- ウクライナ -
内分泌研究所
■放射線診断部門長 マルコフ医師
「ここでは86年から、ウクライナで初めて超音波診断装置による甲状腺の検査を行っています。今もウクライナ中から甲状腺の患者がやって来ます。現在使っている超音波診断装置のうち5年間使用している1台は問題ありませんが、10年以上使用している2台の調子がすでに悪くなっています。患者の喉に当てる一番大事な先端部分は、常に修理が必要です。これでは小さい腫瘍が見つけにくくなってしまいます。また、老朽化により画像の上の部分が見えにくくなっていて、正しい診断に支障をきたす恐れがあります」
訪問した日は、甲状腺手術を受けた患者120人がホルモン検査のために来ていました。甲状腺ガンの手術を受けた患者は、一生ホルモン剤を飲み続けなければなりません。手術後も定期的に検査を受け転移の有無を確認し、また血液検査の結果によりホルモン剤の量を調整する必要があります。これは甲状腺の患者が生きていくために欠かせないことなのです。
首都キエフ市にある慈善団体「チェルノブイリ・子どもたちの生存」(以降「子どもたちの生存」と略して記す)は、「チェルノブイリ子ども基金」と協力関係にあります。この団体は子ども基金の「里子・奨学生・緊急支援」の窓口となっています。現地のスタッフと共に、日本からの支援を受けている子どもたちを訪問しました。
里子
■I・コーリャ 1988年生まれ キエフ市
先天性心臓欠損。大変体が弱く、入退院を繰り返している。母・祖母・弟と4人でキエフ市内のアパートで暮らしている。90年までナロジチ(放射線汚染地域)に住んでいたが、キエフに避難民のためのアパートが建設され移住した。コーリャは学校へは通学しておらず自宅学習をしている(学校の先生が家にやって来て授業を行なう)。好きな科目は情報学や数学。短時間外で過ごすこともあるが、足が腫れるため長く歩くことはできない。コーリャは極端に体が小さく、8歳年下の弟と同じくらいの体格。痩せていて顔色もあまりよくないため、体調がよくないことは一目でわかる。しかし大変しっかりした聡明な青年で、私たちの質問に笑顔でてきぱきと答えていた。祖母によると、彼は家計の管理もしているという。国のチェルノブイリ基金の負担により、治療のため7回フランスに行った。
コーリャの母親は脳腫瘍である。4回目の手術を終えて退院したばかりだった。頭のスカーフを取り、私たちに傷跡を示した。髪の毛もまばらで、皮膚には緑色のインク跡が生々しく残っていた。今までに放射線照射治療を2回受けたが、今後もさらに受ける予定である。コーリャも母と同じ時期に入院中だったそうだ。祖母は、病院では2人の世話をし、家では下の孫の世話をしていた。母親とコーリャの障がい者年金と祖母の年金で暮らしている。障がい者年金は以前より減らされたという。同行した「子どもたちの生存」のスタッフによると、母親は少し精神的に不安定になっているとのこと。悪い言葉を平気で使い、コーリャにたしなめられていた。母親は心身を病んでいることが目にみえてわかり、とても痛々しく感じられた。明るい性格の祖母の存在が、この家族の救いだった。
■A・ヴォーヴァ 1994年生まれ ベラヤ・ツェルコフ市
家族の住んでいる場所は放射線汚染地域とされている。母親は3年前に皮膚がんで死亡。現在は父親と祖父母、叔母の家族と一緒に暮らしている。ヴォーヴァは先天性眼球発達異常と診断され、95年に両眼白内障の手術を受けた。弱視である。成長期が過ぎた時点で再度手術が予定されている。「里親の方からいただいている支援金はすべて手術費用として貯めています」と父親は銀行振込の明細書を見せた。祖父母も孫の手術に備えて年金の一部を貯めている。学校へは通学しておらず自宅学習をしている。
