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ベラルーシ「ナデジダ(希望)」☆
期間:2004年7月25日〜8月20日(24日間)
参加者:90人、年齢18〜21歳 (救援団体「チェルノブイリのサイン」30人+付添3人、救援団体「困難の中の子どもたち」60人+付添4人
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支援対象(特別保養):子どもたちの滞在費、交通費、「特別授業」講師の給料
支援対象(通常期間):保養する子どもたちの全保養費のうち7%、ビタミン剤
これまでの支援:コンピュータ、医療機器(超音波診断機、心電図測定器、肺機能測定器、眼科検査器)、バス、救急車、宿泊棟建設増設工事、文化・スポーツ施設建設、シンセサイザー、ミシン、焼物の釜
保養所の概要
1年中利用されている学校保養所です。ベラルーシとドイツの福祉団体の共同経営で、子ども基金も設立当初から運営の援助をしています。首都ミンスクの北約60キロの、森と湖に囲まれた場所にあります。ベラルーシの汚染地に住む子どもたちが学校単位で24日間滞在します。学校の授業と、健康回復のための保養プログラムを行っています。専門のスタッフが常時勤務しています。
通常の保養期間中(汚染地の子どもたちの保養)、午前中は学科の授業が行われます。その合間に決められた医療検査、歯科治療、水治療、サウナ療法、心理療法などが行われます。午後は自由時間です。クラブ活動(スポーツ、芸術活動)や色々な催し物に参加できます。今一番人気のあるクラブは「シンセサイザー」「コンピュータ」「木工細工」です。特に「シンセサイザー」は、村から来る子どもたちにとっては生まれて初めての経験で、いつも希望者がとても多いそうです。夜のディスコも人気があります。また、スポーツ・文化施設が建設されたことにより、雨や雪の日でも様々な催し物やスポーツ活動を屋内で行うことが可能になりました。
夏の期間の1日の過ごし方は、通常期間と違って学科の授業はありません。午前中は決められた医療検査、歯科治療、水治療、サウナ療法、心理療法が保養プログラムの一環として行われます。午後は自由時間にはさまざまなクラブ活動、催し物、ディスコ等に参加することができます。子ども基金の招待での「特別保養」の期間中にも、汚染地の学校から保養に来た8歳から16歳までの子どもたちが滞在していました。
保養参加者たちからの声
○ 毎年私たちを保養に招待してくれる日本の方々に心から感謝しています。
○ 私たちのことを心配し助けてくれるあたたかい心がこの世界に存在していることに感謝します。
○ 医科大学の学生。自分のような病気の人たちを助ける仕事をしたい。
○ 教育学部で勉強している。チェルノブイリ事故で被災した子どもたちのために働きたい。
○ 素晴らしい保養をありがとうございます。これからも続けてほしいです。
○この悲劇を忘れずいてくれて、そして事故で被害にあった子どもたちを助けてくれてありがとうございます。
<チェルノブイリ事故についてどう思っているかという質問に対して>
○ チェルノブイリ事故のようなことは、もう二度とどこにも起きてほしくない。あまりに多くの悲劇をもたらした。
○ チェルノブイリ事故のことは思い出したくも話したくもない。たくさんの悲しい思い出と結びつきすぎているから。
○ この恐ろしい事故はベラルーシ人にとても多くの悲しみをもたらした。でも最も恐ろしいことは、これが未来の世代にも影響を及ぼすことだ。
○ 起きたことはすべて恐ろしいけれど、何より恐ろしいのは、その後のことすべて。
特別授業
「甲状腺手術後の子ども・若者のための特別保養」期間中、参加者を対象に下記のような「特別授業」が実施されました。将来の職業に少しでも役立つような内容を、ということで現地スタッフたちと検討し授業内容を決めました。実施機関は2004年8月1日〜8月17日(土曜日を除く15日間)、下記括弧内の数字は参加人数です。
・ デジカメ教室(21人)・コンピュータ・デザイン教室(10人)・マッサージ教室(45人)・裁縫教室(11人)・美容教室(40人)
