父親の高野実は、戦前からの職業的革命家・ 労働運動指導者で、戦後は「昔陸軍、いま総評」と言われた頃の総評事務局長。母親の倭文子(しずこ)は、戦前に『中央公論』編集者で、戦後は小唄の師匠、 英語塾の経営者として家計を支えた。2人とも1974年9月に亡くなった。
孟は、はじめと読む。元々この 字は、兄弟姉妹の一番上、季節の初めという意味で、孟女といえば長女、孟夏といえば初夏のことである。動詞では「つとめる」と読み、困難を冒して前進する という意味になる。
安保の頃は、昼間は「安保反 対、岸(信介首相=当時)を殺せ」と叫んで反米デモをして、夕方18時になると親米に急変して新宿西口から米軍のカーキ色のバスに乗って厚木基地でバンド のアルバイトをするという、まことアンビヴァレントな青春だった。
早稲田大学文学部西洋哲学科に進学。相変わらず忙しかった。カントやヘーゲルやマルクスをドイツ語で読んだり、サルトルをフランス語で読みたくてお茶の 水のアテネ・フランセに通ったり、毛沢東を中国語で読もうとして水道橋の日中学院第1期生に入学したり、やっぱり英語ができなくてはと千駄ヶ谷の津田英語 塾に通ったり(いずれも中途半端で終わった)、高校の吹奏楽部の仲間とブロックフレーテ・アンサンブル「管楽研究会」を組織したり、社交ダンスを習った り、歌舞伎・文楽・能など古典芸能を片端から観て歩いたり、さらにそれらの費用のほとんどを自前で賄うために英語塾やダンス教室やジャズバンドのアルバイ トに精を出した。
その3日間は私にとって2つの 点で極めて印象的だった。第1に、日本航空のスチュワデスというのは当時、花形の仕事で、8等身美人(という言葉が当時あった)が綺麗に化粧して機内で優 雅に振る舞っているのをウットリと見ながら香港まで行ったのだが、広州市から乗った飛行機で三つ編みお下げで化粧も何もせずにきびきびと立ち働いている軍 服のようなものを着た少女がの真っ直ぐな笑顔がそれより何倍も美しく見えたことである。第2に、たまたま同じルートで訪中する日本人の知人と香港まで一緒 だったが、彼は香港で荷物を盗まれて中国入りを断念した。他方、私は翌日泊まった広州市の迎賓館の洗面所に歯ブラシを忘れて来たが、その歯ブラシが翌日北 京の宿舎に届けられた。 「人間がこんなにも明るく純真に生きることが出来るのなら、社会主義って悪くないな」と思った。尤も後になって考えれば、それは「古きよき毛沢東の中国」 の最後の時代で、間もなく中国は文化大革命の悲惨に突入していくことになるのである。
父母は、最初は大連の幹部用別 荘、後には杭州の温泉保養地にある迎賓館に逗留して療養することになり、私と4歳下の弟は、中華全国総工会(中国の総評に当たる)が派遣してくれた鄭さん という若い通訳と一緒に、北はハルビンから北京、上海、広州まで、約2カ月間かけて工場、人民公社、名所旧跡を訪ねる旅をした。次の目的地まで丸1日も汽 車に揺られて行くようなのんびりした旅のあいだ、鄭さんは繰り返し私に「なぜ日本共産党に入って革命運動に身を捧げないのか」と問うた(当時は日中両共産 党は友好関係にあった)。私は、なぜ日本共産党がダメか、100ほども理由を挙げて反論したが、彼は「じゃあどうするんですか。仮に日本共産党があなたの 言うような欠陥があったとして、それを正さない限り日本で革命は起きないじゃないですか。それとも社会党にでも入りますか。革マルはどうですか」と言う。 私はとうとう根負けして「分かった。帰国したら入党します」と約束した。
それから約4年間、私は他のす べてを捨てて学生運動と党活動に専念した。1年ほど経った65年半ばには、当時大学全体で300人ほどいた学生党組織(さらにその外側の民主青年同盟員ま で入れると約700人)を動かす学生総細胞委員会のサブキャップ(組織・財政担当)になったが、その直後に日中共産党の関係が険悪化し、早稲田の組織の中 でも数十名の毛沢東主義者が反乱を起こした。中国で勧められて入党した私が、中国派の仲間を査問して除名する役目を引き受けたのは皮肉な巡り合わせだっ た。
