‘06年9月ベラルーシ訪問(後編)
報告: 佐々木 真理


 子ども基金が支援をしているベラルーシの救援団体「困難の中の子どもたちへの希望」(以下「困難」と略して表記)の会員を訪問しました。汚染地域と知りながらそこに住み続ける家族を目の前にして、何とかできないものかと、もどかしさを感じる場面が多くありました。

 チェルノブイリ事故障がい認定者には、住んでいる部屋の広さと家族の人数に応じてアパートを得る権利があります(家賃は無料ではなく、一般の半額)。しかし認定されてもすぐに引っ越せるとは限りません。その地域にまだアパートが建設されていないため、少ない部屋数の家に大人数で住んでいる家族もいました。子どもが「チェルノブイリ障がい児」に認定されたある家族には、国から新しい部屋が与えられました。しかし引っ越し先は以前と同じ汚染地域内でした。それは、障がい者に与えるアパートは住民登録をしている地域内と国が限定しているからです。他の地域に移住するには、住民登録料を支払うか、仕事を見つけなければなりません。お金を払って移住できたとしても、そこに仕事がなければ暮らしてくことはできません。「放射線被曝の影響で病気になった子どもに、汚染地域のアパートを与えて“障がい児特典”だなんて、一体私たちの国はなんという国なのでしょう」と「困難」のスタッフは嘆くように言いました。

 また、今回訪問したゴメリ州に住む子どもたちは、検査や治療のために首都ミンスクまで出かけなければなりません(列車でも車でも5時間ほどかかります)。子どもやその家族には、体力的にも経済的にも負担となっています。

甲状腺手術後の若い家族

P・ユリヤ 1985年生まれ。ホイニキ地区フラプコフ村。

 結婚後の現在はゴメリ州レチッツァ地区ジャトロフカ村で暮らしている(どちらの村も汚染地域)。

 92年甲状腺ガンの手術。その後放射性ヨード治療6クール。第3級チェルノブイリ障がい者に認定。Lチロキシン(ホルモン剤)、カルシウム剤を服用。ユリヤは手術後毎日のように、意識を失うほどの痙攣が起きた。原因は血液中のカルシウムが極度に不足のためとわかった。今でも薬を飲まないと意識を失うという。2005年に結婚。同年12月娘アナスタシヤを出産。長期に薬を服用しているため母乳を禁止された。娘は頻繁に感冒にかかり、重度の気管支炎である。もう少し大きくなったら精密検査をする予定である。夫(23歳)とその両親と同居している。夫も甲状腺に問題があり、リンパ節肥大のため手術が必要とされているが、今は手術を拒んでいるそうだ。現在はLチロキシンを服用。家族の住んでいるところは放射能汚染のため、長時間太陽の下にいてはいけないとされている地域だという。しかしその土地で井戸水を汲み、豚・鶏などの家畜を飼い、野菜を作っている。 「孫の健康によくないことはわかっていますが、今のところ他にどうしようもないのです」とユリヤの義母は言った。

 「放射能マーク」の立て札のある森は、ユリヤの住む村からそう遠くない。その森できのこを採っている人を見かけた。自分で食べたり、ゴメリに売りに行ったりするそうだ。そして森のすぐ近くの村では新しい家が建設中であることに驚いた。「放射能があまりに日常化してしまい、恐ろしいことですが、人々は慣れてしまっているのです」と「困難」の代表は話した。

日本の里親から支援を受けている子ども

C・アレクセイ 1992年生まれ。モーズィリ地区スロボダ村

 脊椎の神経膠星状細胞腫。98年、2000年にミンスクの病院に入院していた。01年には化学療法を受けた。さらに02年にも入院。手術はまだ受けていない。成長期のため脊椎の手術は難しいと言われている。体操や自転車は禁止されている。以前は学校に通うことも禁止されていた。退院後、アレクセイは精神的に大きなダメージを受けた。同じ年齢の子どもと交流を持つ必要があると専門家から指示されたため、現在は学校に通っている。庭には菜園・井戸があり、鶏を飼育している。アレクセイには2人の兄がいる。実の父親は亡くなり、母親が10年間1人で子どもたちを育てた。現在一緒に暮らしている継父は、脊椎の病気のため職に就くことができない。母親が木材加工所で働いて家計を支えている。

 帰り道、「困難」のスタッフは「あの母親は以前アルコール依存症になりかけたことがありました」と話した。貧困や家族の病気などによる精神的ストレスに耐え切れず、アルコール依存症になってしまうケースは多いと聞く。


K・エドゥアルド 1994年生まれ。モーズィリ市

 右副腎の神経芽細胞腫。生後6カ月で発病し手術、1歳までミンスクの病院に入院。96年にも入院。現在は年に一度ミンスクの病院に検査を受けに行く。エドゥアルドのチェルノブイリ障がい児特典として与えられたアパートに97年から住んでいる。母ガリーナ(33歳)は家具工場に勤務。「仕事が忙しくて悲しんでいる暇はありません」と話した。父親は家族の重荷に耐えられず家を出て行き、6年前に離婚。モーズィリ近郊の村で暮らしている祖父母のところへよく家族で菜園の手伝いに行くという。食べ物は店ではほとんど買わないそうだ。