<「特別授業」参加者の感想>
○「デジカメ教室」アントン(男性、19歳、学生):デジカメを使うのは初めてです。とても面白かった。多くのことを学びました。このようなことを計画してくれた日本の基金に感謝します。
○「マッサージ教室」ディーマ(男性、19歳、学生):自分は医学部で学んでいて、将来医師になりたいと思っています。マッサージの知識はきっと役に立つと思います。
○ 「裁縫教室」:スヴェータ(女性、18歳、学生):家でも縫い物をすることはありますが、ミシンがありませんのでいつも手縫いです。ここでミシンの使い方を覚えました。
子どもたちの検査結果
保養に来た子どもたちは健康診断を受けます。その結果に応じて保養所内の医療施設で行うことのできる治療を受けることができます。子ども基金の支援した医療機器による検査も行っています。それぞれの子どもの検査結果と今後の治療への助言は、同行の付添いを通して居住区の保健施設へ渡すことになっています。2004年1月〜8月に実施された検査の結果は次の通りです。
・超音波診断装置:1842人の子どものうち甲状腺の病気が発見されたのは333人(そのうち今回初めて病気が発見されたのは100人)
・心電計測器:626人の子どものうち異常が発見されたのは47人
*ナデジダの医師の話:「チェルノブイリ事故から18年も経っているのに、このような結果が出ます。またベラルーシでは最近、心臓病、腫瘍疾患、呼吸器系の病気が増えています。」
問題
○「希望21」マクシンスキー所長からは次のような意見が出されました。「子ども基金の特別保養はとても重要です。これからも続けていきたいと思っています。しかし特別保養の年齢枠を20〜21歳とするのは来年を最後として、その後は17歳(例外18歳)までにするべきだと考えます。20〜21歳は、就寝時間、その他の規則が子どものための保養所であるここではもう対応できません。」
⇒ベラルーシでは18歳になると成人とみなされ、それまでのチェルノブイリ事故で被災した子どもへの「障害児年金」は打ち切られます。その後は新たに「障害者」として認めるかどうかの審査があり、認定されると障害の段階に応じた「障害者年金」を受けられ、認定されなければ手当ては全くなくなります。どちらにせよ、国の援助での「保養」はもうなくなります。(これは子ども基金の主催する「特別保養」とは別の話です。ベラルーシのチェルノブイリ被災児童は、国内の保養所で学校単位や親子で保養する機会が与えられています。)国の援助の保養も、子ども基金の保養もなくなると、彼らの保養の機会はほとんどなくなります。自分でお金を払う以外にはないようです。マクシンスキー所長は、甲状腺手術後の青年たちの特別保養の必要性は十分承知しています。しかし“子ども”のための保養所である「希望21」が受け入れるのは、もう限界にきていると考えています。一方、参加者たちは他に保養の機会を得るのは難しいことがわかっているため、年齢枠を上げてほしいと願っています。この問題は数年前から始まっています。元々、「希望21」は16歳までの子どものための保養施設です。それをこれまで、夏の「甲状腺手術後の特別保養」の参加者だけ、年齢枠を引き上げてきています。そろそろ施設の受入れにも限界がきているようです。今後は別の方法での支援を検討しなければなりません。
○村から来る子どもたちは、「村の大人はみんな酒を飲んでいる」と言っているそうです。冬に軽装でやって来た子どもに「希望21」から衣類や靴を与えても、家に帰ると親はそれを売ってしまい、酒を飲むためのお金に換えてしまうこともあるのだそうです。
救援団体の問題
子ども基金では、「里親制度」と「奨学生制度」を通して甲状腺手術後の子どもたちの医療費や学費を支えています。その枠外の支援もあります。重い障害の子どもを抱える家族、孤児になった兄弟、母親が亡くなり子どもが病気の家族等を「緊急支援」として支えています。また、事故当時子どもだった世代が、今は自身が子どもを生む年齢になっています。今後は若い家族への支援を検討しています。ベラルーシの救援団体と話した時に出された問題点を紹介します。
チェルノブイリのサイン(ミンスク市)