66年早々からは「授業料値上 げ反対」をきっかけに全学がストライキに突入、バリケードの中で150日間暮らした。この早大闘争は、やがて68年から69年にかけてピークに達する「ベ トナム反戦・大学解体」を掲げた学生パワーの爆発の導火線となった。その頃、私のすぐ下にいてゲバ隊長をしていたのが、『突破者』(南風社)という本を書 いた宮崎学である。
私は本来なら66年3月に卒業 する予定であったが、それどころではなくて、結局2年間余計に大学にいることになった。日本の戦前の戦闘的唯物論哲学者=戸坂潤の「イデオロギー論」を主 題とする卒業論文を書いて、68年3月に卒業。アカデミズムの道に進もうかという考えもチラリと頭をかすめないではなかったが、戸坂潤の「哲学はジャーナ リズムのものである」という言葉に惹かれてジャーナリストを志すことにし、父親の紹介で共産党系の通信社「ジャパン・プレス・サービス(JPS)」に職を 得た。卒業して半年余り経った68年11月、全学幹部として教育学部の細胞に指導に入っていたときに知り合った吉田千織と結婚した。
JPSは、1950年代に共同 通信社からレッドパージされた敏腕記者たちが中心になって作った通信社で、私の主な仕事は、日本事情を英語で海外に伝える『ジャパン・プレス・ウィーク リー・ブレティン』という週刊ニュースレターや、ラジオ・テレタイプというメディアを利用して、キューバのプレンサ・ラティーナ通信社、ベトナムのベトナ ム通信社および南ベトナムのジャングルの中にあった南ベトナム解放通信社、北朝鮮の朝鮮中央通信およびプラハのチェコスロバキア通信社の3方向に毎日各1 時間流す英文ニュースの原稿を書くことだった。
JPSは、党中央の直轄下にあ りながら自由で自立的な思考が許される空間だった。特に私が属した内信部の部長は山田昭という優れたジャーナリストで、当時「川端治」というペンネームで 共産党系の出版物に国際情勢や国内政治に独自の視点に立つ鋭い論評を発表して若い世代に圧倒的な人気を博していた。私は彼から、ジャーナリストの生き方、 思考の方法、文章の書き方について教えを受け、やがて1年ほどすると、彼の指導を受けながら党の理論機関誌である『前衛』や、外郭の出版社が発行する『経 済』といった月刊雑誌の巻頭論文を「香月徹」というペンネームで書くようになった。
その頃私は25歳そこそこで向 こう見ずだったから、理論的な問題意識や情勢分析の視点に関して党中央の見解の枠をはみ出すことを恐れなかった。そのため私の論文は何度か、党機関紙『赤 旗』の論壇時評などで批判された。私は意に介さず、また党の影響下にある学生や青年の組織では、川端論文や香月論文のほうが党中央の臆病で無味乾燥な文書 より人気があって、盛んに講演に呼ばれるという状況が生まれた。危険な兆候だった。
JPSでは党支部の総会が開か れ、中央から上田耕一郎(現幹部会副委員長)が乗り込んできて、川端と私が陰謀の首謀者としてさんざん糾弾され、そのまま上田に連れられて党本部に出頭さ せられ、1週間にわたり監禁され、査問された。査問の中で彼らは、私が党中央の情勢分析や組織方針と反する言動を弄して学生・青年をたぶらかしていると非 難した。私は、私が中央と若干異なった見解を抱いているのは事実だが、「意見が違う」というのと「党を転覆する陰謀を企んだ」というのは全然別の次元の話 で、仮に後者だというのなら私を反革命罪で除名したらどうか、と言った。彼らは、そうするだけの理由と証拠はないと認めた。それで私は、党中央に誤解を受 けるような言動をしたことは申し訳ないという趣旨の「反省文」を提出して、無罪釈放された。