日本の里親から支援を受けている子どもたち

K・ルスラン 1991年生まれ。カリンコヴィチ市

 96年に発病。扁桃の移転性リンパ腫と診断されミンスクの病院で手術。カルシウム剤を服用。その他必要な薬はミンスクで買わなければならない。定期的に化学療法を受けている。最近は肝臓、胃、甲状腺機能減退症など、他の病気も現れている。医師は、「チェルノブイリの近くに住んでいるのだから仕方がない」と言ったそうだ。ルスランは自分がガンであることを知らない。母親は看護士として働いている。父親は、勤めていた会社が倒産し、もう2年間失業中。95年生まれの弟も健康に問題がある。


D・マリーナ 1992年生まれ。ゴメリ市

 2005年7月脳腫瘍の手術。ベラルーシのサナトリウム「希望21」で子ども基金が開催した「糖尿病・腫瘍病の子どもたちのための保養」(06年10月)に参加した。マリーナの祖母もグループの引率者として参加した。祖母によると、マリーナの頭痛は以前よりよくなってきたが、血液検査の結果カルシウム値が不足していることがわかったという。また最近背骨に異常があることがわかった。コルセットを一時的に着けることになるかもしれない。服用しているホルモン剤の影響か、太り始めたことを年頃のマリーナは気にしている。「チェルノブイリは何もかも壊してしまったよ」と祖母は言った。

緊急支援の子どもたち

現地救援団体からの緊急要請により、支援を決定した子どもたちがいます。病状がよくならないまま家庭の経済状況も改善しない場合には、里親からの支援に切り替えることもあります。

M・ターニャ 1997年生まれ。ゴメリ州カリンコヴィチ市

 脊髄と仙骨の腫瘍。99年に手術。一部腫瘍を切除。ミンスクの病院に1年半入院し、化学療法・放射線照射療法を受けた。入院中はずっと母親が付き添っていた。チェルノブイリ障がい児に認定されている。

 「娘は歩くことができなくなり、背骨の手術を受けました。大変体が弱いです。遺尿のため7年間パンパースを着けています。私は娘が病気になってから、看病のため仕事を辞めました。以前はこのアパートから10kmのところにあるマーリェ・アフトーキ村に住んでいました。そこは放射能汚染のひどい地域でした。1年前このアパートに引っ越しました。ターニャは体操や自転車を禁止されています。なるべくゆっくり静かにしていなければなりません。友だちと遊んだり、絵を描いたりするのが好きな子です。今は紙おむつを着けて学校に通っています。いつまで着けていなければならないのか、まだわかりません」若い母親は始終沈んだ表情で話した。

 ターニャは色とりどりのサインペンで描いた太陽や花の絵を私たちに見せてくれた。母親とは対照的に活発で生き生きした表情のターニャ。本当は思いっきり体を動かして遊びたい年頃だろう。


T・ニキータ 1996年生まれ。ナロヴリャ市

 チェルノブイリ原発から75キロにある汚染地域で暮らしている。99年左目網膜芽腫手術。ガンとともに左眼球を切除。化学療法を行なった。半年に一度、検査と義眼の交換のために母とミンスクの病院に通っている。チェルノブイリ障がい児に認定されている。父は製菓工場、母は郵便局に勤務している。

 「この家族の住むアパートは、事故の数年後に広河隆一氏が撮影した建物の一つです。放射線検知器で測った値がとても高かったのを覚えています。リフォームして今は人が暮らしているのは驚くべきことです。ましてや、国はこのアパートをガンの子どものために与えたとは…」と「困難」の代表は絶句した。ニキータの両親は「ここが放射線汚染地域だということは知っています。でも職場もこの地域にありますし、他に引っ越すところがないのです」と話した。


K・マトヴェイ 2002年まれ。ゴメリ地区エルミノ村

 06年3月ゴメリで右胸上部の皮膚の切除手術。その後悪性の皮膚ガンであることがわかり、ミンスクの病院で手術を受けた。3カ月に一度ミンスクの病院に検査を受けに行く。現在は甲状腺のリンパ節にも問題がある。チェルノブイリ障がい児に認定されている。母親は看護士。父親は息子が7カ月のとき家を出て行き、その後母とマトヴェイは母の実家に移り住んだ。生活が苦しいため、母親は夜勤もよくするという。「息子はまだ小さいからよく分かっていないと思うけれど、今後彼は自分を捨てた父親を一体どう思うようになるのだろう」と母は話した。

 ゴメリ市から車で30分くらいの場所にある静かな村で、祖母、母と3人暮らし。庭では野菜を作っている。マトヴェイはやんちゃ盛りの様子で、私たちが訪れた時も幼稚園から戻るなり外に遊びに行きたがり、母親を困らせていた。


■2月7日 支援団体「困難の中の子どもたち」経由で礼状と写真が届きました。

※すでにお伝えしましたように、この保育器は【通販生活読者】からの募金により購入しました(No.66参照)

親愛なる日本の友人の皆さまへ

子どもたちのための保育器を贈っていただきありがとうございます。これは素晴らしい保育器です!!!
私たちと患者たちに、とても必要なものです。
スタッフ一同よりお礼を申し上げます。

ゴメリ市小児臨床病院蘇生部門
医師 カルマノヴィチ・イリーナ・リュドヴィゴブナ



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