○ 薬購入の問題:法律が改正され、以前より高い金額で買わなければならなくなった。 薬購入のライセンスのない団体は一般の人と同じように薬局で買わなければならなくなった。ビタミン剤が不足している。去年の場合、必要な全員に行き渡らなかった。
⇒今年度に支援した金額では全員に行き渡らなかったとのことでしたので、来年度の支援要望アンケートでは、ビタミン剤の支援要望金額を全員に行き渡るのに必要な金額で出すようにと、こちらから要請しました。
○ 家賃の問題:以前救援団体は家賃支払の免除があったが、今はなくなった。
⇒家賃は子ども基金が援助しています。
困難の中の子どもたち(ゴメリ市)
○ 国からの支援打ち切りの問題:ベラルーシの大統領が、今まで汚染地と指定していたある地域はもう住んでも大丈夫と宣言しため、それまでその地域に住む子どもにあった被害者年金が打ち切られた。復活するよう請願の手紙を書くつもり。
○ 最近、1年以上入院していた母親が亡くなった家族がいる。父親と3人の兄弟が残された。一番上の子どもと父親も病気。父親は看病の為、定職についていなかった。農村地に住む家族で、家畜と菜園の野菜で暮らしている。家に行ってみたらシーツさえなかった。支援を検討してほしい。
⇒(この団体も他の団体と同様、病院を訪れ支援の必要な子どもを探す活動をしています。) この家族については、「里子支援」「奨学生支援」とは別枠で「緊急支援」と決定しました。
○ 「希望21」で保養できない甲状腺手術を受けた若者たちを、ウクライナの「ユージャンカ」で保養させてほしい。
⇒2003年に一度実施している。「チェルノブイリのサイン」の団体とも相談し、検討していきたい。
現状と今後
農村地に住む多くの人々は元々自給自足に近い生活をしていましたので、収入は低くても何とか暮らしていました。今でも農村地だけでなく町に住む人々も、郊外の菜園などで家族の食べる野菜など作っている人は多いです。しかしチェルノブイリ事故の後、病気の子どものいる家族にとっては、医療費(病院までの交通費も含めて)の負担、その上インフレや失業の問題もあり、人々の暮らしは大変厳しいものです。汚染地に住んでいる人の場合、その土地の水や食べ物から被曝してしまいます。(きれいな土地に住んでいると思っても、汚染地でとれた食品と知らずに食べたら同じことです。)“高濃度”汚染地は住むことが禁止されています。しかし、住むことが許されている“低濃度”汚染地であっても“汚染されている”ことには変わりありません。長い間汚染された食べ物を体に取り込んでいるのです。また人が住むことが禁止されている土地であっても、放射性物質は土壌から地下にしみこみ、川に流れてやがては・・・。
チェルノブイリ事故の被害とその影響は、深く知れば知るほどもっと恐ろしさを感じます。今年の夏に特別保養に参加していたベラルーシの19歳の女性は、イギリスの救援団体の招待で保養をした時、ホームステイ先の家族から事故についてそれまで知らなかった色々なことを教えてもらったそうです。手紙にこう書いています。「チェルノブイリ事故のことを、海外の保養先で初めて詳しく知りました。そして、ベラルーシで子どもを産むのは危険だと思いました。」このような結論を出さなければならなかった時、彼女はどんな気持ちだったでしょう。広河さんは本の中で「この事故の全貌が明らかになる前に、自分たちは死んでしまっているのではないかと思うことがある。」と書いています。「でも絶望しているわけにはいかない。人々は病におち、そして死んでいこうとしている。私たちは手を休めるわけにはいかない。なぜなら彼らの生存と私たちの生存はひとつにつながっているから。彼らが助かることは、私たちの地球の上に生きるものすべてが未来をもつことでもあるからだ。」この言葉こそ、チェルノブイリ救援活動の原点なのだと思います。自分のような病気の子どもを助けたいと勉強している医学生、専門を活かし家族を助けるために働きたいと勉強している学生、新しい家族を作った若者たち。それぞれの未来のために、「今何が起きているのか、何が必要なのか。」ということを常に中心に据えた活動を続けていきたいと思います。
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