私はこの時、中国の鄭さんの 「日本共産党の欠陥を正さない限り日本で革命は起きない」という言葉を思い起こしながら、決して諦めずに党に留まってその内部改革に取り組もうと考えてい た。しかし反面、その1週間の異常な体験から、こんな陰険で独断的な党に革命が出来るわけがないし、出来たとしてもロクなことにならない、という思いも深 まった。その両極の間で揺れながらも、私は半ば意地になって、党籍をそれまでの中央直属から、当時住んでいた東京・池袋の地域支部に移すよう文書で申請し た。彼らは、私のような者が党内に留まっていられては迷惑だったのだろう、転籍手続きの書類がどこか上のほうで審査中なのでちょっと待って貰いたいとか言 葉を濁しながらウヤムヤにしようとした。結果として私の日本共産党の党籍はきちんとした説明がないまま自然消滅した。
ニュースレターは、誌名 『INSIDER』、発行主体「MAP分析研究会」(代表=山川暁夫)、月2回刊、年間購読料2万円、郵送による会員制とすることにし、75年9月に日本 版のNo.0が、11月にNo.1が刊行された。 年が明けるとすぐに米上院チャーチ委員会でロッキード事件が火を噴き、赤坂の小さなアパートにあったINSIDERのオフィスは、マスコミ各社の記者や週 刊誌の編集者やフリーのライターなどが夜な夜な集まっては情報交換したり議論したりする場になった。
そういう中から私にとってフ リーになって最初の本である、週刊ポストの記者だった加納明弘との共著『内幕』が生まれた(76年12月、学陽書房刊――ちなみにこのときの担当編集者が 後に独立して作家となった江波戸哲夫)。また、東京12チャンネルのテレビ・ディレクターとして、評判になったシリーズ『ドキュメンタリー青春』などを 撮っていた田原総一朗が会社を辞めてペンで仕事をすること決意し、「ついては週刊誌や月刊誌で大型の企画をやりたいので取材チームを編成したい」という相 談があり、私、加納、それにやはり週刊ポストにいた西城鉄男の3人で第1期の田原専属取材班が76年夏にスタートした。
INSIDERのロッキード事 件に関する大胆かつ的確な分析はなかなか評判になり、部数も一挙に数百部に増えた。しかしそれから先は容易でなく、かろうじて印刷と郵送の経費を賄えるく らいで、事務所の維持その他は山川がほとんど1人で背負い込んだ。77年半ばから、紙質を落とし、オフセット印刷を止めて自前の簡便印刷に切り替えるなど して経費を節減したがそれでも追いつかず、ついに79年秋に至って、疲れ果て身体を悪くした山川が廃刊を宣言する。それまで熱心に応援してくれていた田原 総一朗、当時まだ兜町にいた長谷川慶太郎、共同通信社会部の斎藤茂男、元衆議院副議長の岡田春夫はじめたくさんの協力者の方々と相談の結果、 INSIDERを止めてしまうのはもったいないということになり、今度は私を中心にして協力者の方々にも出資して頂き、株式会社の形態をとって80年2月 に再スタートした。これが現在の第2期INSIDERである。
新INSIDERは、発行主体 「(株)まっぷ出版」(地図屋と間違えられるので後に(株)インサイダーに変更)、月2回刊、年間購読料1万2000円(ただし複数の人・部署で利用する ことが前提となる大企業など法人は10万円)とした。事務所は神田神保町に移った。
幸いにこの本は大いに好評を得 て、最初は四六判で、後に同じ出版社から新書に版を改めて10年ほどにわたって増刷を重ね、合計で10数万部も出るロングセラーになった。その本の「一枚 の地図、そして一冊の地図帳があれば……」と題したプロローグは4、5年前から三省堂の中学生用の国語の教科書に収録されるという栄誉にも浴した。
