2007年8-9月 ウクライナ ベラルーシ訪問 後半 (ベラルーシ) ― 報告 佐々木 真理 ― 基金ニュース70号(07年9月発行)で紹介した、ベラルーシの男の子が2008年1月26日に永眠しました。脳腫瘍の手術を受け治療を続けていましたが、昨年12月に体調の悪化で入院、病院で亡くなりました。1週間後に13歳の誕生日を迎えるはずでした。 原発事故の危険性を忘れている人たち、あるいは忘れさせたい、と願う人たち、そういう世界の流れの中、現地では子どもたちの病気と死が静かに進行しています。 <里子> K・サーシャ 神経膠星状細胞種。1歳で発病し、95年と96年に2回手術を受け、2年間ほとんど入院していた。右足と右手に障害が残り、右手はほとんど動かない。また、長時間座ったままでいると1人で立ち上がるのが困難となる。視野が狭く、正面しか見えない。サーシャには、腎臓・背骨・目・甲状腺の治療のためにたくさんの薬代がかかる。チロキシン(甲状腺ホルモン剤)は救援団体からもらうことができるが(*1)、その他の薬は買わなければならない。天候の変化などによる手足の痛みで一人では歩けなくなることもある。サーシャは不自由な体を恥ずかしがり、外に出たがらないという。植物を育てるのが好きで、部屋の中にたくさんの鉢植えがあった。2回目の手術後、チェルノブイリ障害者補償としてアパートが国から与えられた。(*2) 母はゴメリ州ホイニキ地区ポセリチ 村(原発から25km)の出身だが、事故当時はゴメリ市に住んでいた。心臓の病気がある。義父はイワノフカ村の出身(実の父親はサーシャが病気だとわかると家族を捨て出て行った。)放射能汚染のため事故後すぐ移住させられ、村は埋められた。その後、ホイキニやブラーギンなどの高濃度汚染地域でリクビダートル(放射能汚染除去作業員)として7年間(93年まで)働いた。心臓と背骨の病気の他に、甲状腺にも異常がありチロキシンを服用している。リクビダートル証明書はあるが、国からは何の補償もない。義父はサーシャを心配してよく面倒をみてくれるという。道路建設の仕事をしているが、仕事があるのは夏の間だけで冬には仕事がなくなる。 *1 子ども基金が送った募金から、現地の団体が薬を購入して必要な人たちに渡しています。
N.ヴェロニカ 2001年に甲状腺ガンの手術を受けた。2007年9月からミンスクの大学の寮で暮らしながら心理学を学んでいる。小さい頃から絵を描くのが好きで、スケッチブックに描いたたくさんの絵を見せてくれた。部屋には、自分の絵や刺繍の作品が飾ってあった。 サビチ村は、首都のミンスク市からバスで3時間程の場所にある。村は「放射能に汚染されていない地区」とされている。村で甲状腺の病気の子はヴェロニカの他にいないという。10キロ先の村は放射能汚染地とされ、住民はチェルノブイリ手当てを受け取っていた。ヴェロニカの住む村にも、局所的に汚染された場所があるのかもしれない。母親は娘の病気のことを知らされたとき、“この世の終わり”と思うほどショックを受けた。そんな中助けてくれた日本の里親を「本当の親類のように感じている」と話す。里親から送られてきた写真がアルバムに大切そうに保存されていた。ヴェロニカは甲状腺の手術後、放射性ヨード治療を受け、チロキシンを服用している。父は2006年1月に脳出血で急死した。この村はトマトの産地として有名で、通りでは老人たちがトマトを売っていた(若者はみな出て行ってしまい、ほとんど老人ばかり住んでいるという)。母親は乳製品工場で働きながら、畑仕事や家畜(牛・豚・鶏)の世話もしている。訪問したときにごちそうしてくれた野菜・たまご・ヨーグルトはすべて自家製。「夫が亡くなり生活は一層厳しくなりました。農作業や家畜の世話は、私一人では限界があります」と母は話した。