好きな科目はウクライナ語。また、ヴォーヴァは音楽が好きなので、親戚中でお金を集めて電子オルガンを買った。音楽の先生が画用紙に大きな楽譜を書いてくれる。ヴォーヴァは「サンタ・ルチア」を演奏してくれた。ヴォーヴァが食事をする時、父親は皿を近くに寄せたりナフキンを渡したりと細やかに世話をしていた。家族みんながヴォーヴァを大切にし、心配している様子が伝わってきた。「ヴォーヴァはほとんど外出せず、友だちはなく家族とのみ接しています。それはマイナス面もあるかもしれませんが、今は仕方がありません。いつか手術をして目が見えるようになったら学校へ通い友だちができたらいいと思います」と父親は話した。
緊急支援
■S・リリヤ 1995年に生まれ ベラヤ・ツェルコフ市
昨年8月、「子どもたちの生存」の事務所を訪れた際、リリヤへの支援要請があり、「子ども基金」は昨年の秋からリリヤへの支援を始めた。リリヤは3年前に白血病と診断され、治療のため入院していた。現在は自宅に戻っているが、定期的に通院しながらさらに1年間治療を続ける予定。薬の副作用で心臓の調子もよくない。家族には高額な治療費を支払う経済力はなく、町のチェルノブイリ基金や、病院内の寄付などでなんとか助けられてきた。免疫力が落ち体力もなく学校に通学することができないため自宅学習をしている。部屋に飾られているぬいぐるみや人形の中で、リボンと待ち針で作られたいくつもの色とりどりの花かごが目を引いた。
リリヤはある時、広島原爆の被害者佐々木禎子さんの千羽鶴の話を知った。鶴は作れないけれど花かごは作れると思い、千個作ったら自分は元気になれると信じて、やっと50個目まで作ったという。台所と居間兼寝室の一部屋のアパートで家族3人が暮らしている。ぬいぐるみや人形だけがやけに目立ち、他のものは本当に少ないつつましい生活の中、両親がどれほどリリヤを愛し心配しているかが強く感じられた。
- ベラルーシ -
ゴメリ市の慈善団体「困難の中の子どもたちへの希望」*1の会員を訪問しました。昨年9月、訪問する予定のゴメリ市の男の子がその数日前に亡くなってしまったことを、前のニュースでお伝えしました。今回訪問したうち二人の子どもは、その男の子と同じ時期に同じ病院に入院していました。退院後、自宅で勉強をしている子どもたちは、みんな勉強好きで成績のよいことに驚かされます。病気で遅れた分を取り戻そうと一生懸命なのでしょう。病気になる前にできたことができなくなってしまっても、不平を言ったり諦めたりしている子どもは1人もいませんでした。どの子も将来への希望を持ち続けています。
*1 ゴメリ市にあるチェルノブイリ被害者を会員に持つ慈善団体。子ども基金はこの団体の運営費や子どもたちの医薬品代などを支援している。以降「困難」と記す。
里子
■リョーシャ1996年生まれ ゴメリ州
カリンコヴィチ市
ランゲルハンス細胞組織球増殖症と診断され、2005年に右足腫瘍の手術を受けた。手術後は半年間入院、その後2週間に一度検査。現在は1カ月に一度検査。ミンスクの病院での検査や薬は無料だが、交通費はかかる。また、付き添いをする母の食事は自分で買って作らなければならない。母親は仕事を辞めざるをえなかった。
リョーシャはさらに左のおでこの上にも腫瘍がある。外科的手術ではなく化学療法を受ける予定。「里親の方からの支援金はリョーシャのためにだけ使います」と母親は話した。母・祖母・曾祖母と暮らしている。
■L・クリスチーナ 1996年生まれ ゴメリ州 スヴェトロゴルスク地区