またその頃、俳優で作家の中村 敦夫さんがTBSで「地球発22時」という硬派情報番組を始め、私もその企画メンバーに加わっていた関係から、私の『世界地図の読み方』をコンピュータ・ グラフィックス(CG)を多用して番組化することになり、地図をあれこれ動かしながら中村さんと私が語り合うという1時間番組を2回作った。当時はテレビ でCGが使われ始めた最初で、地球儀をクルクル回したり、世界地図の上に戦後の米ソ関係の変化をプロットしたりするといった程度のものを作るのに、 コンピュータ技術会社の数人のスタッフが1週間も泊まり込みをして突貫作業をしなければならず、費用も数百万円かかったが、それでいて出来上がったものは わずか数分間の動く紙芝居という程度のものでししかなかった。とはいえ、この本と番組の経験を通じて、それまで純粋な活字人間だった私は、グラフィックス を上手に使うことで遥かに広く深く自分の物の見方・考え方を伝えることが出来るのだということを学んだ。
そこで、パートナーだった ジャーナリストの歳川隆雄が編集長になって『TOKYO INSIDER』の見本版を4月に出し、6月から月刊で刊行を始めた。とにかくお金がないので、私と歳川で原稿を書いて、翻訳は専門家に頼んでそれを チェックし、慣れないIBM-PCで私が入力してレイアウトするといったまったくの手づくりの英文ニュースレターのスタートだったが、すぐに米ソ両大使館 から申し込みがあるなど、内容はまずまずの好評だった。しかし購読者を増やすのは大変で、途中経過を一切省けば、ちょうど5年間、さんざんな苦労をして 60号まで出した挙げ句、数千万円の借金を残して撤退することになった。しかし歳川は同誌への愛着を捨てがたく、(株)インサイダーから独立して自ら会社 を興し『Tokyo Insideline』という名称で発行を継続することになった。歳川はその後、同名の日本語ニュースレターも刊行し、それらには経済ジャーナリストの須 田慎一郎らが協力した。97年2月に至ってインサイドライン英語版は終刊した。東洋経済新報社が『Tokyo Business Today』を廃刊したあと、同社ニューヨーク支局長のピーター・エニスが編集長となって『The Oriental Economist』という旧名を冠した月刊の英文ニュースレターの刊行が2月から始まり、歳川はその東京特派員として寄稿することになった。
この時に、アスキーの西和彦社 長が、我々との契約を記念して、当時の最新型だったNECのパソコン9800RX4をモデム付きで事務所と私の自宅に据え付けてくれた。私のパソコン歴に 触れておくと、81年からエプソンのワープロで原稿を書くようになった。やがてワープロでは物足りなくなって、83年に日本IBMが最初のビジネス向け日 本語DOSパソコン5550を出すとすぐに事務所に2台導入し、原稿書きや読者管理に使い始めた。BASICをかじってDOSファイルをいじくり回さない と動かないし、JXというIBMの日本語システムも使い勝手が悪くて、悪戦苦闘したことを思い出す。で、88年に西さんから98マシンを貰って、さらに自 分でもその頃出始めたばかりの98ノートを買っていっぱしの電子生活を送った。この当時は国内に見るべきデータベースもなかったので、もっぱらThe Sourceはじめアメリカのデータベースを使った。そのためには(何と呼んだか忘れたが)特別の回線をKDDと契約してべらぼうな料金を払わなければな らなかった時代である。
あるとき西さんと食事をする機 会があって、私は「日本とアメリカのデータベースを比べると、検索のキーワードの立て方が天国と地獄くらい違う。日本のは、新聞で言えば見出しの言葉だけ キーワードに拾っているだけだから、全文呼び出して読んでみないと本当に必要な記事かどうか見当がつかない。アメリカの優れたデータベースは、恐らく内容 を理解しジャーナリスティックな感覚を持っているプロがキーワードを拾っているので、時間も手間も半分か3分の1で効率よく必要な記事を集められる。キー ワードづくりというは1つの文化だが、日本はそこまで行っていない」と言った。彼は「そうか。それは気が付かなかった」と言って手帳にメモしていたが、日 本のこの点での立ち後れは今もまったく変わっていない。
