのは3年前。今も1年に一度は検査に行く。毎日チロキシンを服用。以前は手の先がむずむずと痒いような感覚があったが、最近は顔・手足・舌などに痙攣の症状が起こる。普通はカルシウム値が足りないと起こる症状だが、検査の結果ではカルシウム値は足りている。いつもカルシウム剤を服用しているが、痙攣が起こると病院で腕にカルシウム液を注入する。一度救急車で運ばれた時、病院にその注射がなかった。冬場はまだよいが、夏は週に1回は痙攣の症状が起こる。2005年には痙攣のため3週間入院していた。

「まるで毎日の歯磨きのように薬を飲んでいます。まずは朝起きてからチロキシン、朝食後カルシウム。薬AT-10は有料、自分で買っています。医師が処方してくれるのはベラルーシ製の薬だけです」とミーシャ。妻のクリスチーナは2001年に心臓の手術を受け、その後は年に一度検査を受けている。「本当は手術の後、障害者認定を受けることになっていました。でも“職業能力喪失”と認定されるとわかっていたので、申請書類を提出しませんでした。そのように認定されたら就職できなくなります。働かないと暮らしていけませんから」とクリスチーナ。その後も心臓検査の結果はいつもよくなかったが、妊娠中は特に問題はなかった。マキシムは今のところ健康に問題はない。2歳になったら甲状腺の検査を受ける予定である。


*5:購入代金は子ども基金が支援している
*6:子ども基金は、ベラルーシにあるチェルノブイリ事故被災児童のための学校サナトリウム「希望21」で、96年より毎年夏、甲状腺手術後の子どものための特別保養を実施してきた
*7:日本人ボランティアが子どもたちのために様々な日本文化の教室を開催した

S・マリーナ

1983年生まれ。99年に甲状腺腫の手術。

「私たち家族はゴメリ州ゴロドク村で暮らしていました。チェルノブイリ事故のことは公の情報は何もありませんでした。5月の初めに目の手術に行っていた夫がゴメリから戻って来て、初めて知りました。でもその前にも森の上をヘリコプターが飛んでいるのを見たので何かあったのだとは思っていました。その後、牛乳の検査、牛の血液検査、土壌(雨が降った)の検査等が始まりました。その村には事故後3年間住んでいました。それからビテプスク州のチェルノブイリ避難民のための家に移住しました。以前住んでいたゴメリの村は、今は森になっていて誰も住んでいません。引っ越してからは一度も行っていません。村人はベラルーシ各地に散らばりました」マリーナの体調がよくないため「サイン」の事務所に支援金を受け取りに来ていた母ヤニーナ(42歳)が話した。

マリーナは手術後、体が弱くなったという。最初の子どもは流産。05年12月娘ヴィクトリヤを出産。未熟児だったため1カ月間入院していた。マリーナは出産後母乳を与えていたが、家に戻ってからは母乳が出なくなった。今は2週間に一度検査を受けに行っている。現在は夫の祖母のところで暮らしているが、不便な村の暮らしで夫の収入も少ないため生活は大変だという。マリーナの母は、手作りのソーセージとチーズを「サイン」のスタッフへお土産に持ってきていた。

 

T・ナターシャ

1985年ミンスク州モロデチノ市生まれ。96年甲状腺ガンの手術。放射性ヨード治療7クール。最後に放射性ヨード治療を受けたのは2004年。

両親、妹、自分の娘と3部屋あるアパートで暮らしている。ナターシャは結婚していない。子どもの父親については話したがらない。毎年「希望21」の特別保養に行っていた。そこでは毎年楽しい思い出ができた。妊娠1カ月の時、流産の危険があったため入院したがその後は特に問題はなかった。05年5月に出産。「内分泌医からは、“この年齢で出産してよかった、もっと後だと無理だったかもしれない”と言われました。出産後、それまでのようにチロキシンを服用しながら母乳を与えていましたが、1週間後に飲むのをやめました。薬が母乳に影響を与えるからよくない、ということを病院で誰も教えてくれなかったのです」

子どもは皮膚アレルギーがある以外は、今のところ健康に問題はない。ナターシャはモロデチノ商業経済カレッジ4年生。出産のため休学していたが、5月29日からテストが始まる。あと1年で卒業。その後のことはまだ決めていない。「子どもの食品、ビタミン剤やパンパースなどお金がかかります。日本の支援は本当にありたがいです」とナターシャ。

【奨学生】

M・ユーリヤ

1985年生まれ。95甲状腺腫の手術。

ミンスク市生まれ。チェルノブイリ事故の当日、原発から15kmの場所にある祖母のいるモロチキ村にいた。そこはプリピャチのすぐ近くである。その後、5月2日に村の住民と共に避難した。現在その村には誰も住んでいない。その後は一度も行っていない。「大統領はもう住んでもいいと言っているが、私の考えではそうは思わない」とユーリヤ。ミンスクに戻ってすぐに病院で検査を受けた。甲状腺の結節が3個あり、そのうちの1個を切除した。今も毎年検査を受けている。結果次第ではまた手術が必要になるかもしれないのでいつも不安だと話した。

両親、妹と2DKのアパートで暮らしている。ユーリヤはベラルーシ国立大学歴史学部3年生。専攻は歴史とドイツ語。将来はドイツ語の教師になりたい。

 

S・セリョージャ

1988年生まれ。95年、ガンのため甲状腺右部分摘出。2000年には残りの左部分も摘出。チロキシンとカルシウム剤を毎日服用。ミンスク市内で母親と二人暮らし。ベラルーシ国立情報・無線電子工学大学1年生。

甲状腺を全部摘出してからは、とても疲れやすくなったという。今の体調はどうか、と聞くとセリョージャは「甲状腺を全部取ったのです。そういう健康状態ということです」と少し諦めたような笑みを浮かべた。「最近血液検査の結果が悪かったので、血液学専門医のところへ行くように言われたのですが、そこの治療は有料です。まだ行っていません。かかりつけの病院で薬をもらったのでそれを飲んでいます。大学から帰って来ると、とても疲れて眠気が起こります。記憶力も落ちています。でも勉強の成果を出したいですし、勉強が好きですから頑張っています。今は6月のテストに備えているところです」

セリョージャは2000年にベラルーシ・ウクライナの子どもたちと一緒に来日。「日本に行ったことは忘れられない素晴らしい思い出。ヨーロッパの国々とは全く違う文化で、何もかも珍しく面白かったです。お土産は今でも大事に持っています」と金閣寺のキーホルダーを見せた。

 

M・ターニャ

1985年生まれ。94年甲状腺ガンの手術。チロキシンを服用。

モギリョフ経済技術カレッジを卒業。現在はモギリョフ国立食料大学通信制の学生。チェルノブイリ障害者への特典としてモギリョフ市内に1DKのアパートを得た。訪問した5/22は、ちょうど最後の数学のテストの日だった。ターニャは合格してほっとして帰ってきた。

「手術後は学校で体育の授業を受けさせてもらえなかったのが辛かった。何か起きたら大変だと言うことで、教師が許可してくれなかった。バレーボールだけは頼んで参加させてもらった。今私は10時から5時まで親類の経営する小さな個人企業で会計の仕事をしている。病院の検査や、大学のテストのある時は休みをもらっている。夜家に戻ってから勉強をしている」


M・ディーマ

1985年生まれ。96年甲状腺ガンの手術。

ブレスト州ストーリン地区ベロウーシャ村生まれ。医科カレッジを最優秀成績で卒業後、現在はミンスクの医科大学の1年生。歯科医を目指している。現在はミンスクの大学の寮で暮らしている。



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