K・アルトゥール 12歳の時学校の健康診断で甲状腺の異常が見つかりすぐに手術を受けた。手術後すぐと翌年の2回、ドイツで放射性ヨード治療を受け、2007年4月にはミンスクで放射性ヨードテスト<ガンの転移を調べるための検査>を受けた。手術後カルシウム値がひどく落ち、痙攣が起きた。ホルモン剤とビタミン剤、カルシウム剤を服用している。いつも喉の調子が悪く、感冒にかかりやすくなったという。訪問した時も咳や鼻水の症状があった。現在、通信制で学びながらミンスクの自動車整備場で働いている。父はミンスク州ビレイカ地区出身。母はミンスク州モロデチノのルガヴィエ村出身。86年のチェルノブイリ事故当日、アルトゥールは祖母のいるルカヴィエ村にいた。「今住んでいる村で、甲状腺ガンの手術を受けた子どもは息子の他にいないと思います。祖母の村にいた時に被曝したのかもしれないし、または食べ物からかもしれない。私たちの住んでいる村は非汚染地域とされています<家族の住む村には、汚染地域からの避難民のためのアパートがある>。でも、最近この近くでコケモモの検査をしたら、高い放射能値が検出された、と聞きました。何が本当なのかはわかりません。以前は息子たちの世代が甲状腺の病気になりました。今は世代を問わず、子どもから大人までみんないろいろな病気になっています。このアパートでも病気の人がとても多いです」と母親は話した。 アルトゥールの部屋には、『希望21』(*3)で保養したときの写真や、そこでの思い出の品物などが飾ってあった。「本当に楽しかった。あそこに行って初めて同じ病気の仲間と知り合うことができた」と話した。 *3 ベラルーシにある放射線汚染地域に住んでいる子どものための健康回復センター。子ども基金はここでの子どもたちの転地療養費用を支援している。毎年夏には、甲状腺手術後の子どもや青年たちのための特別保養を開催している。
L・アーニャ アーニャはブレスト州ルニネツ市で生まれた。2007年4月よりミンスク市内のアパートで3歳の息子ジェーニャと二人で暮らしている。夫とは昨年秋に離婚。アーニャは子どもを育てながら通信制大学で学んでいる。今年は最終学年で、論文や卒業試験などが控えている。 アーニャの母親は、ゴメリ州バルトロメエフカ村(*4)の出身。チェルノブイリ事故後この村は高濃度放射線汚染地域となり、今は人が住んでいない(引越しを拒否した老人が1人だけ住んでいるという)。1986年5月初め、母親はアーニャと上の娘アリョーナを連れて自分の村へ里帰りしていた。チェルノブイリ事故が起きたことを知らなかったため、事故後すぐそこへ行き被曝してしまった。アーニャの家族が住んでいるルニネツ市も放射線汚染地域だが、ゴメリほど重病の子どもは多くないという。「事故が起きて危険だと知っていたら、あの時子どもを連れてなど行かなかったのに」と今も母親は悔やんでいる。「村には年に一度お墓参りのときだけ行きますが、子どもたちは連れて行きません」「甲状腺ガンの手術はミンスク市の病院で行なわれました。手術後も検査や治療など、ルニネツ市からミンスク市までしばしば通わなければならず、時間も交通費もかかり、またアーニャの体調ではとても大変でした。手術後、はカルシウム値が落ちて手の震えや痙攣がありました。その時カルシウム剤を探しましたがどこの薬局にも売っていませんでした。手術を受けた病院から1箱もらい飲みきりました。その後、また具合が悪くなり、続けて飲まなければいけないことがわかりました。病院で慈善団体「チェルノブイリのサイン」(*5)を紹介され、薬や治療のことを詳しく教えてもらいました。この団体のおかげで今では病院に行かなくてもチロキシン(甲状腺ホルモン剤)とカルシウム剤を無料でもらうことができます(*2)。また日本の里親の方から支援を受けることができました。自分たちを助けてくれている人たちみんなに本当に感謝しています」 甲状腺ガンの手術を受けた患者は一生ホルモン剤を飲み続けなければならない。長年服用を続けることによる副作用もあり、その場合にはホルモン剤の量を調整しなければならない。また再発や転移の恐れもあるため常に検査が必要となる。 