というわけで、私の98時代が 4年ほど続いたが、92年の春、あるパソコン雑誌に「Geocartという地図作成ソフトが近く発売される」という小さなニュースが出ていた。記事による と、それには何十という地図の図法が組み込まれていて、世界全図でも部分図でも好きな図法を使って自由に地図を作り、自分で色づけすることも出来るとい う。かつて『世界地図の読み方』のテレビ番組を作るときにCGで地図を作るのがいかに大変なことかを体験していた私は、「これが欲しい!」と叫んだ。が、 よく見るとそれはMac版。当時はグラフィック関係はほとんどMac中心で、調べてみると他にもMacGlobeとかWorldAtlasとか、世界地図 帳のようなMac版のソフトも出ていることが分かった。ちょうどその頃、何かの仕事で若手のMac評論家として売り出し中だった大谷和利君が事務所に出入 りしていて、いつもMacのパワーブックを持ち歩いていたので、ちょっと触らせて貰って、その場で「よし、Macに転向しよう!」と決断、翌日秋葉原に 行ってパワーブック170を買った。その頃のことだから、モノクロ画面の本体だけで56万8000円、プリンター、カラーモニター、カラー接続用のアダプ ター、外付けのCD-ROMドライバーなどを合わせると100万円を超えるという、今では信じられないような買い物だった。しかもこの頃はMacも使いや すいとは言えず、販売店やアフターサービスも不親切で、セットアップに大変な苦労をした。大谷君が『MACLIFE』というMac専門誌の92年9月号の 連載コラムで「高野孟氏のパワーブック170購入顛末」を書いてなぐさめてくれた。以来、私個人だけでなく事務所もMac一色で、最近は仕方がないので Windowsも使うけれども、事あるごとにみんなで「どうしてWindowsはこんなに馬鹿なんだろう」と言い合っている。
毎月最終金曜日の25時からの 討論番組「朝まで生テレビ」は、その1年前、87年の4月に始まった。最初のうち私は出ていなかったが、87年12月の「天皇」問題あたりから準レギュ ラー的に出るようになった。また88年10月には日本テレビで日曜日朝8時から中村敦夫と木村優子の司会で「ザ・サンデー」という情報番組が始まり、桂文 珍、兵藤ゆき、私がレギュラーになった。この番組は最初のうち思い切って金を使って海外取材を展開したので、私も、ベルリンの壁の崩壊、ルーマニアの独裁 者チャウシェスクの処刑、ドイツやハンガリーの初めての自由選挙、エストニアはじめバルト3国のソ連からの独立運動、パナマの独裁者ノリエガの逮捕直前の インタビュー等々、冷戦崩壊に揺れる世界を駆け回り、ずいぶんいい体験をさせて貰った。が、90年8月の湾岸危機から91年1月の湾岸戦争にかけて中村も 私も米ブッシュ政権と多国籍軍に対して批判的な論調を繰り広げたのが読売新聞には気に入らなかったらしく、91年3月に私が番組を降ろされ、半年後には中 村も辞めてしまった。その番組は、まったく骨抜きの通俗的なワイドショーに衣替えして今も続いている。
