‘06年9月ベラルーシ訪問(前編)
報告: 佐々木 真理


子ども基金が支援をしている「甲状腺手術後の若い家族」「日本の里親から支援を受けている子ども」を9月に訪問しました。その間、里親から支援を受けていた二人の子どもが命を落としました。 

ベラルーシのゴメリ市に住む13歳の男の子は8月31日に亡くなりました。2年前に手術(肩の神経組織に腫瘍)を受け、その後も治療を続けていましたが肺へ転移していました。突然咳が始まり吐血し、救急車で病院に運ばれてから5日後に亡くなりました。里親からの支援金を受け取りに母親と一緒に救援団体の事務所に来たのは、亡くなるわずか10日前のことでした。「新学期(9月1日)が始まるからいろいろ買う計画があるんだ」と話していたそうです。あまりに突然の死に母親はお墓の前で泣き崩れ、12歳の娘がその肩を抱いていました。また、9月13日にはウクライナの15歳の女の子が亡くなりました。6年前に甲状腺ガンの手術を受け、その後肺や骨組織などに転移があり、治療を続けていましたが病気の進行は止められませんでした。

チェルノブイリ事故から20年経つ今も、子どもたちの命が脅かされています。一人の人が複数の病気を抱えていたり、家族の中に何人かの病人がいたりする現実の中で人々は暮らしています。


甲状腺手術後の若い家族

A・セルゲイ 1980年生まれ ミンスク市

2001年4月甲状腺ガンの手術。Lチロキシン(ホルモン剤)服用。放射性ヨード治療を受けた。第3級チェルノブイリ事故障害者に認定。1986年チェルノブイリ事故が起きた時、セルゲイは母と妹と一緒に祖母の住むブラーギン地区ヌジチ村に行っていた。ミンスクに戻ってからは家族全員が病院に送られた。検査の結果、高い濃度の放射能が体に蓄積されていることがわかった。家族全員が内分泌専門医の管理下に置かれた。95年に妹(84年生まれ)が甲状腺ガンのため手術を受け、01年には同じ診断によりセルゲイも手術を受けた。その後祖母の住む村は放射線汚染濃度が高く危険なため、全住民が移住させられた。セルゲイは術後甲状腺機能減退症の他、胆のう・肝臓・心臓にも異常がある。

03年10月結婚。妻ナタリヤ1980年生まれ。05年8月18日息子ニキータを出産。現在は順調に成長している。06年3月、セルゲイがチェルノブイリ障害者であることによる特典でアパートが与えられた(無料ではない。家賃は一般の半額)。内装修理のためにかかった費用をローンで支払っている。


S・ナターシャ 1978年生まれ ミンスク州ベレジノ地区コトヴォ村

91年甲状腺ガンの手術。Lチロキシン服用。チェルノブイリ事故が起きるまでナターシャの家族はモギリョフ州コスチュコヴィチ地区ヴェリーキ・ボール村で暮らしていた。90年5月、家族全員が移住する義務があり、現在の住居へ送られた。汚染地域からの避難家族である。96年結婚。同年息子を出産。97年に夫と離婚。子どもを一人で育てていた。04年に再婚。06年3月娘を出産。現在はナタリヤの両親と一緒に暮らしている。広い畑での農作業や家畜の世話で朝から晩まで働いている。ナターシャも両親も日焼けした肌をしている。訪れた時には庭に大きな南瓜が山積みになっていた。牛乳は自分たちが飲む分以外は、“ただのような安い値段”でコルホーズに引き取られるという。自分のうちで食べるチーズも手作りである。ナターシャは森でイチゴ類を採り売りに行くこともある。同じ時期にナターシャの家族の他に数家族がこの村に越してきたが、彼らは元の村に戻ってしまった。今この村に残っている避難民はナターシャの家族だけだ。


G・カーチャ 1984年生まれ ミンスク市

1996年甲状腺腫の手術。「手術後はいつも頭が痛かったり、ふらふらしたりした。医師は薬を飲めばよくなると言ったが、あまり効き目がなかった。今でもそのような症状はよくある」Lチロキシンとカルシウム剤を服用。甲状腺の他に腎盂炎を患っている。障害者年金を受け取っていたが、18歳になり認定を取り消された。「また何か健康に異常がでたら再認定の手続きをする」と言われたそうだ(現地救援団体「チェルノブイリのサイン」のスタッフによると、18歳になると障害者認定を取り消されるケースが多い)。

カーチャは6人の子どものいる家庭で育った。中等学校9年生を終えてからは工場で働いていた。06年1月に結婚。夫(83年生まれ)は解雇され無職。ミンスク市の職安に登録しながら、工場で不定期な仕事をしている。06年2月息子デニスを出産。妊娠初期にひどい中毒にかかった。その後流産の危険があり3回入院。慢性病であった腎盂炎が悪化した。血液と尿検査の結果は大変悪く、医師は妊娠の経過を大変慎重に見守った。出産はうまくいき、子どもは現在順調に成長している。現在はカーチャの家族のアパートで暮らしている。カーチャの母も甲状腺結節の手術を2回(90年と93年)受けていて、チロキシンを服用している。

日本の里親から支援を受けている子どもたち

K・ヴェロニカ 91年生まれ モギリョフ州ボブルイスク市

05年12月甲状腺ガンの手術。糖尿病(04年の9月より)も患っている。1日に3-4回血糖値を調べなければならないが、検査紙の値段が高いため、節約して検査回数を減らしている(国が無料で支給するのは1日1回分の検査紙代のみ)。インスリンがないと生きていけない。自分の住む町には検査・治療できる病院がないため、ミンスクの病院に通院している。ミンスクの病院では無料でもらえる医薬品類も、それが切れてしまうとボブルイスクでは自分で買わなければならない。その他、腎臓病・両眼網膜脈管病・動脈性高血圧症・左副腎結節過形成・脳下垂体微細腺種と診断されている。06年1月に診断放射性ヨード治療を受けた。Lチロキシンとカルシウム剤服用。甲状腺ガンの手術後は自宅学習をしている。将来は医師になりたいと思っている。