白血病のため2006年2月より半年間治療を受けた。現在は1カ月に1度ミンスクの病院へ検査を受けに行く。治療・薬代は無料だが交通費は負担しなければならない。退院後は自宅学習をしている。入院中クリスチーナが心配していたのは病気のことよりも学校の勉強のことだったという。クリスチーナは勉強が好きで成績もよく、特に数学・ロシア語・ロシア文学・ベラルーシ語が好きだという。両親は物静かでおっとりした雰囲気だが、クリスチーナはよくしゃべるはきはきした女の子。「絵を描いたりお話を書いたりするのが好き。一緒に入院していた子どもたちにいつも自分の作品をあげました。病気になる前は学校でダンスやバレエを習っていましたが、今はもうできません。入院したばかりの頃は血を見るのも怖かったけれど、だんだん看護婦さんのお手伝いをするようになりました。今は看護婦さんになろうと思っています」
この村には他にもホイニキとナロヴリャ(ともに放射線汚染地域)からの避難民のために建てられた家がある。しかし家の造りは不便で村には病院も働き口もないため、元の場所に戻る人も多いという。クリスチーナの母親はホイニキ地区に92年まで住んでいた。近くに住むクリスチーナの祖母は、「それまで放射能のことは誰も言わなかった。移住を宣告されたとき初めて放射能が危険だと知らされた」と話した。クリスチーナは昨年末「困難」の会員となった。母親は会員手続きのためオフィスに来たとき、子どもの様子を話しながらずっと泣いていたという。私たちが訪れた時も始終悲しげな表情をしていた。クリスチーナは「今の夢はアパートに住むことと、その次は弟がほしい」と目を輝かせていた。外に出る時クリスチーナはバンダナを上手に頭に巻いた。「化学療法で髪が抜け落ちてしまった子どもは、みんなああいう結び方をするのですよ」と同行した「困難」の代表ワレンチーナは話した。
■B・ヴェロニカ 1996年生まれ ゴメリ州 レチッツァ地区
2005年7月に脳腫瘍の手術を受けた後、1年間治療のため入院。退院後は自宅療養と自宅学習をしている。今も3カ月に1度はミンスクに定期的に検査に行く。9月から学校に通学する予定。ヴェロニカは勉強が好きで成績も良い。入院中にもらったぬいぐるみや自分で作ったおもちゃなどが部屋の片隅に並べられている。すでに亡くなった祖父が建てたという古い家の中で、そこだけが華やかに感じられた。ヴェロニカは母の手伝いや5歳になる弟の世話もよくするという。家族の住む村は放射能汚染地域とされている。「私はここから8キロ先の村の出身です。ここは汚染地域で向こうは非汚染地域だなんて、すぐそこなのに…」と母親は話した。
■S・マリーナ1985年生まれ ゴメリ市
甲状腺ガンの手術後、2005年右眼腫瘍のため摘出手術。義眼となった。ゴメリ市で視覚障がい者のための電球工場で働き、職場の寮で暮らしている。「週末は必ず母の住む村に帰ります。町よりも静かな村の生活の方が好きです。私は心理学関係の本を読むのが好きで、気に入った言葉や自分を励ますような言葉を見つけたらノートに書き留めたり、友達に書いて送ったりしています。よその子どもを見ているのは楽しいけれど、自分の子どもを持つことはあまり考えていません。今は妊娠してはいけない健康状態です。いつか好きな人ができて結婚したらまた考えるかもしれません。まだ先のことだと思っています。本当はもっと別の仕事をしたいですが、私のような体では難しいです。小さいころから絵を描くのが好きで、専門学校ではデザインの勉強をしました。それが目がこんなことになってしまい、デザイン関係の仕事には就けなくなりました。でもがっかりしていません。希望はいつでもあります!」明るく前向きなマリーナにこちらが励まされる思いがした。
■S・コーリャ 1992年生まれ ゴメリ州 ヴェトカ地区