91年10月にTBSが生島ひ ろしの司会で月曜から金曜までの朝7時から1時間半の「ビッグ・モーニング」という新番組が始まり、曜日毎のニュース編集長という役回りで水曜日を担当す ることなった。他方、91年4月から名古屋の東海テレビで、毎週土曜日の深夜、田原総一朗、月尾嘉男東大教授、大礒正美静岡県立大教授といった勉強会仲間 が順繰りに出る「世界が見たい」という番組(中京地方のみ)が始まり、半年後にこれが土曜日朝10時から1時間の「高野孟のワールド・インサイダー」とい う私が主宰する情報トーク番組に衣替えし、さらに92年4月からは(株)インサイダーで丸々制作を請け負う形で同じ時間に東京から生放送する「週刊大予 測」に発展、私と蓮舫の司会で毎回ゲストを招いてトークをしたり、スタジオにMacを持ち込んで自家製のCGで世界の焦点の問題を解説するコーナーを設け たり、それまでやりたいと思っていたテレビでの実験をいろいろ試みた。それはまた地方局発信の生番組を東京のスタジオから送り出すという点でも画期的だっ た。番組はなかなか好評だったが、局の都合で93年3月一杯で打ち切りとなった。
TBSの「ビッグ・モーニン グ」は3年間続いて、94年9月で終了した。ところが今度は、ほぼ同じ時間帯(6時45分〜8時)のテレビ朝日「やじうまワイド」の水曜日のコメンテイ ターをやることになり、96年4月から週に一度、4時半に起床するという生活が再び始まった。
こうして振り返ると、田原さん との付き合いを中心としてテレビの仕事に本格的に取り組み始めて10年余りになる。ここには私の出演番組の変遷を記したが、この間に(株)インサイダーは 西城鉄男をヘッドに映像部門が出来て、東海テレビの番組制作だけでなく、あちこちの番組の海外取材ものを中心としたドキュメンタリーの制作にも経験を積ん だ。こうした蓄積を、デジタル多チャネル時代を迎えて小資本・小企業でもやり方次第でオリジナルな発信を行うことが出来るようになってきた中で、どう活か していくかがこれからの大きなテーマである。
私の説では、冷戦下で米ソを先 頭に各国が核兵器をも含めて重武装して激しく利害を競ったのは、1つの目的に向かって国民を総動員する近代国民国家システムの行き着く先だったのであり、 冷戦が終わることによってその基礎にある近代国家もまた終わりに近づいていく。そこでは、相変わらず冷戦時代の思考を引きずって“国益”の囚われ人である ことを止められない人々と、平和、環境、人権、貧困の克服など地球普遍的な価値の形成に重きを置いて、そのためには国家の枠組みを無視し、あるいはもしそ れが邪魔なら壊してでも行動しようとする「地球的に考えて、地域から行動する(Think Globally, Act Locally)」ような人々との対立・抗争が時代の軸をなす。そして、その後者の人々の中心は、どうも「1968年世代」――西側世界ではその年に最も 高揚した「ベトナム反戦」の運動に何らかの形で関わりながらそれぞれに自国の戦後秩序の耐え難さに異議を申し立てようとした若者たちであり、東側世界では その年に起きた「プラハの春」をソ連赤軍の戦車が踏みにじるのを見て「人間の顔をした社会主義」の到来の余りに遠いことに絶望しかかった若者たちではない のだろうか、というのが私の問題意識だった。
そうは言っても、日本でも 「68年世代」が政治の舞台に少しずつ登場し始めていた。89年夏の参院選と90年冬の衆院選を通じて、労組出身の高齢者が中心になっていた社会党に、弁 護士や医者やその他いろいろな社会分野で経験を積んだ全共闘世代の人々が1つの塊として入ってきて、すぐに「ニューウェーブの会」を結成して執行部の党大 会方針案に意見書を提出するなど、めざましい活動を開始した。
私はそれまで、社会党という政 党にほとんど関心を持たなかったが、ニューウェーブの中に学生運動時代の仲間だった人たちが含まれていたこともあって、彼らの勉強会に顔を出したりした。 フランスの「カルチェラタンの世代」は早くも70年代初めに仏社会党の再建に取り組み、その10年後にはミッテラン政権を作っていたし、ドイツの「SDS(社会主義学生同盟)世代」もそれから少し遅れて独社民党の政策と体質の転換を促す主力部隊となっていた。
