M.アレクサンドラ
私は、1983年にミンスクで生まれました。好奇心の強い子どもで、学校に通う前から自分で読み書きを覚えました。そのころ他の子どもたちはお人形で遊んでいましたが、私は物語を書き、子ども用のクロスワードを解いていました。そして家のすぐ近くにある小学校に通い始めました。私はいつも喜んで勉強をしました。大変だと思った事はありませんでした。特に外国語が得意でした。ほんの小さい頃は医者になるのが夢でした。それも母のような歯科医ではなく、心臓病学とか神経病理学などに興味をもちました。手術後の1993年には腫瘍学に興味がありました。心理学者とかジャーナリストにもときどき。さらに私には外国で英語を勉強するという夢もありました。でもそれが実現するのは難しいことはわかっていました。
1997年夏に、私は保養の為にイギリスに行きました。そこで私を受け入れてくれた家族と親しくなり、そこの家の主人のエドリアンは私にチェルノブイリ事故のことをたくさん話してくれました。私はそれまで知らなかったことをいろいろ知りました。被害者の数、放射能の半減期、放射能の塵、放射能と突然変異の関係、ガンと先天性異常・・・。ベラルーシで子どもを生むことは危険だと私は理解しました。私はこの事故から逃れることのできない自分たちの民族の悲しみを感じました。
その頃私の将来の職業の見通しは変わりました。もし私が病気を治療したいと思ったら、病気の原因を解明し取り除くことがより重要であるということを、私は理解しました。そして特にガンを。
イギリスのチェルノブイリ基金の代表は半学期でも外国で勉強したいという私の願いを知り、私がその町の普通の中等学校に通えるよう尽力してくれました。言葉の問題はありませんでした。私の母は、私が良い環境の国である期間暮らし外国語を学べることをとても喜びました。私はその学校で2年間良く勉強し、その後さらに2年間隣の町の私立学校に招待されました。そこで私は真剣に将来の学業の為に準備をしていました。空いている時間には科学雑誌を読み、インターネットで検索サイトを見ました。私の受入れ家族は、私がイギリスの大学に入学し学業を続ける為のスポンサーを探そうとしてくれました。しかしスポンサーを見つけることはできませんでした。2002年夏に私は家に帰りました。それからベラルーシ国立大学の学部準備クラスに入りました。その年の学部選考は終わってしまっていて、もう遅かったのです。丸1年、私はイギリスでの教育を続けるという希望を失っておらず、他の基金や企業にお願いの手紙を書いていました。でもどうにもなりませんでした。
2003年に私はベラルーシ国立大学生物学科に入学しました。それは私が夢見たことではなかったにもかかわらず、勉強はとても面白いです。最初の2年間は基礎で、植物学、動物学、心理学、それから科学以外の科目の歴史、倫理学、ラテン語を勉強します。残念ながらガンのメカニズムの研究は私たちの大学ではやっていません。もう2年間ゲーテ・ドイツ語専門学校でドイツ語を勉強しています。ドイツでは高等教育はまだ無料ですから、私はそこでベラルーシの卒論を基礎に修士を取りたいと思っています。
ガンとの戦いという小さな思いへの希望は失っていません。全ての国の人々は問題を抱えていますが、特に今のベラルーシにとっては。
私にできるでしょうか。
R.イワン
私は、ベラルーシ民族技術大学の学生です。 私は若者が将来の職業を選択する際に役立つようにと思い、自分の将来の職業を技術教育の教師となることに決めました。自分の基本的な課題は、労働と創造活動への愛を自分の将来の生徒たちに教え、我が国においてはそれが国の福祉に向けられたものであればどのような仕事でも尊いものであることを彼らに教えることだと考えます。また、チェルノブイリ事故で被害を受けた子どもたちのための夏のキャンプなどで、民芸品を作る教室の指導者としての役割もしてみたいと思っています。
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