2006.4.19〜23 ミンスク 共和国宮殿
4.20〜22 ゴメリ 社会文化センター
出発まで 49回に及ぶ現地入りで撮りためられた膨大な写真の中から、どれを選択するか。当事者が参観する可能性への配慮、20周年を機に、悲劇を伝えるより「幕引き」にしたいベラルーシ政府主催の国際会議場での展示、覚悟はしていたが予想以上のブレーキ。「希望のある写真を、明るい写真を」という主催者からの難題を「子ども基金」の長年の理解者協力者である、日本大使館の花田さんにお世話になりながら、何とかクリア。「悲劇は悲劇として伝えるしかない」という広河さんの信念は貫けたと思っている。全倍写真40枚+半切サイズ40枚、総重量105kg(※1)を、女ばかり7人の手で飛行機に積み込む。
設営 「希望21」の車に迎えられて会場へ。現場に立つまで、展示方法が把握しきれず不安を払拭できなかったが、会館の職員さんの手際よい主導と現地の日本語学科学生(※2)の応援を得て、無事終了。露・英・日語のキャプションを添えた大型写真の迫力は、作業中に、すでに学生たちや会館職員さんの心を激しく捉えていた、感があった。その姿にここへ写真をもちこんでよかった!と実感。
オープン 公表2000人の国際会議参加者プラス一般市民の来場、学校や子ども施設などから教師に引率された少人数団体がいくつも来観。ミンスク会場は4日間で約1,000人が来場。写真の観覧だけでなく、3月に広島で開催された写真展会場から寄せられたメッセージ(鳩のデザイン※2)の前では、学生の通訳により、中身の濃い対話交流も実現していた。会場に置いたノートにも書き込みをする人が多かった。
ゴメリ会場 ミンスク会場と同じ写真の半切サイズ版を、2日目の国際会議場になったゴメリに運び、展示。汚染地を抱えるゴメリは、会議場に連なる広いホワイエに、さまざまな市民団体の取り組みも展示されていた。首都ミンスクの官庁街よりも、生活臭のある市民の来館が多かった。身内にリクビダートル(事故処理作業員)を持つ人から不安や悲しみを切々と訴えられたり、避難の修羅場を体験されたらしい方が写真を観て「この写真はきれいすぎる、こんなきれいなものではなかった」と怒ったように言われるのも聞いた。一つひとつの写真の場面に心当たりがあるらしく、地図まで持ってきて位置関係や状況を話される方もあつた。若い世代はともかく、このゴメリでは、ある年齢以上の方にはキャプションが不要だったのかもしれない。一人ひとりの市民の暮しのすぐそばに、あるいは生活を侵して深い悲しみがある町、それがゴメリだと改めて思った。夜の20周年コンサートも、ちょうどウクライナの「チェルボナカリーナ」のような子ども音楽団によるチェルノブイリ表現をかわきりに、有名無名の(という感じ)市民が入れ替わり立ち代り舞台に上がり、それぞれの思いの鍵「表現」が深更まで続いた。
その他 今回は、写真展だけのためのベラルーシ訪問とはいうものの、一晩は「希望21」で保養中の子どもたちと交歓できたし、ゴメリでは家庭訪問やホテルへの来訪を通じて、5人の里子・家族との交流もできた。汚染地の小さな家で、里子本人だけでなく父も母も不健康、「祈り」を力に生きていますと言われる家族、母はアルコール依存症(汚染地で多い)で施設入所中という父子家庭など、華やかな国際会議とは無縁のまま、放射能被害との闘いを続けている人々にも出会った。救援活動はまだまだ、まだまだ続けなければならない。費用一切自己負担で、重労働の旅に参加してくださつたボランティアさん方に感謝!
【事務局注】
☆今回の参加者名は以下の通りです。伊藤展子(愛知)、鈴木由利子(神奈川)、中井風子(千葉)、福島恵美子(東京)、佐々木真理・宮西いづみ・向井雪子―以上事務局
※1 梱包された写真は、ルフトハンザドイツ航空のご好意により、往きは7人の荷物として運んでいただきました。この場を借りましてお礼申し上げます。帰りは超過料金が生じました。
※2 のべ10人の学生が交代で参加。
※3 このメッセージはその後「希望21」に贈られました(14ページをご覧ください)。
感想ノート・インタビューより / ボランティア参加者の報告
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