15年から20年遅れではある けれども、同じようなことがこの日本でも起きて、政治を活性化させる可能性があると私は期待した。しかしまあこの世代の人々は、1人1人が自分なりの意見 をしっかり主張するのはいいのだが、反面、俺が俺がが強すぎてまとまりに欠け、離合集散を繰り返すことになった。
私は(非議員では唯1人)この シリウスの会合にもしばしば顔を出し、92年10月、金丸信・前自民党副総裁が佐川疑獄で議員辞職しそれをめぐって竹下派=経世会が事実上分裂に陥った頃 に、自民党体制の崩壊と政界再編の爆発を予想しつつ、「ネットワーク型新党」の可能性についての最初のメモを作成して仲間たちに配布 した。
改革への期待の中で誕生した細 川政権が詰まらないスキャンダルで94年4月に挫折、後を継いだ羽田政権も2カ月の短命に終わったあと、改革の方向を維持・発展させられるかどうかが6月 政局の焦点になった。私は、あくまで自民党を野党に留めて改革を継続するには、社会党とさきがけが政権に復帰して第2次羽田政権を作る以外にないと考え、 社会党の久保亘書記長とそれを支持する同党のニューウェーブ系を含む中堅・若手も同じ考えだった。
しかし、さきがけの人々は、そ れまで10カ月間に当時は新生党の小沢一郎と公明党の市川雄一のイチイチ・コンビの強引な手法にウンザリしていて、新生党や公明党との政権復元には熱心で なかった。他方、小沢は羽田政権を作り直すよりも、自民党から海部俊樹元首相を引っぱり出して同党を分裂させ、新生・公明・民社の3党と一緒に海部政権を 作るという成算のない陰謀に陶酔していた。
こうした混沌の中で、自民党が 社会党の高齢者グループに密かに働きかけて、自民党が社会党の村山富市委員長を首相に担いで政権に復帰するという奇策を成功させ、自社さの村山政権が誕 生、改革の道は閉ざされてしまった。
このとき私は山花らの要請で コーディネーターを務めた。山花は「来年1月中旬までに新党を結成する」と宣言したが、私はその集まりの前の打ち合わせの段階からそれには疑問があると述 べた。山花新党は、社会党が言わば「社民リベラル」に脱皮することを意味するのか、それともその脱皮と同時に海江田らの言わば「市民リベラル」やさきがけ などの「保守リベラル」が一挙に合流してまさに「民主リベラル」大合同が実現するのか――後者を考えているとすれば時期尚早というか、まだそこまでの機は 熟していないのではないか、ということだったが、集会ではその点ははっきりしないまま「新党」結成方針を拍手で採択した。
私はなおその点にこだわり、新 党の意味をもう一度整理したほうがいいのではないかという趣旨の「私なりの総括」をメモして、山花・海 江田のほか社会党の改革派の人たちに配布した。その議論が煮詰まらないまま山花は「自分一人でも社会党に離党届を叩きつけよう」という思い詰めた心境に なって行き、95年1月17日にまさに行動を起こそうとしたその朝に阪神大震災が勃発して、新民連は吹き飛んでしまった。
1〜2回あとから私も呼ばれ、 さらに4月に入ってかつてニューウェーブの中心にいた仙谷由人=前衆議院議員(当時落選中で現民主党企画局長)、五島正規=社会党副書記長(当時)、それ にさきがけの市民派若手の高見裕一(当時落選中)が順次呼び込まれ、横路の私設秘書的な立場にあった松本収(現民主党政調事務局長)を書記役にして赤坂プ リンスホテルで深夜に集まっては熱心に議論した。これが96年10月に結成される民主党の原点である。
しかしいつまで密談だけしてい ても仕方がないということで、参院選が終わったあと7月25日に上記のメンバー全員に新進党の船田元を加えて公開シンポジウムを開催し、同フォーラムの事 務所も構えて公然と活動を始めた。