滑膜骨腫と診断され、2004年12月に左足の腫瘍切除手術が行われた。その後約半年間、化学療法と放射線療法を受けた。退院後は自宅療養、自宅学習。現在は通学できるようになっている。今もミンスク市の病院へ定期検査に通う。骨折のため4カ月間ギプスを着けていた。骨が弱くなったためカルシウム剤を服用している。両親と妹(94年生まれ)の4人暮らし。「この村はセシウム137*2
5〜15キュリーの移住権利のある地域ですが、国は移住費用を負担しません。お金や行き先のある人は引っ越しましたが、私たちにはそのどちらもありません」と母親は話す。
汚染地域に住む子どもたちは1年に1度ベラルーシ国内のサナトリウムで保養をする権利がある。村の小学校には以前700〜800人の子どもがいたが、今は100人くらいだという。引っ越した人たちが残していった家には、旧ソ連各地からの内戦を逃れた家族などが移り住んでいる。移住者たちは「ここは戦争がないからいい、放射能は見えないから戦争よりましだ」と言っているそうだ。母親はチェチェルスク地区の村の出身。父親はこの村の出身。「家族でこの村に住んで15年になりますが、その間に3人の子どもがガンで亡くなりました。生活は大変ですが、コーリャには少しでも栄養のあるものを食べさせたいと思っています」と母親。
「困難」の代表者ワレンチーナは、「チェルノブイリ障がい者であるコーリャは町のアパートをもらえる権利がある。このような不便な村ではなく、病院のある町に住む権利がある」と話し、家族に申請手続きの仕方を指示していた。二人の子どもは「ここを離れたくない」と笑っていたが、母親は「私たちはいいけれど、子どもたちは別のところに住んでほしい」と言った。そして別れ際に「こんな放射能のあるところに来てくれてありがとう」と涙をふいた。
ヴェトカ地区
ゴメリ市からコーリャの住む村に行くには、放射能汚染のひどい森を通っていかなければならない。
「モスクワに放射能の雲が行かないように人工雨を降らせたため、ヴェトカ地区はひどく汚染されたのです」とワレンチーナは説明する。道の両側の森には数メートルごとに「放射能危険、立ち入り禁止」のマークが立つ。森の向こうには埋葬された村々がある。(この辺りのいくつかの村の記録は、広河隆一写真集「チェルノブイリ・消えた458の村」に収められている)それらの村の住民たちの移住は、事故後3年経ってやっと始められた。住民がだんだん病気になり始めて放射能汚染がわかったという。それまではこの地域で放射能の危険性は知らされていなかったという。ホイニキやナロヴリャ(チェルノブイリ原発にさらに近い地域)からの避難民のために住宅が建てられ、人々が引っ越してきた。しかし後になって、この地域もホイニキと同じくらい汚染されていることがわかった。住民の半分は引っ越したり亡くなったりしたが、今も住んでいる人がいるという。
「今はみんな真実を話したがらない。"そこには今も放射能がある、危険だ"と本当のことを言ってしまったら、国は住民の移住を補償しなければならない。それをしたくないから"もうきれいです、大丈夫です"と言っているだけ」とワレンチーナは話す。「チェルノブイリ事故の起きる前は、よくここへベリーやきのこを採りに来た。きれいなところだったのに・・・。今だって見た目はきれいなのに、立ち入り禁止になってしまった。恐ろしいことに、この森で採ったものをゴメリなどで売る人もいる」放射能マークの森を抜け、コーリャの住む村に行く途中にあるスタウブン村。ここも本来は移住が行なわれなければならない放射能汚染地域である。その村の大きな農場では牛乳を生産し販売している。
[写真]上:立入禁止の標識、下:スタウブン村のバス停 後ろに見えるのが農場
*2 放射性物質のひとつ。半減期(放射能の強さが元の半分になるために必要な時間)は30年。ベラルーシ・ウクライナ各国はセシウム汚染度により、移住の基準を決めている。
今回訪問した地域