アーニャたちの住むアパートは、台所と3部屋の間取り。「家具も食器もまだちゃんと揃っていないけれど、これから少しずつ揃えていきたい」とアーニャは笑顔で話した。元気いっぱいで腕白盛りの息子ジェーニャは9月から幼稚園に通い始めた。父母説明会から帰ってきたアーニャは、ダンス用の靴・水着、給食費など出費の多さに頭を抱えていた。「日本の里親からの支援がなかったら、私は大学を続けることはできませんでした。大学を無事卒業し、専門家として働き自立することが今の私の目標です」とアーニャはきっぱりと言った。 *4 この村の写真は『チェルノブイリ 消えた458の村』(広河隆一写真集)に掲載されています。
D・リョーシャ リョーシャは生まれてすぐに心臓欠損と診断された。さらに腎臓の悪性腫瘍が発見されミンスクの小児病院で手術を受けた。腎臓の手術が決まったとき、子どもが亡くなった時の心の準備のためとして、臨床心理士が母親に付き添った。その後、脊椎側湾症のため2度入院。足と背中の痛みで歩けなくなり、転んでは泣いていたという。今も検査のため1年に2度ミンスクの病院へ通っている。甲状腺肥大もある。ミンスクの病院での治療・薬代は無料だったが、現在は薬を自費で購入しなければならない。 リョーシャはゴメリ市のアパートに母・祖母と3人で暮らしている。訪問した8月5日、ゴメリ州立病院に入院中のところ、一時帰宅していた。普段学校へは通っておらず、先生が家に来て授業をしている。祖母は、ゴメリ州ブダ・コシェリョヴォ地区ニェドイカ村からの避難民。15年前、ゴメリ市内の現在のアパートに移り住んだ。リョーシャの父親はひどく酒を飲むようになったため離婚。父親からは何の援助もなく、国からの年金だけで暮らしている。リョーシャは大きくなると、「どうしてお母さんは僕においしいものを買ってくれないの」「どうして他の子みたいなおもちゃを買ってくれないの」と質問するようになり、母はいつも辛い思いをしたそうだ。 こんなに重い病気をいくつも抱えているとは思えないほど、リョーシャは始終おだやかな笑顔だった。一方母親はとても気落ちした様子で、息子の病気の話をしながら何度も涙を見せた。祖母もあまり体調がよくない様子だった。3人家族の暮らしているアパート(台所と居間、寝室)は、どの部屋にも物が少なく、がらんとしていた。寝室にはリョーシャの描いた、やわらかな色合いの花束の絵が飾ってあった。
D・ナターシャ 事故の時、ゴメリ州の祖父母の住む村で被曝。10歳で甲状腺ガンの手術。98年に放射性ヨードを受けた。治療は今後も予定されている。2007年4月に娘ナースチャを出産。出産前までは幼稚園で保育士の仕事をしていた。 「私が妊娠した時、産婦人科の医師たちは自分に出産を諦めるようにすすめました。“あなたには甲状腺がない、健康ではない。生まれた子どもにどんなことがあっても責任はもてない、あなたが望むらあなたの責任だ”と言われました。私は甲状腺ホルモン剤をちゃんと飲んでいるし、普通に生活している。だから子どもを生めると思いました。かかりつけの内分泌医に相談すると、出産できると言われ、安心しました。妊娠中は何の問題もありませんでした。ナースチャが生まれるとすぐ、たくさんの検査が行なわれました。出産2週間後に別の病棟へ移されたのですが、何の説明もありませんでした。“どうしてですか、子どもはどんな状態なのですか”と尋ねると、“このままだと死ぬかもしれない”と言われて本当にショックでした。初めは目の充血がひどく、それから脳の腫瘍、筋緊張、それから副腎の異常と診断されました。何種類もの薬が必要でした。医者から言われたこと、すすめられたことは全部やりました。脳の腫瘍もいまのところは大丈夫だそうです。筋緊張による症状も、マッサージに通ってからよくなってきました。いろいろなことが一度に起きたのでとてもショックでしたが、今は少し気持ちが落ち着いてきました。だんだんよくなってきていると感じています」
|