他方、東京では、その7月参院 選では、さきがけは中村敦夫、海江田のローカル政党「東京市民21」は見城みえ子、社会党は鈴木喜久子、をそれぞれ立てて健闘したが、同じ層を食い合う格 好で3人とも落選した。さきがけ東京代表の菅直人と海江田と社会党東京委員長の村田清順が3人の候補者を慰労するために開いた会食の席で、3人の票を合わ せれば100万近くになること、3党がバラバラで闘えば衆院選でも同じようなことが起きて、自民・新進の保守2大政党制が東京で真っ先に成立する可能性が 大きいことなどが話題になり、何としても3党が協力して東京に「第3極」の芽を作らなければならないとの合意が出来上がった。それで8月末にその3党に東 京生活者ネットなど市民派も含めて「リベラル東京会議」が結成された。私はここにも引っぱり出され、「選挙区調整委員長」という面倒な役目を負った。
問題の本質は新民連のときと同
じで、久保には社会党内で徹底的な党内闘争を仕掛けて血を流して同党を変えようというつもりは毛頭なく、外から我々のような人間を寄せ集めてマブすことで
社会党が新しい何かに変わったかのようなフリをしようとしているだけであることが明らかになった。加えて6月に入って国会で、自社さ連立の名において全く
愚劣きわまりない内容の「戦後50年決議」が採択され、私はプッツンしてしまって、新党準備会への「辞退届」を出した。
私の社会党新党運動との決別は、いくつかの新聞がニュースとして採り上げるほどのちょっとした“事件”となった。
その協議会は丸山を中心にその 後半年間続けられ、社会党は何度か先延ばしした挙げ句に翌96年1月19日に新党に踏み切るとの方針を決めた。そこで12月18日に「新党結成プレ集会」 なるものが開かれ、村山富市首相=社会党委員長が挨拶に立ったものの、赤松に「お前がいるから新党が出来ないんだ!」とヤジられ、さらに続いて登壇した丸 山に「社会党は嘘つきだ」と罵倒される始末だった。
この時点で、村山=社会党と武 村=さきがけが合流する形での「新党」運動は完全に破綻した。そんなものが仮に出来たとしても、若い有能な人たちは誰も付いて行かず、自民党に呑み込まれ て「自民党村山派」のようなものになり終わることは目に見えていた。そこでリベラル・フォーラムとしては、村山・武村の動きにも、社さ合同という路線に も、一切幻想を捨てて、21世紀の新しいリベラル政治を創り出そうという決意を持った個々人が自らの信念に従って結集する以外にないという方向を確認し た。
そこから、鳩山由紀夫を軸とし た「民主党」結成への動きが本格的に始まった。5月から8月にかけて、何度も挫折しそうになりながら進んだその水面下の協議の真相は、いずれ詳しく語るこ とがあるだろう。ともかくも8月末に至って、それまで村山・武村を無視ないし排除して新党を作ることに賛成でなかった菅直人が合流することになり、私が原 案を執筆した「理念」についても 鳩山と菅の間で合意が成り、一気に9月中旬の民主党結成準備委員会の旗揚げに進んだ。
しかしジョークの分からない人 がいるもので、ジャーナリストのくせに出すぎたことをして生意気だという批評もあった。また、ああいう一党一派に片寄った人間がテレビの番組で政治につい て論評するのは好ましくないという自民党筋からの批判も出て、ビビッたテレビ朝日は「選挙期間中はサンデー・プロジェクトへの出演をご遠慮願いたい」と通 告してきた。私は、自分が職業としてジャーナリストである以前に、人間として一個の市民であり、自らの信念に従って政治ボランティアとして働く権利も義務 もあると考えているが、それを言って分かる相手ではないので、黙ってその通りにした。
まあとにかく「民主党」は面白 い体験だった。出来上がった党が、私が思い描いていたものとはだいぶ違っているのは仕方があるまい。2、3度の選挙を経るうちに勢力と能力を蓄えて、遅く とも2005年頃までには彼らが政権をとって、そこから何かが始まるだろうと期待している。(未完/以上「第1部」は98年に執筆)