悲劇の傷跡


ベラルーシの新聞「勤労の英雄」(2006.4.27)に、「チェルノブイリのサイン」代表タチヤナさんの話が掲載されました。
(注)「チェルノブイリ20年」を機に行われたインタビュー



 甲状腺ガンと診断された患者たちには、国からの「チェルノブイリ障がい者年金」では治療費用も、毎日に必要な薬代でさえ足りない。もし薬を飲まなければ顔は腫れ、記憶力は低下し知的活動に影響を及ぼす。“非汚染地域”出身で甲状腺疾患の子どもたちが「チェルノブイリ障がい児」と認定されたのは、チェルノブイリ事故から10年後だった。その1996年、手術を受けた子どもをもつ母親たちにより「チェルノブイリのサイン(傷跡)」が設立された。「サイン」とは、手術後の子どもの首に残された傷跡を意味する。

 「チェルノブイリのサイン」は甲状腺疾患の子どもをもつ150家族で構成されている。子どもたちの多くは成長し、大人になったが、この不幸との戦いは続いている。タチヤナの長男も甲状腺ガンの手術を受けた。86年のメーデーのとき、チェルノブイリ事故のことを知らされていなかった多くの市民は屋外で過ごしていた。天気のよいその日、タチヤナも息子を連れ自然の中で過ごしていた。

 あるミンスクの家族は、事故の時ゴメリに住む祖母のところへ行っていた。その後1人の子どもは手術を受け、1人は通院を続けている。また、ある事故処理作業員の娘も手術を受けた。「手術を受けた者たちは、首の傷跡を人に見られることをひどく気にします。若者にとっては、障がい者であることや、それによって同情されることは恥ずかしいのです」とタチヤナは説明する。一方、国家は慈善団体への予算を削っている。以前「サイン」は賃貸料を免除されていたが、2年前にこの決定は取り消された。「日本の援助がなかったら私たちはとてもやってこられなかったでしょう・・・」


 「チェルノブイリ子ども基金」からの支援は98年から始まった。「サイン」には事務所の運営費用や医薬品の購入費用が日本から送金される。最も重要なことは、甲状腺の病気の患者たちへの資金援助である。たとえば、サナトリウム「希望21」の保養に、甲状腺手術後の若者たちが毎年招待されている。手術を受けた子どものいる困窮家庭への支援、学生への奨学金支援もある。また子どもの頃手術を受けた者が成人し、父親や母親になっている若い家族への支援もある。このような家庭で生まれた子どもたちを「チェルノブイリ子ども基金」の協力者たちは自分の子どものように心配してくれている。


 この団体では、外国での治療を必要としている病気の子どものためのビザ発給手続きも引き受けている。ドイツの病院には、肺やリンパ節に転移のあるような重症の子どもたちが送られる。ドイツ・ベラルーシ合弁の検査センター「アルニカ」ではドイツで治療を受けるための必要な検査を無料で行なっている。タチヤナの団体は、患者とこの検査センターを繋ぐ役割も担っている。「以前子どもたちが団体で外国に治療に行く時には、医師の引率がありました。治療の始まる1カ月前から、普段は必要不可欠なチロキシンの服用を止めなければなりません。そのため子どもたちの体調は正常ではないのです。本当ならこのような状態の子どもたちを医師の引率なしに送り出すということがあってはならないのです。しかし保健省の決定により、もう2年間も子どもたちだけで送り出しているのです。甲状腺ガンである上、糖尿病も抱える15歳の少女が治療前の1カ月間薬を服用しない状態で、医師の引率もなく飛行機に乗らなくてはならないのです」

 成人した障がい者は、国から「労働能力喪失度」を言い渡される。以前は「喪失度」に応じて年金額が定められていたが、現在この喪失度は年金を算出する上で考慮に入れられていない。「そのようなわけで私たちの会員たちの年金はぐっと減ってしまいました。国は障がい者にフルタイムの仕事を許可していません。若者たちは少しでも多く稼ぐために、障がい者であることを隠して働いているのです」しかしチェルノブイリによって残された「傷跡」は一生隠せない。


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