父(64年生まれ)は慢性咽頭炎・甲状腺ほう腫を患っている。母(66年生まれ)も05年12月甲状腺ガンの手術を受けた。娘の検査のついでに診てもらったところ、母親も甲状腺ガンとわかり、同じ病院で手術。「その時病気がみつかっていなかったら、今私は生きていなかったでしょう」と母親。Lチロキシンを服用。他にも腎臓病・慢性腎盂炎・動脈硬化性心筋硬化症・動脈性高血圧・慢性胃・十二指腸炎・副腎過形成と診断されている。「親戚にも友だちにも私たちほど重い病気の家族はいない。でも私たちは他の人たちと比べて不幸だとは思わない」と母親はきっぱりと言った。


S・ユーリヤ 88年生まれ ミンスク州ボリソフ市

2003年2月甲状腺ガンの手術。放射性ヨード治療を受けた。Lチロキシン150mkg、カルシウム剤服用。チェルノブイリ障害者と認定されている。父親は家の中のものを売るほどのアルコール中毒となり、2年前に親権を剥奪された。ユーリヤは06年9月にミンスクの教育大学に入学。心理学を学んでいる。初めは苦労した寮生活にも慣れてきた。週末に家に帰り母の料理を食べるのを楽しみにしている。今年8月「希望21」での特別保養※に初めて参加した。そこで知り合った多くの友だちと今でもよく連絡を取り合っているという。
※ 毎年夏に子ども基金が行なっている「甲状腺手術後の若者のための特別保養」


S・ソフィコ  1995年生まれ ミンスク市

06年4月甲状腺ガンの手術。続発性副甲状腺機能低下症。放射性ヨード治療を受けた。Lチロキシンとカルシウム剤を服用。母親は98年より行方不明。父親は再婚し別の家族と暮らしているため、ソフィコは年金生活者の祖母に引き取られた。祖母によると、ソフィコは手術後疲れやすく、またとても神経質になったそうだ。学校の制服や教科書などお金がかかり、祖母はやりくりに苦労している。野菜類は郊外の畑で作っている。「あなた方のような団体とめぐりあえて本当にありがたいと思っています」と話した。祖母はソフィコが帰宅する前に、「あの子の前で親のことは話題にしないで下さい」と私たちに頼んだ。しかしソフィコは屈託なく私たちに両親のことを話したり写真を見せたりした。この家を後にした帰り道、同行した「サイン」※のスタッフは「あの子がこれから大きくなったとき、自分を捨てた両親をどう思うようになるのだろう」と心配そうに言った。

※「チェルノブイリのサイン」ベラルーシのチェルノブイリ被害者のための団体。甲状腺手術を受けた子ども・若者を会員にもつ)


T・カーチャ 1992年生まれ ミンスク州クルプスキー地区クルプスキー村

2003年甲状腺ガンの手術。Lチロキシン服用。放射性ヨード治療を受けた。母親も甲状腺腫。また、カーチャは98年(6歳の時)から糖尿病も患っている。父親は勤めていた職場を解雇され無職。カーチャは1日に2回血糖値を計っている。それによりインスリンの量が決まる。本来は1日4回計ることが望ましいとされているが、テスト紙代を節約するため回数を減らしているのだそうだ。定期的にミンスクに検査に通っている。

カーチャは歯科医になりたいと思っている。「学校の友だちはみんな糖尿病がどんなものか知らない。私はがんばらないといけない」と意志の強そうな表情で話した。それでもテーブルの上のお菓子を見ると食べたくなるそうだ。その日も来客用のお菓子の前で手に持っている鍵の紐をぐるぐる回したり、足を小刻みに揺らしたりしてまぎらしていた。弟のミーシャと3人で家の近所を散歩した。すぐ近くの林にきのこがみつかる。「この先には小さな池もあるんだよ。自然がきれいでしょ。私はここが好き」とカーチャは話した。


K・アントン 1991年生まれ ミンスク市

2003年甲状腺ガンの手術。チロキシンとカルシウム剤を服用。ドイツで放射性ヨード治療を受けた。チェルノブイリ障害者に認定されている。母親は朝起きるとまず息子に薬を飲ませることが日課となっている。6歳の弟はよく病気にかかり、幼稚園も休みがちだそうだ。父(1969年生まれ)はリンパ肉芽腫。化学療法と放射線療法を行なった。他にも、慢性胃炎・十二指腸潰瘍・慢性胆のう炎・甲状腺ほう腫・慢性扁桃炎・慢性咽頭炎・腰の骨軟骨炎・網膜炎と診断されている。カザフスタン生まれの父親は、セミパラチンスク(旧ソ連時代に核実験が行なわれたところ)からそう遠くない場所に19歳(1988年)まで住んでいた。その後、親戚のいるゴメリへ移り住んだ。アントンの母親は、「もしかしたら夫はカザフですでに被曝し、さらにゴメリでも影響を受けたのかもしれない」と話した。


S・イーゴリ 1991年生まれ ミンスク市

甲状腺ガン。周辺気管と右側首リンパ節に転移。2003年に手術。放射性ヨード治療を受けた。弟(2003年生まれ)は定期的に甲状腺の検査をしている。今のところ問題はない。父親(1966年生まれ)も06年6月に甲状腺ガンの手術を受けた。以前は活動的だったが、手術後はよく頭痛が起こり大変疲れやすくなったという。



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